第23話
「本当の、こと――」
「そう、本当の、事実を話さなければならない」
ひたり、囀子の額から冷たい汗が滴る。こそばゆい感じがする。なにか、触れられてはいけない部分――心の中にある薄いヴェールの向こう側から、指されている気がする。
わからない。
わからないの――本当に?
こんなに、わかりやすいことばかり、していたのに?
ヴェールの向こうのわたしは、そう言っている気がする。
「わたしのほんとう。ほんとうの、ことって、なに」
瞳が揺れている。動揺している。けれど目の前のこの人は、目の前に引かれた秘密のヴェールを今から詳らいてしまうのだろう。彼女は一歩、進み――。
「
そう、波羅場囀子本人の前でそう宣った。
「忘れて、いる?」
「正しく表現するならば、
「う、ううう、どうして、どうしてですか。どうして、そんなことを、しないといけないんですか」
囀子の瞳には、新石の瞳がいくつも万華鏡に分散して映っていた。彼女の瞳は大きな星のように強い重力を孕んでいた。それに捕まっているせいで、視線を外すことが出来ない。けれどその星は暗く瞬いて、まるでブラックホールのように眼球を捉えている。囀子の身体はびっしょりと濡れるほどに恐怖から汗を滴らせていた。
「答えよう」
新石の瞳は、混沌の大洋に浮かんでいた。深淵の中心、宇宙の最も多くを占める本質的な存在である無、超空洞のその中身である。その空洞に意味という光が宿った時、囀子の意識はそちらへ吸い込まれていた。彼女から放たれたその言葉は、これまでのどの言葉よりも重く囀子に響き、彼女を揺らしていた。
「それは、斎宮くんを――斎宮椥辻という君の弟を、私の事務所の探偵を、君自身が殺さない為だ」
斎宮椥辻という君の弟を――君自身が殺さない為だ。
ばり、と何かが心の中でぶつかった音がした。画面の中に現れた光の筋が内側からガラスを砕き割るように、その言葉の衝撃は囀子の内側から彼女に大きな揺れと熱を与え、目の前のヴェールはふわりと浮き上がっていた。
そこに見えたのは、ほんの一年前の自分自身、波羅場囀子だった。
制服を着た波羅場囀子が、養父へと傅いているその瞬間だった。
彼女は笑っていた。正しくは、微笑んでいた。弛緩していた。
その居場所を、心底愛しているように、本当に、満足しているように。
そして彼女は、養父へと、一歩進む。今から、彼女は――。
「い、いや、やめ、やめて――う。うあああああああああああああ――!!!」
囀子の手は、新石と自らのもう一側面を拒絶するように伸ばされた。その瞬間、蜂は一斉に飛びたち新石へと襲いかかるように羽音響かせ、滝から落ちた水が砕けるような激しい衝突の連弾が地下室を満たした。羽音が止まり、瞬間静寂が生まれ、空気が動いた。新石は、立っていた。それどころか、一切気付いていないとさえ思えるほど優雅な足取りで、囀子に向かって歩みを進めていた。飛びかかった蜂たちは全て、新石の背中に和紙一枚挟んだほどの空間の撓みをもって止まっている。
「……そうだろう、と思っていたよ。この蜂は、君のものなんだね。囀子」
全ての蜂の蜂起を、その針を携えた武装蜂起を、新石は手すら使わず防いでみせた。驚愕したのは、囀子の中に居たヴェールの向こうの囀子だった。そして囀子は、初めてそれを自覚して言葉にならない感情があることに呆然としていた。
「あ――……あ」
「囀子、君は蜂という生き物を、識っているかい。彼らの営みを、知っているかい。今から、それについて君に聞かせよう」
訥々と、新石は語り始めた。
蜂について。
彼女の中にある、彼女の抱えた、攻撃性について。
蜂――。
部屋を満たしていたのは、蜂の羽音と影だった。それらは全て囀子とその胎児から沸き立ち、どこからともなく蔓延ったものである。
階段に道切りを張り、注連縄で閉ざしたこの黎海山探偵事務所地下。彼らに出口はない。同時に、新石にも囀子にも出口はない。ここは穴ぐらである。
蜂――。
蜂という生態は、女尊男卑の世界である。オスには武器がない。顎も貧弱で、産卵管がない為に針すらも持たない。身体も小さく、交尾の為だけに使われて死に至る。
蜂――。
蜂というイメージには、言い表せない恐怖がある。
その顔に、羽音に、佇まいに。
何よりも、腹部の先端についた針は攻撃するため、毒の仕込まれた武器である。本来産卵管であったその管は、この羽虫においては攻撃の為に使われる。故に、オスには存在しない。だが、囀子を襲おうとした蜂は、みなその針を突き出していた。故に、その性質は女であることを色濃く映し出す。
そう――考えてみれば、当たり前なのだ。
蜂が絡んでいる以上、男児が核など始めから有り得ない。
