2代 勝義邦内閣
2代 勝義邦内閣 (2539(明治12・1879)年6月23日~2540(明治13・1880年8月19日)
▽来歴・概要
元幕臣。勝海舟の名で有名。
板倉勝静が老齢を理由に退陣した後に組閣。勝内閣の初仕事は、前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントの迎接であった。板倉は老齢を理由に退陣したが、一説には、英語が話せる勝に首相職を譲り、直接会見を行ってもらう意図があったと言われている。グラント元大統領は明治天皇に謁見したあとに勝首相とも会見を行った。
勝内閣の急所となったのが、明治13年3月の国会期成同盟に対する対応である。勝としては、府県会規則が公布されていたことから、議会政治に関する関心の高まりは、歓迎すべき事案と考えていた。しかし、全国から議員を集めて議会を設置するというのは時期尚早と考えていた。議会に対する完全形で立法権を担わせるつもりはなく、民情の把握には府県知事を招集する地方官会議で充分であり、問題については放置することを意識していた。
一方、地方官会議の元締めである大久保内務大臣から国会の開設は時期尚早であり、世論を煽るような形の国会期成同盟は好ましからざる存在である。今政府が最も重視せねばならぬところは富国強兵・殖産興業であり、上からの改革である。このような運動は、政府のコントロールに置くべきであると主張した。
国会期成同盟による国会開設の請願に対しては勝内閣は受理せずとの方針が決まったが、大久保内相を中心とする自由民権運動に対する規制については内閣は割れた。徳川慶喜による調整も入ったが、最終的には閣内不一致と言う形になった。後継首班の推薦に際して、勝首相は明治天皇及び徳川慶喜に対して「(閣内不一致は大久保が我を通したからであり、)大久保にこの難局を仕切らすべきである。」と奏上した。
▽在任中の主な出来事
・グラント前米大統領来日
・横浜正金銀行の創業
・国会期成同盟の設立
▽内閣の出した主な法令
・外務省官制改正(公使は親任官)
・刑法、治罪法制定
▽内閣の対応した帝國議会
・帝國議会設置前
△内閣閣僚
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