4代 第一次小栗忠順内閣

4代 第一次小栗忠順内閣 (2541(明治14・1881)年12月3日~2544(明治17・1884)年11月17日)

▽来歴・概要

 元幕臣。華族令制定により子爵。

 自由民権運動の激化とともに退陣した大久保の後を受けて、組閣した小栗政権は、国会開設のための準備調査の必要性を強く認識した。小栗は、明治15年3月に元長州藩出身の伊藤博文に対して、欧州列強諸国の憲法制度の調査研究と、欧州遊学後に憲法草案の起草を行うように指示した。伊藤は、西欧諸国を歴訪し、ロシア、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、イギリスの各国を渡り歩き、其々の政治制度をつぶさに知らべあげた。これが、伊藤が帰国後に枢密院議長・首相として権力の座に長く座ることになることに繋がる。伊藤は、2年後の15年3月に帰朝した。

 幕末幕臣の三英傑とも言われている小栗は、帝国海軍横須賀鎮守府の設立の父としての顔も持つ。横須賀鎮守府の核であるドック設備が彼の建言で設立されたことに由来する。すなわち、幕末期に殖産興業の重要性を認識していた人物である。

 小栗は、全国の流通網の整備を政策課題として掲げていた。江戸幕府は、寛政期の松平定信による旧里帰農令や天保期の人返し令など時折江戸から地方への人口流出を意図する法令を発していた。江戸への流入者が農村の人口を減少させ、農村の疲弊を回復する木艇があるとともに、人口が増え続ける江戸の治安悪化を食い止める役割もあった。地方では生活が苦しく、出稼ぎのような形で江戸へたどり着いたとしても彼らが食べられるようになるとは限らない。このような人口流入が起こっており、江戸は飽和状態になっていたからである。そのため、職にあぶれた者が江戸には多数おり、彼らが治安悪化を招いているという指摘がなされていた。

 このため、小栗もまた幕吏として、また上野国に所領を持つ旗本として、地方人口の減少に歯止めをかける必要性を強く意識していた。そこで、小栗が政策課題として意識したのが流通網の整備である。都市から地方へ、そして地方から都市へ物を届ける環境を整備することで地方の生活環境を改善することで、地方から江戸への人口流入を食い止めようと考えていた。

 現在も続く華族制度を制定したのもこの内閣である。

 公爵には、公家から近衛、一條、九條、鷹司、二條の五摂家が、武家からは徳川宗家が綬爵した。この他、旧琉球王国の尚家が綬爵した。

 侯爵には、公家からは清華家が選ばれた。華族令制定当初は、三絛家、西園寺家、大炊御門家、花山院家、菊亭家、久我家、醍醐家、広幡家8家が該当した。武家からは、御三家と江戸城登城時の伺候席が大廊下席及び大広間席の家で国主・国持大名の家格を有する家が該当とされ、華族令制定時には以下の30家が綬爵した。

徳川家(尾張名古屋62万石、尾張中納言、大廊下)、

徳川家(紀伊和歌山55万石、紀伊中納言、大廊下)、

徳川家(常陸水戸35万石、水戸宰相、大廊下)、

前田家(加賀金沢102万石、松平加賀宰相、本国持、大廊下)、

松平家(越前福井32万石、松平越前守、大身国持、大廊下)、

松平家(美作津山10万石、松平越後守、大身国持、大廊下)、

島津家(薩摩鹿児島72万石、松平修理大夫・松平薩摩守、本国持、大広間)、

伊達家(陸奥仙台62万石、松平陸奥守、大身国持、大広間)、

細川家(肥後熊本54万石、細川越中守、大身国持、大広間)、

黒田家(筑前福岡47万石、松平筑前守、本国持、大広間)、

浅野家(安芸広島42万石、松平安芸守、本国持、大広間)、

鍋島家(肥前佐賀35万石、松平肥前守、大身国持、大広間)

毛利家(長門萩36万石、松平長門守、本国持、大広間)、

池田家(因幡鳥取32万石、松平因幡守、本国持、大広間)

