第22話
緩慢な動きでふらふらとよろついていたはずの彼女は、気が付けば駆け寄るようにこちらへと近付いていた。そして手を伸ばし、サッカーボールとハンカチを取る――と思われた手はそのままそれに触れないままに止まり、女性の眼球がこちらを向いた。魚のような目だ、どこかギョロついているのに、やけに水っぽくて震えている。
「そこの、木の下ですよ――子供でも探していらっしゃるんですか?」
「ああ、そうなんです! 翔太って言って、小学生くらいの子供なんです」
「――そうですか。ですけど、まだ日の高いうちですから、きっと子供さんもどこかで休んでるんじゃないですか?」
「でも、心配で……」
「子供さんは賢いですし、大丈夫ですよ。それより、お家はどこですか? 送っていきますよ。随分疲れていらっしゃるようだから」
自然を気取る。お人好しのフリをする。普段なら何気なく通り過ぎるような無関心な人間が、利益のためだけに親切を気取る。だが切羽詰まっているが故に、そんなことを言っていられない。本当に心からお人好しな人間は、既に瀕死の重症なのだから。つくづく嫌なものだ、と椥辻は思う。彼女が本当に困っている時に助ける人がいたならば、きっと彼女はここに居ない。異常識の中、子供を探して彷徨い続けることなど無かったのだろう。こんな嘘つきに騙されることも無かったのだろうに。とはいえ、迷わずを嘘をつく。この椥辻は、今は誰よりも囀子を優先し、彼女を助けると決めたのだ。
「ですけど、心配で――」
「でも、子供さんも母が倒れてしまったら心配ですよ。子供さんの為だと思って、さあ、そちらへ。確か普段あちらから来られていますよね」
嘘に嘘を、塗り重ねる。聞いた話を、さも知っているように騙る。普段からあなたを知っていますよ、というような情報で、警戒度を下げる。薄っぺらい笑顔を作る。仕事用の自然な笑顔で、悪辣を極める。
「そ、そうかも、しれませんね。ありがとう。ご親切に。良ければあなたもどうですか? 狭い家ですが……」
「そんな、いいんですか? でも、今少しふらっとするくらい暑くて困ってたんです。良ければお邪魔しようかな~」
――。
と、歩き出した彼女の後ろをついていく椥辻だが、奇妙な不気味さに襲われていた。現状の話をするなら、椥辻は大成功もいいところで、首尾よく彼女の根城の位置を突き止めた。だが、余りにもトントン拍子がすぎる。それに切り出したのも彼女。これでは想定したのと全く逆だ。根城の位置を突き止めたというよりも、根城に誘い込まれたような形である。彼女の後をついていくと、方向は北山通りに向かって上がっていた。こじんまりとした低い民家と電信棒の空の間を進む――すると彼女は急に右へ折れた。通りがそこにあるわけでもないのに、急に建物の方へと曲がっていったのだ。驚いた椥辻が覗き込むと、彼女が入ったのは、コンクリートで固められた民家と民家の間にある小さな小径だった。正面には小さな門構えがついており、その奥に民家があるのだ。
「あまり見かけませんか?」
背後で立ち止まった椥辻に、女性はつい、と振り返ってそう言った。
「あ、はあ。あまり」
「そうですよね。昔のお家の名残ですから。この奥も、前までお隣さんがいらっしゃったのに、もう今では私と息子しか住んでいなくて――」
肩幅もギリギリくらいの小径を進むと、苔が覆った前庭が見えた。左端に丸い石が置かれており、それを囲うようにリュウノヒゲとドクダミが生えている。だが手入れされている様子はない、ほったらかしにされて長いのだろう。右手にはほとんど腐ったあばら家のような家が建っていた。ガラス戸の玄関は割れており、中の居間は薄暗く日が差し込んでいる。そしてもう一歩踏み込んだ突き当り、正面が彼女の家だそうだ。お隣さんよりは幾分か綺麗に見えるが、それでもほとんど腐りかけの日本家屋という印象は同じで、間口がやたら狭い。女子供が住むならばそう不自由しないだろうが、男が出入りするには身を捻る必要があった。
