第25話

「そ、それは――」

「わたしはそれを、知っている。だから君にこうして、斎宮ときみやくんが助かると告げているんだ。君は一人で死にたいんだね。偉い子だ。けれど、そんな必要はない。悲しい思いをした子が、それを隠すために一人でいる必要はない。今ここには、全てを知っているわたしがいる」

「どうして、わたしのことを、そんなに――」

 一人でいる必要はない、今の囀子てんこにとって、それは余りにも温かい、待ち望んでいたような言葉だった。月並みでありながらも、新石以外には語れない言葉。異常識を理解し、彼女の熱を理解する新石でなければ、響きもしない言葉だ。新石がここまで語ったことは、全て取り憑いた異常識を逆算して読んだだけ。ホット・リーディングのようなものである。だが、それは動揺している対象に対しては、絶大な効果を発揮する。

 胸の前で手を握りしめた囀子は、涙を零しながら頭を垂れた。

「わたしは、君の弟に命を救われたことがある。これはほんの恩返しに過ぎない。だから君をこんなにも大切にしている。君を絶対に救うと、彼に言ったから。そしてわたしは彼も救う。君が話さないなら、君を殺してでも斎宮くんを救うつもりだ」

「しんせき、さん――」

 嘘である。もっともそうな、大嘘。けれど、その言葉は真に満ちていた。心の拠り所を求めていた少女にとっては、何よりも大きな拠り所。

 、それどころか、、という余りにも強い共感である。

 だから、もう迷わず、囀子は目の前に垂らされた蜘蛛の糸に縋り付いた。そして新石は、無表情なまま、しめた、と頷いた。

「話します……話させて下さい! おとうとさんを、助けて下さい……!」

 椥辻を人質に取ったことで決心がついたのだろう。彼女の言葉は、切実だった。大粒の涙が見開かれた瞳から宝石のようにこぼれ落ちた。

「だとするなら、君はこの部屋に響き、自分の耳にその声が返ってくるほど明瞭に、自分の全てを告白しなければならない。出来るね?」

「できます、お話、します――私は……」

 ――。

 養父母が、怖かったわけじゃないんです。

 がちがちがちがち。

 その言葉に、空気が震えた。壁面に張り付いた蜂がみな、その言葉に、羽根を震わせていた。

「むしろ、養父が好きでした……お洋服も、全然嫌いじゃなかったんです。私は、お父さんのことを、何も知りません。だから、ずっと、お父さんに憧れてました。小さい頃の友達が、お父さんのこと、大好きだったんです。わたしは、それを見て、いいなって、ずっと、眺めるだけでした」

 囀子の瞳には、誰もがまだ友達になれるほど幼かった頃の景色が浮かんでいた。友達と公園で遊ぶ、そんな当たり前の光景。囀子は母親に嫌われていることを、その頃から自覚していた。だから毎日公園へ行った。そうすると友達がいて、友達のお母さんやお父さんたちがいて、囀子も一緒に遊んでくれた。中でも、特に親しかった友人は、いつもお父さんと一緒に公園に来ていた。友人の父親から撫でてもらう度、おやつを貰う度、囀子は素朴な疑問を抱えることになった。同時に、その手が大好きになってしまっている自分に気が付いた。囀子はそれから、父親のいる子とばかり遊んだ。人の父が、好きだった。

「どうして、お父さんがいないんだろう。きっと、居たら、もっといっぱい撫でてもらえて、抱きしめてもらえて……愛してもらえるのにって。それから、苦しくなって、公園にいけなくなりました。それで、養子縁組が決まった時、私はとっても嬉しかったんです! 子供として、必要としてもらえてるんだって、安心しました。だからなんでもしようって、愛してもらえるようにしようって、心に誓ったんです!」

 囀子から吐き出され、目の前に落ちていた紅い塊がぱっくりと裂けた。それは赤ん坊のような泣き声を上げて、わあわあと泣き出した。それと呼応するように蜂の羽音は大きくなり、ある言葉を纏ってその羽音は意味を持ち始めた。

 ――我に似よ。我に似よ。我に似よ。我に似よ。我に似よ。我に似よ!

