第26話
「そこに、居たのね。翔太――似我似我似我似我似我似我似我」
椥辻の前には、異常識が居た。
蜂の異常識、母の異常識。
形なき茫洋の魍魎、人ならぬもの人の間から生まれた狭間。
子供の恐怖の代用、似我似我と泣く蜂の女王。
だがその異常識を目の前にして、椥辻の思考は彼方へと飛んでいた。それは走馬灯と言い換えても良いような、思考の電流だった。
根拠はない、はっきり言って当てずっぽうだ。けれど状況証拠だけ揃えてみると、椥辻は最初から酷い違和感を抱えていた。
これが子供の異常識だとするならば、歯はなぜ置いているのか、サッカーボールもなぜ置いているのか。それがたとえば新石の言うように呪具であったとして、それを拾った人間を異常識へ引き込むことが出来たとして、それでどうしたというのだろう――。
この件には、大きな矛盾がある。これが自然発生的な異常識だとして、子供が仲間を求めていると仮定する。そうすると、そもそも呪具なんて必要ない。今取り込まれている『十七時四十五分の世界』、ここに取り込まれた時、ブランコに影があったのを憶えている。あれは確実に、誰かいるという暗喩だった。だというのに、その子供は姿も見せず、話しかけても来なかった。見えたのは歯とサッカーボールを置きに来た母親だけだ。もし仲間が欲しいなら、あの時点でこちらにコンタクトを取るはずなのだ。だが、そうはしなかった。それどころか、母親でさえこちらに話しかけてこなかった。もしあのまま自分が家に帰っていたとしたら、その後はきっと家の中で狂って異常識に取り込まれていただけだろう。異常識に取り込まれた人間が自分の思い通りに動いてくれる――そういう仕掛けがあるのならまた別だが、囀子という成功例を見てもそのような機能はない。囀子は別に公園にもう一度向かおうとはしていなかった。彼女は肉体の不調と精神の不調を同時に患い、そのせいで動くこともままならない状態まで衰弱しきっていたのだから。ということは、この異常識は、そこまで人に対して興味がない。というよりも、
更に、囀子が見た夢はなんだったか。彼女は夢の中で『翔太くん』になっていたのではなかったか。カーペットに落ちていた屍体は『シンタロウ』で、今この異常識が求めているのは、『翔太』。ということは、あの景色は恐らく、翔太くんが見た最後の断末魔だろう。もしこの異常識が、新石の言うように『子供』に共鳴していたならば、夢の辻褄はあってくる。だが同時に、辻褄の合わない部分も出てくる。翔太という自意識の中に、唐突に現れたシンタロウ、とは、何者なのか。
それは――最も根本的な部分で、この異常識の、恐らく最も異常な部分。
「翔太くんは……見てください。死んでいますよ」
椥辻は、そっと身を避けてクロゼットの中味を蜂に晒した。その瞬間だった。
「やめてーーーッ!!!」
母親の悲鳴と共に椥辻に襲いかかったのは、大量の蜂だった。それは椥辻のどこともなく全身に飛びつき、その細い腰の先にある毒針でこちらの肌を滅多刺しにしてくる。ちくちくとした痛み、燃えるような痛みが身体の内側を駆け上がって、椥辻の肩は熱で弾けるように肌が裂けて血が噴き出ていく。
「ううっ――うおおおおおおおああああああああああああああああッ」
母親は、椥辻の言葉に激昂していた。母親の身体と、蜂の肉体が入り交じる。ストロボのように、壊れたテレビのように何度も像が乱れる。異常識と常識の狭間、その間を彼女自身が高速で揺れている。
「私の翔太が死んでいるわけ――ないでしょっ! 冗談もいい加減にして!!! 翔太は、何度でも現れるのッ!!!」