「すみませんね、狭い家で。あがってください」
「失礼します」
「そこの居間で座って待ってください。お茶でも、用意しますね」
「お構いなく、ありがとう――」
玄関から向かって右に、すぐに台所があるらしい。正面には小さな卓袱台の置かれた居間があり、左手奥には傾斜のやたら激しい階段があった。タンスの上には毛糸のひざ掛けや煙草の箱、吸い殻の残った灰皿など、やや生活感がある。だがもっと荒れ放題なものかと思ったが、想像よりもずっと整頓されている――床は板の間で暑いも寒いもそのままの、よくも悪くも日本家屋といったところなのだが、その上に二階の空間が見えていた。夕焼けの紅い光が貫くように真っ赤に染まっている。光の反射具合から、左に折れている先には廊下があるのだろう。
椥辻は、座るフリをして階段に足を掛けた。長居をする必要はない。さっさと異常識の起点となった子供を見つけるべきだ。ボールと乳歯を卓袱台に置いて、椥辻はほとんど這うようにして階段を上がっていく。そしてその廊下の前に立った瞬間、酷い立ち眩みに足下が揺らいだ。大きく深呼吸をする。ふと違和感に目をやると、左手首にあった腫れが広がりイボのようになって、肘まで進んでいる。
「――まずい。急がなければ」
折れた先の廊下には、三つの部屋があった。西日が差し込む廊下――。囀子はなんと言っていたか、夢の話では、そうだ。窓とクロゼットのある部屋だ。その時だった。階下から母親の声が聞こえた。
「あれ、お客さん、どこに行かれました?」
椥辻は足音を潜めながら、一番近い部屋の襖をそっと開いた。ふわり、と香る埃と、砂の細かい粒子が飛ぶ。それを思わず吸い込んでしまって、喉に入り込む。反射で咳き込んでしまいそうになりながら、横隔膜を無理矢理下げてなんとか誤魔化す。小さな呻きだけで喉を押さえて中を確認する。窓がない。違う。摺り足でそっと隣へ。
「お客さん? 靴はあるから、どこ?」
再び襖を開ける。ここでもない。歯噛みする。こんな急いでいる時に、どうして三分の二を外してしまうのだろう。焦りに額から汗が落ちる。しかし椥辻は、少なくとも一つ目の部屋を開けたところで気がつくべきだった。西日がどこから差し込んでいるのか、この夕方の時間に日が差し込むということは窓がどの方角を向いているのかを、言われずとも『西日』という言葉のそのままの意味で気が付いているべきだった。この家で、西を向いているのは、その部屋だけなのだから。
その部屋の襖を開けた時、椥辻は階段に足音を聞いていた。同時に、視界の中にあったそれは、この部屋が全ての始まりであり、異常識の起点であることを現す証拠だった。西日が差す、夕暮れの部屋。カーペットに子供用のおもちゃが転がっている。そして左手奥側にクロゼット、右手奥側に子供机と窓がある。
「翔太、くん」
心臓が高鳴っている。椥辻の思い描いていた解決とは、明らかに違う。椥辻の予定では、この部屋の前で『翔太くん』と呼びかけることでその異常識は破れるはずだったのだ。なぜなら、これは『子供』の異常識であり、子供の抑圧された恐怖と囀子のそれが合致して生み出された異常な場所であるはずだから――その核たる『翔太くん』をどうにかすれば、異常識は破れる、はずだったのだ。
だが、椥辻の目の前にあるクロゼットのレールは、黒い染みが出来ていた。囀子の見た夢の内容では、あそこに『翔太くん』が入っていたはずなのに。隙間からは、どす黒い
もう一歩部屋の中に踏み込んだ瞬間、椥辻は再び戦慄した。カーペットの上にも、死体が転がっている。新生児くらいの大きさの、干からびたミイラ――。夏の西日で乾いて崩壊した、およそ人の形とはもう形容できない、乾いた肉と骨の塊。首があらぬ方向へへし折れている。骨は水分を失って反ったのか、イカの胴みたいに開いて伸び切っている。