 囀子の視界には、いっぱいの虫の目がこちらを覗いていた。大きすぎる望遠鏡のように湾曲した視線が、蛇苺の表面の空を覆い尽くしている。その目から感じたのは、強い怒りだった。まるで、実の母親が怒っているような、怒りに塗れて見開かれた眼球のようだった。

「ひっ、いやあああっ」

 おぞましさに、囀子の声が悲鳴に変わる。さっと視界を袖で遮る新石。

「大丈夫。安心して。ゆっくりでいい。その先を、君の禁忌を、告げるんだ。それこそが、彼らとの訣別を告げる力になる。今こそ君を呪った、の名を教えよう。いざり!」

「はい、お母さん」

「大丈夫、囀子。今からわたしが、この蜂を大人しくさせる」

 その声に反応したのは、階段の影に隠れていたいざりだった。彼は待ち構えていたように、燃え尽きた炭へと水を掛けた。水蒸気と灰を伴った煙が、風通しの悪い地下室の中を燻燻と立ち昇っていく。囀子の視界は薄暗く煤に隠れ、蜂の羽音は一気に静かになった。赤ん坊も、同時に泣くのを辞めた。

「蜂は、煙によって燻されることで攻撃性を喪う――効いているようだ」

 そして、新石はその瞬間を狙っていたように高らかに声を発して袖から一巻きの古文書を取り出した。

 だん、だん。

 新石は床を踏み鳴らすと、腹から太く伸びる声を上げた。

 異常識を巻き込んで、この空間全てを掌握した。

「この異常識、名を告げる。名を『似我蜂じがばちの異常識』。江戸は慶長に書かれた『慶長見聞集けいちょうけんもんしゅう』という記録がある。その一節に、このような記述がある。

 ――似我じがと云虫有、件の虫は蜂の一類也、毛詩に云、螟蛉めいれい子有螺臝から是を朝野に負と云々、彼は他の虫をふくんで、我が巣の中に入れ、呪して似我々々ジガジガといへば、すなはち蜂に成る。

「これは、『似我』という虫が、他の虫の子を連れてきて、『似我似我じがじが』と鳴いておまじないを掛けることでその芋虫を蜂へと変化させる、ということを指している。螺臝からも、似我蜂のことだ。螟蛉めいれいは青虫。この似我蜂、和名にしてコシホソバチ。コシホソバチは芋虫に麻酔をかけて卵を産み付け、その幼虫は芋虫の生存に関係のない内臓から食べて育つ。そして最後はその身を食い破り、繭を作る――宿られた芋虫は、最後の力を振り絞って、その繭から腐りゆく自身の屍体を遠ざけて息絶える。他のものに狙われたり、病気を移さないように。

 そして重要なのは――ここまで全てが、操られていることだ。死すらも、操られているだけ。囀子、君もそうしようとしていたのではないかな。

 即ちこれは、その似我蜂の生態を模した寄生意識――波羅場囀子に宿った心と同等に帰結する。故に、『似我蜂の異常識』と命名する」

 囀子は、死のうとしていた。死んで、椥辻から自分を引き剥がしたかったのだ。だが、それが似我蜂に操られているとしたら? 自分の屍体を遠ざけるのは――その蜂の繭を腐らせないためだとしたら。

 屍体を離す――離れれば、蜂の繭は一気に飛び立つだろう。囀子が離れれば、繭は羽化する。そうなれば、この一年近くにいた椥辻はどうなるだろう。 

 この十六年で最も強く繋がった、心を許している人は、どうなってしまうだろう。蜂に襲われ、次の犠牲は――。

「い……いやっ! そんなの、絶対、いやっ!」


 ――いやだ、死ぬのが、怖い。死にたく、ない。


 死にたく、ない。


「う、うあああああっ! あっ、あっ――?」

 そう思った瞬間、囀子の身を焦がすような熱と共に、身体からどこともなく血のように紅くどろりとした液体が漏れ出し始めた。それは痛みと同時に少量の快感を纏った粒のようで、流れ出る度に、囀子の身体からは熱が引いていく。そしてそれは驚くべき速さで乾き始めると、しゅわしゅわと泡が立つような音と共に空中へたちのぼり始めた。

「わかったかい、囀子。君が死んで斎宮くんを救おうとしていたことも含めて、この似我蜂に操られていたことなんだ。だから君は、救われたいなら、話すんだ。君が斎宮くんを救いたいなら、死んではならない。君の中に埋まった繭を、幼虫を、君自身が殺さなければならない。それこそが、君の訣別なんだ。それこそが、君が自分と向かい合うということなんだ」