その激昂に合わせて、蜂は顎を使って椥辻の傷を広げるように噛み付いてくる。だが、その痛みに、蜂が珠になって飛んでくるというインパクトに最初こそ動揺はしたものの、その蟻走感に恐怖はしたものの、椥辻は徐々に冴え始めていた。全く痛くない、と言うと嘘になる。けれど泣き叫ぶほど痛いというには、その針は、細すぎた。その毒は、弱すぎた。
それもそうだ――椥辻は知らないけれど、この針は、毒針ではあってもスズメバチやアシナガバチほどの毒ではない。麻酔毒であり、相手を殺すための毒ではないのである。根本的に狩蜂ではないのだ。従って、顎も戦うための発達をしていない。細々と生きる寄生蜂の、自分よりも弱いものを生け捕りにするための針、家を作るための顎。だから弱い。虫の抵抗でしかない。見せかけの、大嘘の恐怖。
椥辻は、悟る。
これは、弱い者の異常識だ。弱くて、自分の常識を曲げることでしか自分を守ることが出来なかった人間の、儚い嘘の異常識。
弱者が身を守るために引き寄せた――狂気という
「やっと見えた。だからあなたは、子供を殺したんですね」
「――!」
身を削ってまで、自分を騙してまで吐くしかなかった大嘘は終わらせなければならない。こんな悲しい物語は、ここで終わらせなければならない。
ぱちん。
異常識探偵は、手を叩いた。柏手打って、音でその空間を支配した。一瞬気を取られたのか、蜂の羽音も止んだ。
しんと静まり返ったその瞬間、椥辻は自分の声でその空間を満たしきった。
「申し遅れました。私は異常識探偵、斎宮椥辻と言います。私は異常識を退治しに来ました。あなたという女性に宿りついた、蜂の異常です。あなたも見たことがあるんじゃないですか? 腰の細い、顎の大きな蜂です。それに刺されたことがあるでしょう」
「――そんなこと」
ない、と彼女は言わなかった。反応には、淀みがあった。
それを見切り、椥辻は立った。体中を蜂に刺されながら、噛みつかれながら、立ち上がって、彼女の目の前に立ちふさがった。首筋から、血が噴き出した。迫る動悸と歪みゆく視界を制して、なんとか現実に食らいつく。ここで手を離せば、椥辻は死ぬ。それがわかっているから、奮い立って負けない。
「ぐっ……」
瞬間的に、蜂の動きが悪くなった。西日が強烈に部屋を照らして、椥辻の影が部屋を這った。母親は慄くように尻もちをつき、蜂の像は乱れた。
「あなたがわたしの翔太を殺したのね! 許せない! あんなに、私に似るように育てたのに、どうしてあの人に似てしまったの――! 許せない! 許せない」
――どうしてあの人に似てしまったの――
「やっぱりそうだ――あなたの異常識は、そこから来ている。あなたが自分の子供の歳の頃を明確に発言できないのも、そういうことなんだ」
椥辻は、唐突に翻って、クロゼットの中にあった少年の頭骨を放り投げた。蜂の母親に向かってである。ごとん、と的を外れて壁にぶつかった頭骨から粉が漏れる。悲鳴が上がった。母の悲鳴だった。
「ああああっ翔太!」
「その頭蓋骨、左奥歯から順番に……歯が抜かれている。知らないとは言わせない。あなたは何度もこの子の歯を自ら抜いたはずだ」
遺体の頭骨を放り投げるなどというとても正気とは思えない狼藉を、椥辻は真顔で行った。見る人が見れば、狂気をも惹起するだろうその行動は、母親に電撃を走らせるような衝撃を与えていた。当然、我が子の骨である。それが、上手投げで、壊れてしまいそうな速度でぶん投げられたのである。だからその骨に向かって、母は飛びついた。椥辻は、更に肋骨のあたりの長い骨を握り込み、また放り投げた。からん、と軽い音が壁に響き、母親は怒りと悲しみが綯い交ぜになったように眉を下ろして涙を零した。
「そんな! 翔太、翔太、翔太の、
椥辻の眉が釣り上がる。その一言を、待っていたのだ。
「あなた今――骨、と、言いましたね。自ら」
骨、その言葉が母親から漏れる。椥辻が待っていたのは、これである。蜂の像が明滅する。