どんどんどんどんどん。
背後から駆ける足音があった。左手首から熱が追い上げてくる。
絶体絶命――異常識に追い込まれていたのは、椥辻の方だった。椥辻は見てしまったのだ。この部屋がどうして『異常識の核』になったのか。それは急速に椥辻を異常識へと引き込んで、影を捉えて首筋まで上がっていた。そう、椥辻の疑念は正しかった。彼は最初から、ここに追い込まれていたのである。
だが、それは
その間にも椥辻は踏み込んでいた。部屋の中へ。一歩一歩と踏み込んで、まずカーテンを開けた。そしてクロゼットを思い切り引き開ける。何かが挟まっている――力任せに引くと、レールが外れ、まともな建付けではないクロゼットの扉がガラガラと音を立てて崩れる。そこで母親は、部屋の前へ辿り着いた。
ごろり、という音で転がったのは、子供の白骨化した頭部だった。徐々に明るくなっていくクロゼットの中では、白い反射が幾つも見えた。
「やはり――翔太くんは、もう死んでいるんだ」
血の気が引いて、手の温度が冷たく感じるようになっていく。
椥辻の眼下にあったのは、足首の骨を食い込むほど柱に括りつけられたまま死んでいる、子供の骨だった。肉だった部分が完全に無くなって溶けている。クロゼットの柱には、幾つもの噛み跡があった。そしてその下には、ボロボロになった乳歯の欠片が、いくつも落ちていた。隣には、花が咲いたような白いカスの付いた芋虫の死体があった。
椥辻は、悟る。この家は、全て異常だ。
「この家に住んでいるのは、一人だけだ! 最初から父親なんて居ないんだ……!」
悍ましい想像が、脳を駆けていく。夕暮れが差し込む部屋。紅すぎる部屋。何もかもがおかしい部屋。ここまで辿り着くまでに全ての部屋を開けてきた。しかしそこには、何一つ荷物が無かったのである。ただのがらんどうがあるだけ。
椥辻の脳裏には、邪悪な想像が実を為していく。
子供がいない母親。或いは居たのかも知れない母親。
全てが、全てが妄想だとすれば、真実などどこにもないのだとすれば。
囀子の見た夢でさえ、その人の妄想だったとするならば。
異常識は、すぐそこにあったのだ。囀子が出会ったのは、蜂だったのだ。
蜂に出会って、母親を見た。
なんだ、始まりは同じじゃないか。
生きている子供を
ただ囀子が、そう思っただけ。いや、彼女が持っているトラウマから、そう
そうか――だとするなら、繋がる。
母親が子どもを探す声から勘違いしただけで、存在しない子どもを、いると勘違いしてしまったのだ。通報した近隣に住んでいた人々と同じように。
囀子の身体は夢の中で若返っていたかもしれない、『翔太くん』という少年の記憶をなぞったかもしれない。
けれど、それはイコールで『翔太くん』がクロゼットの中で生きている証拠にはならない、それどころか、この異常識はもっと歪だ。
もし囀子が見た
母親は探している――今も探している。
「だとするなら、これは子供の異常識じゃない――
振り返ってみれば、その兆候は最初からあった。最初からこの母親の子どもの像は曖昧じゃないか。
――翔太、翔太……どこ、ママはここだよ。ママだよ。
――ああ、そうなんです! 翔太って言って、
「なんだこれ、自分の子供なのに、顔がわかるはずだとか、小学生
――。
遂に、足音は椥辻の背後にやってきた。けれどその足音は、既に足音と呼ぶには不適切で、正しく形容するなら羽音だった。
がちがちがちがちがちがちがち――。
ぢがぢがぢがぢがぢがぢがぢが――。
振り返った椥辻は、その姿を見た。
「そこに居たのね。翔太」
その声は、蜂から発されていた。
そこに母親は居なかった。腰の細い蜂の大群が、人の形をなぞっているだけだった。
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