第24話

「そして、その幼虫は――恐ろしいことに、最後まで心臓を食い破らない。致命の脳を、食い漁らない。彼らは芋虫の身体を最後に食い破ると、そこで芋虫の身体から這い出て繭になる」

 ばり、ばり――。

 自分の身体から、知らないものが出ていく。そしてそれは――。

「芋虫は、それでも死ねない。芋虫は――ここでようやく、身体の自由を得るんだ。そして逃げ出すんだよ。必死にね。その場所から逃げようと、穴だらけの身体を引きずって、蝶になる夢を見て必死に走る。だが、わかるだろう。もうその身体は」

 ぽたり。

 地面に落ちる音が、聞こえた。

 がちがちがちがち。

 飛び立っていく羽音が、聞こえた。

 音もなく忍び寄ったのは、強い顎を持つ誰かだった。蟻が、団子虫が、或いはもっと小さな虫たちが、もう死んで動けない身体を、最後に残った外側ヲ――。

 タベて、わたしは――。

 ワタシは、シ。

 どくどく、どくどく。

 心臓が、早鐘を鳴らしている。囀子の内側にあるヴェールが、剥げていく。

 暗がりが、光に満たされる。

 その奥にあったのは、醜い芋虫だった。

 人の服を着た蜂がいる。私によく似た芋虫がいる。

 私は、どうして、あんな蜂に、傅いて。

 嬉しそうに、しているの――?

 芋虫は、抱きしめられていく。抱え上げていく。

 愛という麻酔の元に、恍惚な顔で、それを、受け入れる。

「い、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっああああああああああああああああっ!」

 それは、絶叫だった。まるで内臓を食い漁られた芋虫に声が宿ったように、彼らが最後に見る現実の像のように瞭然として、絶望的な現実だった。

「いや、いやっ! きたない! からだが、よごれて、いやぁっいや、いやぁあああああああああああああああああああああああああああああっ」

 体の内側を掻き毟ろうとする囀子の腕は、さっと止められていた。狂気によって爆発した恐怖心が彼女の内側を裂いた時、新石は彼女の身体を抱きしめて、決して離さないよう留めていた。暴れる彼女を抱きすくめながら、新石は穏やかに語りかけた。

「落ち着いて。君は今、君の閉じ込めた記憶を取り戻しているんだ。それは忌まわしい記憶だけれど、必要な記憶だ。その記憶を取り戻してくれてありがとう。そのお陰で、君は、に済む」

「――はぁ。あ、あああ……」

 新石の言葉の中で、彼女が反応したのは椥辻に対しての言葉だった。もちろん、狙い澄ました言葉選びではあるものの、それで良い。これから始まる儀式は、彼女の過去との邂逅であり、訣別の儀式でもあるのだ。腕の中の囀子が大人しくなった頃、新石は彼女の頭を撫でて、子供をあやすように優しく語り始めた。

「君は今から、その蜂に別れを告げるんだ。君の体を支配するその、『火照り』から君自身を解き放たなければならない。君はずっと、何年もその火照りと戦って来たのじゃないかな。火照り、いや、もっとわかりやすい言葉にしよう」

 新石は囀子の前にかがみ込むと、指先でくい、と彼女の顎を上げて耳元に口を近づけた。そして囁く声で、その火照りの答えを囀子に宣言した。

「性欲だ。それも止めどない、体の内側から突き破るような性欲」

「――はっ。はぁっ。うっ……」

 慄くように後退り、新石の顔を眺める囀子。その瞳は滲み、裸にでもされたような憔悴で芋虫が体を捩るように逃げていく。しかし新石の表情にブレはない、ただつまらなさそうな美しい人形のような顔が、囀子を射竦めたように睥睨している。

「当ててみせよう。君は斎宮くんに何度も夜這いしているね。体の熱さに耐えかねて、その火照りを沈めたくて、欠けた心と体を埋めて欲しくて何度も彼の寝床に入り込んだね。それどころか、火照りを鎮めるために、何度も何度も――」

「……う、うううううううううっ! やめて、もう、やめて――! わたし、そんな悪い子じゃない、わるいこじゃないの! してない、してないもん――! なにも、してない!」

 塞ぎ込んで蹲る囀子の声は、幼さまで滲むほどに追い詰められて狼狽していた。奥歯を噛み締めながら、自分ですら決して触れなかったはずの生身の自分に触れられて暴かれている。そしてそれは、罪を暴かれていることに他ならない。自分が覆い隠し、見えないように隠してきた罪。それを無理矢理光の下に引きずり持ってこられ、それを罪だと示されている。目を逸らすことのできないまま、その罪に身を焼かれている。自覚している。しているのだ。だから、見ないようにしていたのに。