そう、彼女は今、認めた。生きている人間から、骨が出るはずないのだから。
彼女は今、骨を認めた。
即ち、
「お母さん、認めてください。見えますか。あなたが今手に抱いて見ているそれは、骨。子供の骨です。あなたがここで監禁した子供の骨です」
「あ――あ……」
壁に凭れて茫然自失している母親に向かって、椥辻は赤い線を引いた
嫌な役目だ、だがやるしかない。
「お母さん、これ、見えますか? このソックスに書かれた、
椥辻は、わざと見えるようにしゃがみ込んで、その靴下の内側を見せた。どろどろの体液が滲んで見えにくいが、まだ辛うじて読むことが出来る。
「見えましたよね。名前、読み上げて下さい。さあ」
「う、あああっ……下田、慎太郎。しもだ、し、ん、たろ――」
そう、そこに書かれていた名前は、下田慎太郎。
――北大路駅周辺、特に西側にかけての不審通報の情報でしたね。行方不明は一件だけ。これです、名前は下田慎太郎くんという小学生の男の子。
阿波礼の持ってきた事件簿の、たった一点の被害者、行方不明者。
それは子供だった。男の子だった。そう、それも小学生くらいの、男の子。他人なら、見た目で男児の正確な年齢なんてわかるはずもない。加えて、彼女はクロゼットを開けるまで『翔太くん』を――即ち自分で閉じ込めた『慎太郎くん』を探していた。それはつまり、翔太くんを探し始めて通報が入ったその頃には既に、『慎太郎くん』は殺害されていたということになる。
「い、ぎいいいいいいぎぎぎぎぎぎいいぎぎぎぎいいいいいっ! 違う違う違う違う! 違う、翔太が、しょうた――」
そして、だとするなら、囀子の夢にシンタロウという言葉が出てきたのも納得できる。きっと、あの新生児のミイラが、或いはこの母親が、『翔太』と呼ばれて拒否する子供の名前を聞いていたのだろう。きっと慎太郎くんは、『翔太』に書き換えられることを拒否して叫んだのだ。自分は、シンタロウだ、と。
「――いいや。あなたの翔太くんは、もう既に死んでいる。そこにいるでしょう。よく見てください。あの干上がったミイラみたくなってる屍体、あれがあなたの実の子供、翔太くんです。クロゼットに閉じ込めていたのは、慎太郎くん。行方不明事件で今でも捜査中の子供です。あなたは実子を無くした。けれどあなたは実子が無くなったことを受け入れなかった。その代わりとなる子供を捕まえてきて、逃げ出さないようにくらいクロゼットという穴蔵の中に閉じ込めた。そして、願ったんですね。先程も言っていたように――」
似我似我似我似我似我似我似我似我似我――我に似よ、我に似よ、我に似よ、我に似よ。と。
実子ではないから、自分に似るように、或いはあなたに似て欲しかった翔太くんが、あなたに似ることなく生まれてきたから。
だから、殺した。
言葉の鋒は、容赦なく母親の胸を貫いて、壁に展翅でもされたように貼り付けられて、動かなくなっていた。
「あ――……」
「あなたが、あなた自身が、探していた翔太くんを殺したんです。翔太くんが生まれて、その子が自分に似ていなかった。むしろ憎んでいた誰かに似ていたから。そう考えると、あなたの行動原理は一貫してる。子供が気に入らなければ殺し、連れてきた子供をまた閉じ込める。これで連れてこられるのは他人だ。だから似ているはずがない。そしてまた、似ていないから我に似よと念じ続ける。死んでしまったら、また連れて来ればいい。あの呪具を使って、その異常識に迷い込んだ誰かを連れてくる。でも、気が付いてください。あなたが欲しいのは、欲しかったのは、自分に似た子です。こんなことをしても、子供はあなたに似ないんです。あなたの子供は、あなたが産むしかないんです。それに、あなたが他の人の似た子供を得たら、育てざるを得ない。攫ってきた子を、愛情込めて様々な場所へ連れて行く。そうすると、
