第21話
――ああ、その話、知ってるわよ。最近もずっといらっしゃるんじゃないかしら。そのお母さんね、ずっと探しているのよ。息子が居ないとか、公園で消えたとか。五時くらいになると日が傾き始めるでしょう?
そう、その頃にね、いつも来るのよ。言っても、そう……一年くらいかしらねえ。でもみんな住んでるとことかは知らないと思うわよ。何回かね、あたしたちも通報したり、ご近所さんで一緒に探してあげたりしたんだけどねえ。毎回急にどこかへ行っちゃって、最後はそのお母さんの方が迷子になっちゃって見つからないの! 子供さんも居ないし。だからねえ、ちょっと話し合いをしたいと思っても、やっぱりあそこまでおかしいとあたしたちもすることなくってねえ。そうなの、あなたそのこと調べてるの……。おばちゃんなんも出来ないけど、こんなのもってきなさい! さっき安かったら買っちゃったやつ、うふふ。頑張ってね! 熱中症気をつけるのよ。えっと、そうねえ、公園の東北側の道あるでしょ。お
とある話好きの婦人に辿り着くまで、椥辻は熱中症アラートの発令されている灼熱の京都を、汗だくになりながら回っていた。行っていたのは、戸別訪問である。一軒一軒回って、子供を探す母親の話をし、出来れば知っていることを教えて欲しい、と一つ一つ聞いていく。だがこの御時世である。どこも「お話を聞かせてください」と馬鹿正直に切り出したとて、うまく行かないのが常套だ。怪しがられ、或いは宗教勧誘だと誤解され、若い娘にはストーカー紛いの変態だと勘違いされることもある。そう、実は探偵調査なんていうものは、こういう地味でかっこ悪く、どうしようもないほど怪しい作業群で構成されているのだ。世間様が持つ、『探偵はカッコ良い』というイメージは、名探偵のホームズやポアロ、コロンボやミス・マープルと言った華々しい推理能力によって口先一つで事件を詳らかにしてしまうフィクションで構成されたイメージで、実際にはこんなにもみじめな不審者である。
だからといって、気の利いた作戦があるかと言われればそうではない。時間があれば策の一つでも二つでも練って効率化も図ろう、何かしらで外注できないか、欲しい情報に代用できる何かがないかと頭を捻ることもしよう。しかし今回に限っては、そんなことしている暇がない。一分一秒争う事態なのだ。そうなれば古き良き総当たり、これに頼るしかない。
「……はあ、はあ」
椥辻は腕時計を眺めつつ、公園の木の下に避難していた。時計の文字盤は、十六時半を回っている。日はゆっくりと傾き始め、やや赤黒い斜陽が始まりを告げていた。しかしながら、夏はここからが長い。百戸近く当たって、話を聞けたのが五六件、その中でも、きちんと繋がっていそうな証言はたった三つ。効率の悪さに笑ってしまいそうになるが、それでも使えそうな情報は拾うことが出来た。
「使えそうな情報に番号を振ってまとめると――①囀子が拾ってきたボールとハンカチはその母親が公園に置いたものである。②その母親はボールとハンカチを自分で回収してから帰路に着く。③誰もその母親の家を知らない。同時に他の生活風景も見たことがない」
改めて挙げてみると、奇妙極まりない挙動である。子供のいる親は、高確率でご近所付き合いというものに参加している。幼い子供がその公園で遊ぶくらい身近なら、家から公園は離れていないと想像して然るべきである。であるなら、その子供の親がこれだけ、つまり百戸近く回ったにも関わらず殆ど認知されていないとは考えにくい。それも通報の情報を合わせて鑑みるなら、異常行動を取っている母親なのである。だというのに、その母親について誰も知らない。何も知らない。もしくは『絶対に関わりたくない』という可能性もあるのだが、今のところそれは情報無しと置き換えてもさほど齟齬はない。囀子の夢と合わせて考える――子供が自転車に乗っているという話は無かった。公園の中にあったのは、ブランコとサッカーボールだけ。だとするならやはり遠い場所から歩いて来ているわけでもないのだろう。だが、一つだけ引っ掛かる。
囀子の夢には、
椥辻は一息つこうと、おばさんから頂いた炭酸飲料の蓋を開けた、
その時だった。
椥辻の眼の前に、蜂が飛んだ。
腰のくびれた、顎の長い蜂だった。
がちがちがちがち。
がちがちがちがち。