 囀子は、受け入れた。身体が、少し軽い。今までずっと熱くて重くて、内側から膨らむように苦しかった身体から、ようやく痛みが無くなっていくのだ。

「……うううっ、聞いて下さい! これが、本当のわたしです。わたしなんです! だからもう、おとうとさんに、酷いこと、しないでください――! 私は――養父に、自ら進んで、愛を求めましたぁ! うううっ……父からの愛が欲しくて、ぐすっ、火照る度に慰めてほしくて――! 養母さんから公認されていることを薄ら感じながら、それでも。それでも、欠けて足りなかったものを埋めたくて、私は、お父さんからの愛が欲しくて! 養父さんに迫られても、全然嫌じゃなかったんです! だから、養母さんのきせかえも、その後のことも、一回も拒否しなかったんです! それで愛情が貰えるなら……それで今までもらえなかったものが貰えるなら、それで、良かった――。だから、逃げてきてからも、おとうとさんのお布団に潜り込んだり、甘えたりしたんです……寂しくて、身体が、そうしたら愛してもらえるって憶えてるから――! でも、おとうとさんは、ずっと、私を諌めてくれたんです! 一度も、手を出さないでいてくれた……でも、そうしていると、心の中がじゅくじゅくするんですっ」

 椥辻の家に流れ着き壊れゆく囀子のことを縛っていたのは、もう会うことすらもできない母親への思いだった。あの日、囀子はいつも通り養父の元を訪れていた。そして終わり際の夕暮れ、黄昏時にがたん、ごとん、と聞こえる音がした。自らのこの家に来るまでの決意の言葉を思い出したのである。囀子は誓ったのだ。

 もう一度母に会いたい。

 その時はいい子になって、勉強をいっぱいして、なんでもできるようになって、もう一度、愛してもらいたい――。

 今度は、お母さんが嫌いにならなくてもいい自分になる。

 変身する――。

 そう、誓った。

「でも――おとうさんに、身体を求めるような悪い子じゃ、おかあさんに、会えない――! だから、わたし、変わりたいって、もうしないって、誓ったんです! 全部、忘れることにしたんです!」

 その言葉が溢れた瞬間、新石は看破する。彼女は蜂に刺されたのだ。彼女が変わりたい、そう願った瞬間に、自分という青虫に、蜂の卵を産み付けられたのである。残酷すぎる、人の次に残酷な生物。願いを感じ、その力を自らに取り込む異常識。

「だから、私、なにしてるんだろうって、怖くなりました。養母さんから渡された妊娠検査薬が陰性の印を見た時、落ち込んだ自分がいたんです。怖かったんです。なんであんなこと思ったんだろうって、本気で思ったんです! おかしくなってるって、自分、もうおかしいんだって、怖くて怖くてたまらなくなりました……だから、逃げたんです。このままじゃ、お母さんには会いに行けない。ずっと、ずっと私はこのままだって、だから、変わりたかった――だからおとうとさんのお家に来たんです。なのに、私、それでも、変われなかった! おとうとさんに愛してほしくて……それが嫌で逃げ出してきたはずなのに、ずっとそのことばかり考えていて、もう、ダメなんです。わたしは、狂ってしまって捨てられるだって、死んじゃえば良いって、思ったんです!」

 狂ってしまって捨てられるべき――その慟哭は、異常識に囚われた彼女の、蜂の子に身体を食い破られつつある彼女の最後の望みだったのかも知れない。狂うこと、見放されることで、自分を庇ってくれた優しい人を遠ざける。断末魔の中、異常識に巻き込みたくないという彼女の、曲がった願望。余りにも一人ぼっちな、可哀想な子どもの願望。

 そしてそれこそが、似我蜂の繭の、最後の羽化条件――。

 故に、断ち切る。この新石は、その軛を叩き切る。

「囀子、良くぞ語ってくれた! 見ろ。壁に張り付いた蜂の群れを。君にはもう興味がないそうだ。君に宿っていることを知らなかったんだね。彼らは。だから、わたしが祓い上げよう。ここには、十種神宝が一つ、蜂比礼はちのひれがある。十字の形をした、羽根のある毒虫を祓うおまじないだ。今、君の常識には穴が空いている。ぽっかりと体中に穴が開き、今も君から常識が流れ出ている。これを収めるには、君の中味を食ったものを、君が逆に食わなければならない」

 新石の手には、十字の形をした白い布が握られていた。もちろん、嘘。偽物である。しかし偽物は、『よく見えなければ』、それを判別することが出来ない。今は煙が焚き染められてあり、それを本物と確認することは誰にも出来ない。故に、偽の騙りが、本物になる。嘘の形が、現実味を帯びる。そう――現実と空想が、曖昧になる。