 錯乱する囀子の姿もどこ吹く風、新石の言葉は更に続く。

「そうだとも。君は悪い子じゃない。だって君は決心したんだ。養父母の元から離れる、そう決めた日から、日増しに強くなる身体の火照りを自らで呑み込み、抑え、斎宮くんには手を出すことは無かったのだから。最も強い発作を起こした昨日の晩でさえ、裸になり斎宮くんに襲いかかった瞬間でさえ、君は首の皮一枚の理性でそれを抑え込んだのだから。だから私は斎宮くんから君と肉体的な接触があったとは聞いていない。あくまでも熱のせん妄めいた錯乱があった、と聞いただけだ。違うかい? だが、もう君は耐えきれない。次の発作があれば、その時は理性丸ごと失われる。君もそれを、予感しているのではないかな?」

「うううううううっだから。だから? あなたに! あなたに何ができるっていうんですか! 急に、身体が燃えそうになるんです! 収まらないの……! わたしがおとうとさんを襲って、肌を重ねたくて仕方がなくなってしまうことの、あなたになにが――! この蜂だって、どうしようもないんじゃないですか!」

 疵獣めいた叫びを上げながら、囀子は血走った瞳で新石へと掴みかかった。囀子の体格は同世代の女性から見てもかなり大きい。しかしその手が肩にかかろうとも、新石の体はびくりとも動かなかった。それどころか、歯牙にもかけないまま新石は少しだけ目線を上げて囀子の瞳を捉えた。

「できるよ」

「――どう、やって」

「わたしは君をいじめたいわけじゃない。ただ、事実を知らなければ、真実を聞き届けなくてはならないからこうしている。その火照りそのものが異常識で、君を蝕んでいることを知っているんだ。だからわたしはその火照りの原因を、君に真実を告げるようにけしかけて、外へ追い出している。君は今、君の中の君を見ただろう? そのせいで、ほら見るんだ囀子。壁の蜂たちを」

 新石が壁に視線を移すと、壁には一面を埋め尽くすほどの羽虫がくっついていた。まるで夜中の電灯へ吸い寄せられたように集まったその虫たちは、一様に羽根を震わせて声を上げている。

 がちがちがちがち――。

 だが、彼らは羽音を鳴らしているだけで、囀子へと戻ろうとはしない。行く宛を喪って迷っているようにさえ見える。ただその触覚を口元へと運び、感を切らさぬよう羽根を鳴らすだけ。

「先程から時間が経っているのにも関わらず、君へと戻ろうとしない。奴らは今、君が本当に相応しい器かどうか、見極めようとしているんだ。逆に言えば、なにも言わなければ戻ろうとするだろう。だから君は、今こそあの蜂と訣別するんだ。そう――わたしはもう一度言おう。真実を、天地神明に誓って、事実を言いなさい」

「なにを言って……なにを言ってるんですかぁ! わたし、養父さんが怖かったのは、本当です、本当、本当なんです……嘘じゃない、嘘じゃない――うそじゃないのお」

 長く艶めく髪を振り乱しながら、まるで駄々をこねる様に囀子は叫ぶ。膝からは力が抜け、囀子の身体は床へと落ちた。それに呼応するように、蜂の羽音の音は少し穏やかになった。先程までの興奮した重奏ではない、まるで受け入れるかのようなさざめきである。

「……本当に、それでいいんだね? 君の答えは。斎宮くんへの気持ちは、本当に、それでいいんだね」

「っ――」

 新石は立ち上がると、社に立て置かれた大幣を拾い上げて振り返る。

「囀子、身体を起こし、正座なさい。そんな芋虫のような形にならず、、お成りなさい」

 おずおずと、ようやく身体を起こした囀子に、新石は大幣を振るう。さわ、さわと柔らかな音と風が囀子を撫でる度、彼女の肌を涼やかな風が抜けていく。それは通り抜ける度、身体に帯びた熱を奪い、囀子は小さくため息を漏らした。

 ここまで新石が行っていたのは、実は祓えの儀式ではない。神式で纏めた数々の装飾も、本質的に意味はない。神を気取った話口も、そう思わせていただけだ。偽物、嘘つきで、異常識を炙り出しただけ。そう、ただの一度、囀子からその『蜂』が出てくれれば、それで良かったのである。そう、これなら、分離出来ている。囀子と、その内臓を食い漁る異常識、それを一つの空間に閉じ込めたまま、逃さずにいられる。一気に退治すれば死に至るほどの深い異常識も、こうして閉じた空間なら、神域の常識の中ならば留めておける。