藤堂家(伊勢安濃津32万石、藤堂和泉守、本国持、大広間)、

池田家(備前岡山31万石、松平備前守、本国持、大広間)、

蜂須賀家(阿波徳島25万石、松平阿波守、本国持、大広間)、

山内家(土佐高知24万石、松平土佐守、本国持、大広間)、

松平家(出雲松江18万石、松平出羽守、本国持、大広間)、

上杉家(出羽米沢30万石、上杉弾正大弼、大身国持、大広間)、

宗家(対馬府中10万石格、宗対馬守、本国持、大広間)、

有馬家(筑後久留米21万石、有馬中務大輔、大身国持、大広間)、

佐竹家(出羽久保田20万石、佐竹右京大夫、大身国持、大広間)、

南部家(陸奥盛岡20万石、南部大膳大夫、大身国持、大広間)。

 伯爵には、公家からは、「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とされ、大臣家3家(中院、嵯峨、三條西家)と羽林家・名家の中から飛鳥井家、勧修寺家など30家が綬爵された。武家からは御三卿(田安、一橋、清水家)と江戸城登城時の伺候席が大広間席の家で准国主・城主の家格を持つ3家(伊予宇和島10万石伊達遠江守、筑後柳川11万石立花左近将監、陸奥二本松10万石丹羽左京大夫)、溜詰・帝鑑間席の城主の家格を持つ家(近江彦根35万石井伊掃部頭、陸奥若松28万石松平肥後守など)59家、大広間席で四品以上の家格を持つ家(御三家連枝伊予西条12万石松平左京大夫など)4家が綬爵された。

 子爵には公家からは、「一新前家を起したる旧堂上」とされ、伯爵以上の基準に当てはまらない家が綬爵した。又、維新後に分家が許された場合で主に公侯爵の分家は子爵となった。武家の場合も同様で維新前に諸侯とされた者は全て対象とされた。

 男爵には国家に勲功ある者が新たに取り立てられた。

 民権運動の余波がくすぶり続ける中で起こった壬午事変は、国内で不平を持つ者の目を海外に向けることに成功した。小栗は地方官として地方の改良に積極的に取り組んでいた山形県令三島通庸に栃木及び福島の県令を兼任させ、県を跨る施策を断行させた。三島は、山形県令時代に、道路・橋梁整備、公共施設の建築、米沢製糸場の設立、サクランボ栽培の導入、那須野ヶ原開拓といった数々の施策を実現させてきた。小栗に乞われて入閣した大久保利通内相の腹心と言った部下でもあり、手腕は確かだった。道路整備事業費案が自由党が多数を握る福島県会の反対で否決されたことを契機として起こった福島事件が勃発したが、小栗も大久保も三島の後押しをした。前年度2.5倍の地方増税と道路整備の公共事業案を福島県会が否決したが、大久保内相は前年度2.3倍の地方増税と不足分の政府支出及び道路整備事業の原案執行を福島県に対して指示した。三島は反対勢力を弾圧して、道路整備事業を強行した。

 その後も自由党勢力との抗争は続いていたが、加波山事件、群馬事件と武装闘争路線に固執する地方急進派と言論による政権獲得を目指す党中央執行部の溝は深まり、ついには、自由党党首の板垣が自由党の解党を決定した。長年にわたる自由党との争いに終止符を打ったと感じた小栗は、もう少し自由な立場から国政の在り方を考えたいと退陣の意思を閣内に表明した。地方急進派を除いても自由党中央執行部の政策は急進的であったと考えられていた。また、大隈重信率いる立憲改進党は、自由党よりも穏健な路線であったが、明治14年の政変での確執があったために、現政府との間に協力関係はなかった。一度立場を退いて、自由党や改進党との関係を再構築できるかどうかの可能性を探る必要があったと言われている。

 後継の首班は、大久保利通の再登板が早期に決定され、引継ぎの作業に移っていたが、そのさなかに秩父事件が勃発する。事件の終息を迎えた11月17日に小栗は大久保に政権を移譲した。

▽在任中の主な出来事

・岐阜事件(板垣退助自由党党首遭難)

・伊藤博文渡欧

・立憲改進党結党

・立憲帝政党結党

・日本銀行創業

・壬午事変

・自由民権運動:福島事件、加波山事件、群馬事件、秩父事件

・自由党解散

▽内閣の出した主な法令

・軍人勅諭発布

・集会条例改正

・日本銀行条例制定

・徴兵令改正

・華族令制定

▽内閣の対応した帝國議会

・帝國議会設置前

△内閣閣僚

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