オス蜂は、すぐに死ぬ。針すら持たず、顎すら持たず、攻撃する術を持たないままその生を終える。
故に、男児が核ならば囀子は
囀子の夢について椥辻から語られた瞬間から、黎海山新石はその可能性を探っていた。
だから黎海山新石は、最初は本当にわからなかったのだ。その蜂が本当に少年と関わっているのか、それともただの悪夢なのか判断が付かなかった。椥辻が彼の家から乳歯とサッカーボールを持ち帰ったことで、彼女はようやく確信した。その乳歯に込められていた願いを聞いて、誰の異常なのかを看破していた。
似我、即ち、我に似よ。
聞こえてきた声は、そう発していた。
「この異常識の核は、君以外には有り得ない。君を襲った異常識は、君の中に棲まう君以外有り得ない」
「わたし以外、有り得ない――じゃあ、わたしが、わたしとおとうとさんを、刺したんですか。そのせいで、おとうとさんも――」
囀子の瞳から、ぼろり、と涙がこぼれた。けれど新石は首を横に振る。まだ話は半分だ、と言いたげに首を傾げる。
「いいや。違う。この蜂は、人を刺して殺せるような強い蜂じゃない。ただ、残酷さにおいて右に出るものは人間以外存在しない」
「人間の次に、残酷な蜂」
「そうだ。その残酷さ曰く、『種の起源』の著作者であり、進化論の定礎を築き上げた世界でもっとも有名な生物学者の一人、と言っても過言ではない、チャールズ・ダーウィンが『慈悲深い全知全能の神が、ヒメバチ科の寄生バチを創造なされたとは、私にはとても思えない』と書き記すほどだ」
「それはどんな、蜂なんですか……っ」
囀子の手はわなわなと震えている。怖い、怖い。どんなことを、わたしはどんなことをおとうとさんに、わたしにしたのだろう。わたしは、わたしの知らないところで、なにをしてしまっていたのだろう。
「これは、所謂
「じゃあ、生まれたばかりの芋虫は……」
「当然、狩りの能力はない。顎も小さく、葉っぱも食えない。植物を食べるための消化器官も酵素も持っていない。肉食だからね」
「でも、そしたら、死んじゃうんじゃ」
「そうさ。普通なら死ぬんだよ。でも、普通じゃないから死なないんだ。先程私は産んだら産みっぱなし、と言ったね。実はそれには語弊がある。寄生蜂は先に幼虫の餌を捕まえてくる。これは他の虫の幼虫だ。大体は蝶とか蛾とかの芋虫を捕まえてくる」
「殺して、食べさせるんですか」
「いいや、そんな怖くて残酷なことはしないよ。代わりにもっと残酷で絶望的なことをするだけだ。それに、幼虫が親になるためには数日から、種類によっては数週間かかる種もいる。そんなに時間がかかるのに先に殺してしまったら――」
「腐って、食べられない、ですか……でも、じゃあどうやって」
「だから、残酷なことをするのさ。――君、麻酔薬って、わかるかい。バルビツールとかエーテルとか、通仙散とかだ」
「つうせんさん、以外は聞いたことありますけど……」
「うむ、通じて何より。それらは概して痛覚を奪い、意識を奪い、人を
「まさか――」
囀子の顔からさっと血の気が引く。その恐ろしい儀式を、考えられうる最悪な可能性を、当然、想像する。
新石の口が開く。流麗な唇が、蠢く芋虫に幻視する。
「そう、ご想像の通り。生きた状態で、卵を産み付けるのさ。そして穴蔵に仕舞ってしまう。見つからないようにね。卵から生まれた幼虫は、身動きが取れない芋虫を極めて器用に、生存に関係ない場所から食い進めていく――」
めり、めり――。
囀子には、聞こえてしまった。
内臓が、食い漁られていく音。囀子は想像してしまう、想像せざるを得ない。人の身体に置き換えてしまう。這い回る虫が、体内を齧り付く。痛みはない。
卵巣が、なくなる。次は膀胱が、無くなる。腸が、胃が、指先が、足先が、腕の筋肉が、足が、徐々に、徐々に、穴だらけになり、中で蠢くものが大きくなっていく。だのに、出てこない。出したいのに、気持ち悪いのに、意識はあるのに、身体は動かない。何日も何日も、その気味悪い音を聞いている。柔らかいものが咀嚼されていく――知らない部分が、消えていく。
中身の圧迫感は、日に日に増していく。自分は無くなっていくのに、自分でないものが膨れ上がって勝手に動いている。
自分でないものが、勝手に――動く?
その感覚は、わたし、識って――
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異常識探偵・一 Honest Hornet 安条序那 @jonathan_jona
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