「囀子、君が自分から言えないと言うなら、わたしが言葉で階段を作ってやろう。君は最後の一段を踏み越えさえすればいい。さあ、もう一度壁面を見なさい。これが君に取り憑いていた異常識――母蜂の異常識。これが君と、椥辻くんを取り込もうとしていた虚実の幻想だ。これは悪性の強い妄想と共鳴するような異常識でね。これにかかると現実と妄想の境界線がわからなくなる。しかも厄介なことに、これは伝染する。君は、この一年の間、何度も妄想に取り憑かれたんじゃないか? そして、その時に決まって君は、性欲を抑えられなくなって斎宮くんの布団に忍び込んで、そこでなんとか耐えた。そうだろう?」

「そ、そうです……」

「けれど、耐える度に熱が籠もった。君はその発作に耐える度、身体を焦がすほどの熱を溜め込み始めた。暑い、が熱い、になった。君は既に斎宮くんの家に辿り着いた時から暑かったそうだね。けれど今の体温は、それに比較するのも烏滸がましい程高い。生命を存続するにあたって限界の体温だ。この熱を、冷ます方法を知っているね? そうでなければ、君は既に死んでいるのだから」

「うっううううっ」

 新石が結界を張ったのは、囀子に宿った異常識、それが彼女から抜け出して他の宿主へ渡り歩く――つまり、伝染病のように別の人間に宿ることを良しとしなかった為である。これだけ強い神式の結界、神式の常識の中に閉じ込められれば、どのような異常識だろうとおいそれとその中から出ることは出来ない。そして一旦囀子から離れたということは、それは技術介入の余地があるということである。

 技術――即ち異常識の存在たる新石による、異常識的アプローチ。異常識による、異常識への技術介入。

「発作は、君が養父母の家庭にいる間もあった。その時君は、火照りを収める為に、いや、収めてもらうために、儀式をしたんじゃないか? 特定の行動、特定の行為を行うことで、その熱を発散した。君が憶えていること、君が見た君自身の記憶が、それを伝えているんじゃないかな」

 囀子は口籠もる。それもそうだろう。この先こそが、彼女そのものだったのだから。

「囀子、もう嘘をつかなくてもいい。今まで怖かったろう。自分の中にいる悍ましい自分がいることに、君は気が付いていた。だからそれを、斎宮くんの家に転がり込んだんだね。君はこう予想して、というよりも一か八かそれにかけて斎宮くんの家に来たんだ。『養父母の家から環境が変われば、この火照りも姿を消すはず』そう考えた。けれど、残酷にも、日に日に君は火照りを抱えるようになった」

 囀子は涙ながらに嗚咽しながら俯き、新石は座り込んだ。そして囀子の頬に伝う涙の後を袖で拭きながら、彼女の頭を撫でた。目尻が細まり、まるで絵本を読み上げる母親のような慈愛の笑みで、彼女の身体を抱きしめた。

「……大丈夫だ。安心しなさい。わたしが君を守ろう。これから君が何を言い、どのようなことが起ころうと、この蜂に君も斎宮くんも決して傷付けさせないと約束しよう。全てが終わった後も、君が語ったことを彼に伝えたりはしない。君が日常へとなんの憂いもなく戻れるようにしよう」

 囀子の瞳には、見透かされたような恐怖と驚きの念が浮かぶ。しかし新石は揺れない。身じろぎ一つしない。ただ手のひらで背中を擦り、落ち着くように求めるだけ。

「わかるとも。わたしも永く生き、多くの人の苦しみを見てきた。君のような人も少なくない。多くの人が、それで苦しんできた。わたしに出来るのは、そういう人が自身に課した呪を解く手伝いをしてやることだけだ。斎宮くんに外回りの仕事を与えたのも、君の呪を後腐れなく解いてあげたかったからだ。君が自由に、恥ずかしがらずに告白をできるようにする為だ」

 ぎゅう、とより強く抱いた新石は、耳元で優しく囁いて告げる。囀子はその言葉に、崩折れるように身体を預け、強張っていた身体は蕩けるように胸の中に吸い込まれていく。

「本当に、それだけで、いいんですか」

「そうだ。君は告白するだけでいい。浅ましい自分を、醜い欲望を、その全てを、告白しなさい。そうすれば、わたしが君に宿ったその呪を解く。準備はもう出来ている。このまま自分の身体でその呪を育て切って死のうとなんてしなくていい。君が熱を堪えているのは、死にたいからだ。斎宮くんを巻き込みたくなくて、その為に必死に堪えているんだろう」

 囀子の瞳孔が、ぎゅうと狭まった。

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