「……」
我を、喪う。
その言葉が符合するほどに、彼女は声を喪った。
異常識との、接点を、喪った。
「もう、辞めましょう」
椥辻は告げる。
それは異常識との、別れの言葉。
常識と異常識を真っ二つに別ける魔術的言語。
その言葉は、余りにも残酷で、現実すぎる。
人に言うための言葉ではない、酷く強い言葉。
だから椥辻は、彼女の異常識に向かって言った。
その脳天を、常識の弾丸で穿った。
「こんなの、
瞬間、万華鏡のように現実は歪み――
その言葉は、見えない弾丸となって動かない母親の脳天を、貫いた。
ぶわあ。
墨を水の中へ零したように、母親の頭部から黒い影が広がる。
蜂が。
母が。
慟哭する。
「ひっ――ぎゃいぎゃいぎゃいああああああがががががあああああぐううううううううううううッ!!!」
震える。
蜂起する。
珠のようになって、その飛ぶ軌道が回る。
同じ場所を、延々と飛び回る。
同じ場所を回る。
無限に続く輪は、無限に見えるだけの有限に閉じる。
蜂が死ぬから、閉じざるを得ない。
似た子供は得られない。得た瞬間に、彼女は普通に育てようとするだろう。
愛情限りを注ぎ込み、その愛しい我が子を愛しつくそうとするだろう。
そうなれば、露出するしかない。
そうなれば、どう足掻いたって見つかるしかない。
似我蜂は、穴蜂だ。
日の当たる場所で、子育ては出来ない。
彼女は想像する、その言葉の意味を、想像せざるを得ない。
明るい木漏れ日の下、自分の手から、子供が離れていく。
我に似よ、我に似よ、と唱え続けた子供が。
ようやく似た、子供が。
こちらを、餌となった肉塊でも見るような目で見ている。
悍ましい、虫けらを見るような目で、こちらを――。
アレは蜂だ。母ではない……軽蔑する瞳。
わたしは、愛しただけなのに、愛したかった、だけなのに。
どうして――?
どうして。
答えは、わたしが汚いからだ。
そのせいで、わたしはわたしの子に嫌われる。
そんなの、耐えきれない――。
だから、母は吐露した。吐き出した。異常識との接点を。
「わたしが、やりました――。わたしが、やったんです――! 翔太は、私が、殺しました! 似ていないから、殺したんですぅ、ううううっ! 許して、ください、ゆるして、くだ、さい」
世界が二つに割れるように、その母親の頭蓋から、蜂の頭が割れる。双頭のプラナリアのように、首と異常識が別れていく。
「ああ、あ――」
繭を破るように、蜂は彼女から生まれ出る。
似我蜂は、憐れな芋虫である彼女を、自分を蜂と勘違いした芋虫を、最後に食い殺そうとするだろう。
この母の元では、この異常識は、もう生きられないから。
異常を、彼女が認めたから。
だから、椥辻も見逃すつもりはない。
それが新たな被害者を産むことを知っている。
だから、ここで異常識を、常識に閉じ込める。
「お母さん、あなたの膝の上にある
彼女はよろよろと、身体の奥から蜂に食い破られる音を立てながら、部屋の中へと歩みだした。何かを探すように、失ってしまった、始めの気持ちを思い出すように。
そして彼女はカーペットの上でその膝を折り、自らの子の上に覆いかぶさった。
最後に、もう泣きもない我が子を抱きしめると、念じた。
――我に、似よ。似て、わたしを、愛して下さい。
彼女は、愛されたかった。
自分の子供に、愛されたかった。
自分に似た、自分の子に。
自分の子が良かった。
だから、異常識を、受け入れたのだ。
自分の子だと、勘違いするための異常識を。
彼女を食い破ろうとした蜂は、その人形に吸い込まれ、同時に、日が落ちた。
静かすぎる部屋の中に、稚児のように泣く母の声があった。
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