 それこそが、神と人が、交わる瞬間である。

「わたし、なにをすれば」

「君はさっき、吐き出しただろう。あれは、君の中に宿った赤ん坊だ。君は何も孕んでいなかったのではない。君の腹には異常識の子種が宿り、奇形を産んでいるんだ。君の子供は、即ち君から生まれてくるものは、異常識の蜂の子に変換されたんだ。そしてそれは君の身体を食い漁り、そして遂に外に出て繭となるに至っていた――故に君、そこに転がっている子供を食え。よく咀嚼し、もう一度君の中に、君を戻すんだ。逆さの儀式は、順の儀式の力に抗い打ち破る力がある」

 囀子の目の前には、赤ん坊の形をした胎児が蹲っていた。どこかいびつな赤ん坊。口から吐き出された赤ん坊。その脇を囀子は持ち上げる。

「はぁっ……はああ……ああああ――」

 囀子の手からは、体中からは、汗が、鼻水が、涙が噴き出す。世界の色彩が赤と黒に染まる。血と脂が滴る音、悲鳴が脳髄を反響する。

「その儀式を以て、君の異常識払いを完成とする。さあ、食え。囀子」

 ばり、ばり――。

 咀嚼する。飲み込む。赤ん坊が泣き叫ぶ。痛みに耐えかねて、恐怖に耐えかねて。出来上がりかけていた羽根に穴が空き、肉が断たれて滴る肉汁。それを余さず受け止める少女。蜂になりきらない、人でも蜂でもない未熟な子。破砕機で噛み砕かれるような音が体内に響き、嗚咽する。それでも、囀子は食う。異物を食い、取り戻す。

「うっ、ううううっうあああああああああああああああああああああああ――っ!!!」

 囀子は、一心不乱にその赤ん坊に齧りついた。頭から、バリバリと、食い殺すように、飢餓の虫が自身の卵を食い殺すように、悍ましい逆さの儀式を、自ら産んだ子を、忌まわしき血の子を食い殺す。ようやく生まれた赤ん坊は、痛みと恐ろしさで泣き喚き、その度に蜂が落ちていく。ばらばらと、影の間に消えていく。地獄よりも地獄めいた空間を清めるように、新石は祓詞を読み上げる。



 ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 蜂比礼はちのひれ、ふるいのけはらひやりたまへ



 ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 蜂比礼はちのひれ、ふるいのけはらひやりたまへ

 

 ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 蜂比礼はちのひれ、ふるいのけはらひやりたまへ


 

「はあ、ああ、ああああああああ――っごめんなさい、ごめんなさい。ごめん、なさい――! 今まで目を逸らしていて、ごめんなさいでした……!」

 蜂が全て落ち、動かなくなった時、憑き物が落ちたように、今度こそ、子どものように、囀子は泣いていた。蜂は、祓われていた。

 異常識は破られ、ここには神式の常識と、人間の世界があった。焔が優雅に揺れている。新石は社に深く頭を下げると、やおら背を起こして振り向いた。そして倒れこんだ囀子の肩を優しく抱いて目を瞑った。

「全てを、告げよう。君に蒔え付けられていた蜂の卵――それを付けたのは、間違いなく君の養母だ。君の養母が、似我蜂の異常識の媒介者だったんだ。我に似よ、我に似よ、と念じていたのだろう。それが蜂の形となって君の常識に穴を開けた。だが、意外にも、君はそれに抗って旅に出た。麻酔が幸運にも少なかったのか、そもそも君が体質的に優れていたのかはわからないが。だから君は本来の芋虫が感じないはずの想像を絶する苦痛、身を破られる苦痛を負いながら逃げ、その衝動に引き寄せられながらここまで辿り着いた。生存本能、そう言えるかも知れない。故にあのサッカーボールも、乳歯も、夢も君のものではない。ただに近付いたから、に感応しただけだ。君はその苦しみ、よく我慢した。褒めよう。よく頑張ったね、囀子」

「う、ううううあああああ痛かった――苦しかったぁしんどかったよお――」

「うん。頑張った。お疲れ様。さあ、上がろうか。抱っこするよ」

 さて――。

 階段に足を掛けながら、新石は逡巡する。

 もう一匹の蜂。

 即ち――囀子を感応させた蜂。

 そちらは、彼に任せるしかない。

 頼んだよ、異常識探偵。  

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