珍しい羽音だと思った。同時に、墨を流したような黒い蟲眼に、夕焼けの紅色が――反射して、いなかった。椥辻は思わず、足に力を込めて立ち上がった。砂場の上をふらふらと、墜落しかけのヘリコプターみたいに飛んでいる。
その蜂は、自分の身の丈よりも大きな芋虫を抱えていた。緑色のもちもちした身体は身動ぎもせず、まるで子が親に抱かれるように体重を預けていた。蜂もその芋虫を大切そうに抱えて、自らの家たる場所にそれを運んでいた。
それはブランコの方へ向かい、途中で左へ折れてネズミモチの木の下へ向かう。そして芋虫なんて入りそうもない小さな穴に、せっせと芋虫を送り込んでいく。砂が赤く反射する。こんな紅い夕焼けは、魔に出逢う。
逢魔が時が、やってくる。
ガヂガヂガヂガヂガヂ――。
羽音が聞こえる。同じ音が連鎖する。ずうっと、なんども、繰り返す。紅い夕焼けの中を、同じ音が満たし続け。
音の頭が、反転する。
ヂガ。
ヂガ。
ヂガ。
似ガ。
ヂガ――。
ガガガガガガ、我。
音が止み、いつの間にかぼやけていた視界が再び焦点を結んだ時、その蜂は足を折り曲げて死んでいた。羽根が邪魔で、ひっくり返ることすら出来ないまま、身体を横たえるようにして死んでいた。
「はっ」
思わずぼうっと眺めてしまっていたことに気が付いて我に返った椥辻の耳には、ブランコの音が聞こえた。
きい、きい、と擦れる音。一つではない。ブランコは二つ鳴っている。いや、おかしい、と椥辻は気が付く。この公園には、自分以外の人間はいなかったはずだ。
それに、最初からしておかしい。あの蜂の眼だってそうだ。反射がない。それに気付いた途端、後ろからやけに速い風が吹いて、椥辻の耳に膜が張るトンネルの中のような感覚があった。空に浮かぶ太陽が朱色の渦を巻いている。世界が紅く満たされて、朱の中を黒い影だけが歩いている。
待てよ、と椥辻は焦る。腕時計は先程十六時半を指したばかりだったはずだ。昨日の日没は六時。だとするとたった一日で日没が一時間近くも早まったことになる。そんな訳がない。有り得ない。
だとするなら――。
「マズい。ここはもう、さっきまでの場所とは違う」
これは経験的に、もう既に、『取り込まれている』。こちらが異常識の核を探していたということは、あちらへ『近付く行為』である。だから取り込まれる可能性があること自体は理解していた。しかしそれは何かの条件を踏んだとか明らかな前兆が提示されていた場合であって、こんな風にまるで気が付いたら、というような入り方は今まで経験してきた通例的なものではない。だとするなら、可能性は椥辻がその前兆をまるっきり見逃していた、という帰結になるのだが――。
もう一度、椥辻は時計を見つめる。文字盤の位置を確かめる。その銀盤は、十七時四十五分三十二秒を指している。一時間以上も、たった数分の間に進んでいる。しかし秒針を見ている間に針が加速されたということはない、いや、それどころではなく十七時四十五分三十二秒で時計は止まっている。だとするなら、ここは現実の時間とは既に離れていると考えるべきだ。わかりやすい名前を付けるなら、『十七時四十五分の世界』。
実を言うとこの椥辻、こういう異常識の空間に連れて行かれるのは初めてではない。こういう引き込まれ方は、こちらの調査が佳境に入ったことを暗に告げる兆候である。異常識の見えない扉を開く鍵が手許にあり、その真相に近付けば近付くほど、情報を持っている人間と異常識は近い感覚を共有し始める。それは密度の濃い異常識の中に自ら入り込んでいくことであり、極めて危険を伴いながら異常識の内部にあった事件や感覚を鋭く感じ取ることができるようになるということでもある。
「ぐっ――」
まず最初に、椥辻に起こった異変は、手首の痛みだった。熱を持ちながら震える左手首の内側に、やはり囀子と同じようなやけどかかぶれの痕のようなチクチク痛む腫れが現れた。それは更にどくどくと血走りながら首の方へ向かって進んでくるような気味の悪い蟻走感がある。つまり、時間がない。これが椥辻ごと飲み込むようなことがあれば、それは囀子よりも先に椥辻がリタイアするということである。そうなると、椥辻と囀子は仲良く同じ異常識に呑み込まれて二人楽しく伴狂いということになるわけだが――。
「笑えないな。そんなことになったら、なんの為にここに来たんだって話になるし、オチもなし、か」
強がり嘯きで景気を付けると、椥辻は翻った。辺りの景色を確認する。すると先程まであったブランコの気配がない。揺れたままのブランコが二つ、ただぶらぶらと揺れながら軋んでいる音を出しているだけだ。だが、進展はあった。翻った椥辻の視線の先には、たった一人だけ女性が見えた。公園の正面位置から見て北東側、あのおしゃべり好きの婦人が言っていた通りだ。その女性は痩せきって頬骨の浮き出した顔に、落ち窪んだ骸骨のような顔面をしていた。ただ奇妙なのが、首から上が痩せているのに、その下の肉体がやけに豊満なことだった。女性的な双丘の膨らみと、絞られた腰回りから突き出すような尻――スカートの隙間から見えるくるぶしも決して不健康さを象徴するような弛んだ足をしていない。首から上だけがまるで砂漠に放置された植物のように枯れきって、変な話首の上だけ別人のような雰囲気を纏っている。その女性はふらふらと歩きながら、空に浮かぶ渦のような朱色の湖、異常識の太陽の方を向きながら子供の名前を呼んでいる。
――翔太、翔太……どこ、ママはここだよ。ママだよ。ママの顔、わかるでしょ。出ておいで、翔太。
彼女はふら、ふら、とよたつきながら歩みを進め、正面の日陰に、何かを置いた。
それは、サッカーボールと、ハンカチだった。
「――なぜ」
椥辻の目が見開かれ、その場所に置かれたサッカーボールとハンカチをよく観察しようと凝視する。その行動は、明らかにおかしい。外目から見る分には、昨日家から回収したものと変わらない。百歩譲って、サッカーボールだけならまだわかる。無くなれば買ってくればいいからだ。しかし、あのハンカチの中身は――。
乳歯、なのだ。
乳歯は一人二十本しかない。昨日は二本、もしあのハンカチの中に再び同じ数の乳歯が入っているとするならば、昨日と合わせて乳歯は四本。そうなると実に子供の口内にある歯の五分の一にあたる歯が持ち出されていることになる。そんなことがあり得るのだろうか。そして、その行為にもし意味があるとするならば、
椥辻の脳裏には、新石の言葉が蘇ってくる。『歯は強い呪具として使われた』。ということは、その歯を異常識への触媒として扱い、何かをしようとしているのだろうか。だがその何かがわからない以上、やはり椥辻はここでも探偵行為をするしかない。明らかな異常識の核と対峙している今であっても、軽々と行動を起こし、その異常識から異物として排除されないよう、出来るだけ自然に。家の中で気味悪さに耐えながらシャワーを浴びたように、異常識の一部分のようなフリをしてやり過ごしつつ情報を得なければならない。これが椥辻の普通の探偵との相違であった。彼は
「落としましたよ。大丈夫ですか?」
椥辻は、迷わず声を掛けた。サッカーボールを拾い、ハンカチを拾い上げ、その中身をあけることなく触感だけで乳歯と断定した。異常識の空間の中は、本来一秒でも早く抜けなければならない。こうして視覚的には、感覚的には全くの別空間に迷い込んでいる椥辻ではあるものの、それは椥辻が『異常識』に引きずり込まれたからであって、周りの空間は、今も変わりなく普通なのだ。椥辻が狂っているだけで、他の全ての人間にとって、今は十六時半すぎ、まだ暑い太陽の昇っている夕方差し掛かりなのである。そして異常識の空間にあって大切なことは、異常を受け入れないことである。世界が狂っていること、それを感覚に従って完全にその通りだと肯んじてはいけない。その異常を肯定するということは、異常を常識と認めることである。だから椥辻は普通の行動を取る。目の前の御婦人が何かを落としたから、話を聞いて子供の捜索を手伝うというような当たり前のことをする。そしてそれとなく、こう付け加えるのだ。『まだ暑すぎる時間だから、一旦家に戻るべきですよ』と。自然に家の場所へと誘導し、そこへとお邪魔するような形で彼女の家の中へ侵入する――。
「それ、どこにあったんですか――! うちの子のものです! ありがとうございます! ああ、どこにありましたか?」
と、頭の中でシミュレーションを済ませて置いたはずの椥辻の想定は、儚くもたった三秒で打ち砕かれた。
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