第20話
「ごめんなさい――
言葉にすればするほど、卑屈な謝罪が漏れる。何を謝っているのかわからないのに、それでもなんだか悪い気がして、囀子はどんどん追い詰められていく。抜け出した家族に頭を踏み潰されるような恐怖がじわじわと近付いてきて、思わず声が漏れる。それでも囀子がなんとか正気に縋り付いて居られるのは、頭上にあるこの大きな光と熱の塊が、超常の者として囀子の上に覆いかぶさって、何人も侵入できない神聖さを担保している気がしていたからだった。囀子の心は既に、頭上の存在を、人智の外にある大きな何か、即ち神のそれだと認めていた。そうでなければ、この告白の途中に自分が潰れてしまいそうだから、既に自我を神へと投げ渡し、責任を手放していた。そうせざるを得なかった。この他人任せで圧力に負け続ける癖こそが、自分をこうした最大の原因だと辟易するほどに見詰めてきたのに、今日もこうして、出来なかった。
「養父母のことを語れ。嘘偽りなく語れ」
その言葉に、囀子の体中から脂汗が浮き出した。呼吸は浅く、早くなり、胃がキリキリと悲鳴を上げ、思わず失禁までして、みっともなく全身を硬直させて、叫びだしそうになっていた。夢ならば覚めて欲しい、けれどこれが夢でないことは、覚めないことが答えだった。目覚めに逃げることすらできない現実が、その逃げ道を既に潰していた。だから囀子は嗚咽しながら、全身から迸る涙や涎、汗や尿まで滴らせながら、それでも口を開いた。言葉にしようと、舌を縺れさせながら声を発した。そう、こんな状況を、椥辻は放っておかない。できるはずがない。だから新石は、彼に別の役目を与えて外へ出したのだ。もちろん時間的な制約と、もう一つの目的も、紛れもない事実ではあるが。
その禁忌を語ること、その禁忌の内容にこそ、この異常識の核がある――。
異常識は、常識故に、理由がある。
元来、テーブルマナーが食事中の不意打ちを防ぐためのものだったように、元来、ジーンズは虫除けの効果を信じてインディゴブルーに染められたように、忘れ去られて久しい常識にも本来はれっきとした意味がある。現在は意味がなかったとしても、その痕跡となる、根本的な理由がある。
だからそれが『家族』だとわかった時、新石は手を抜くことが出来ない。それを頼んだのが他でもない、斎宮椥辻という究極の天敵である以上、新石だって迂闊に手を抜くことは許されない。
「養母さんは……っ私の、ことを、すごく大切に、育てて、くれたんでうっ。いっぱいご飯も食べさせてくれたし、欲しいものも、少しずつ、買ってくれました。お洋服も、全然好みの服じゃなかったけど買ってくれたし、満足、してましたぁ! 養父さんは、わたしの、生活費を払ってくれてて……よく撫でたり――」
ひ、ひぅ、と、囀子の声は擦過音だけになって止まった。見開かれた大きな瞳には、痛々しいくらいの涙が浮かび、なんとか呼吸をしようとするのに、横隔膜が痙攣していて肺が動かない。
なぜ動かないのか、囀子の脳裏には大きなごつごつした手が思い浮かんでいたからだ。そして聞こえないはずの声が聞こえていた。
『囀子は可愛いなぁ。僕ヵァねえ、娘が欲しかったんだ』
その手は、まるで子猫を撫で回すように囀子を触った。指先から甘い香料の香りがして、それは煙草のものだった。囀子は父親が居なかったから、その手が全て善意による普通のものだと思っていた。だから寝た後にこっそりと、足音を忍ばせて身体を触ったり撫でられたり、キスされたりするのも当たり前だと勘違いしていた。それが違うと気がつくのに、長い長い時間を要した。学校の授業で子供の虐待について知るまで、囀子はそれを普通だと思い込んでいた。同時にそれを知ったせいで、囀子はこれから恐ろしい転落を受け入れることになる。その始まりは、養母の買ってきた服から始まった。
ある学校終わりの、夕刻。囀子は養母の着せ替え人形だった。
「ずっと、ずっと、なんだかちょっとだけおかしいなあって、思ってたんです。私の服だけ、なんだかデザインが古いなあって、思ってたんです。服の組み合わせも、全部指定されてました……! それである日、何気なく家の中に仕舞われてあった、インクが焼けてるくらい古いファッション雑誌を見たんです。養母さんのものです。何十年も前のものででした……っそこには何個も付箋がついてました」
それは、どの時代でもありがちな流行をまとめた雑誌だった。付箋がついており、その付箋には『デート用』と書かれていた。つまり、養母が昔養父とまだ恋人だった頃、その服を着てデートに向かったということを示す証拠である。囀子はそれを、すぐに理解した。そして、その異常を、理解した。
養父の異常と、養母の異常、その両方を、字面ではなく精神で理解してしまった。
「でも、でも……! その服、なんだか見覚えがあるんです。全部に、見覚えがあるんです……だって、その服は、私が着てる服と同じだから! 鏡の前に立つと、同じ、そっくりの姿になるんです! それで、それに気付くと、全部わかっちゃったんです。そういう服を着てる日は、養父さんは、私のことをすごく触るんです。それがすごく嫌で、怖くて。でも、それを養母さんも見ているから何も言えないんです。見ているのに、脱がされたりするのに何も言わないんです! ただ満足してるみたいに、私が触られるのを見ているんです。それで……それで……!」
そう、養母は囀子を助けなかった。それどころか、喜んで養父の欲望を満たす手伝いをしていた。いや、そもそもの話をすれば、この計画も最初から養母の作り出したものであることも、囀子は養母から直接聞かされた。娘が欲しい、そう言った養父が実際は『若くて自由に消費できる女が欲しい』という浅ましい欲求を持っていることを看破しながら、それを拒否することもなく、粛々と計画を進めたのだと、本人の口から聞かされた。それを話す彼女は、全く悪びれる様子もなかった。養母は異常なまでに、歪みを全て包容するほどに養父と実子の息子のことを愛していた。囀子が居たのは、余りにも罷り間違って末恐ろしい、異常な愛である歪んだ空間の中心だった。
生贄として。
囀子は最初から、異常識の中心に居たのである。
「して、そちはなんと思うたか、告げよ」
「怖い――怖かったんです! 私は、怖くて、怖くて、どうしようもなくて、恐ろしくて」
高校生になって、囀子は怖くなった。その頃には、他の人と結婚している兄まで囀子に手を出すようになっていたからだ。そんなある日、囀子の生理が止まった。養母から渡された検査キットを見た瞬間の、心臓に穴が空いて真っ赤な血液が身体を突き抜けていくような感覚を、未だに囀子は克明に憶えている。結論から言うと、それはただの体調の乱れではあったものの、その時、遂に囀子の中で何かが音を立てて壊れた。そこにいることができなくなった。
「だから、私は逃げたんです! おとうとさんの家を頼るつもりも、最初はなかったんです! 行ける場所を当たって、全部ぜんぶまわって、それでだめだったら、しんじゃう! しんじゃうって、かくごして、わたしは、にげたんです! それでも、わたしは――」
囀子の瞼の裏には、既に思い出すことが出来ない実母の姿が浮かんでいた。囀子は、それでも夢を持っていた。いつか、大人になったら、もう一度お母さんに会いに行きたい、その時にはようやく愛してもらおう、そんな健気な幼心の決心を、未だに諦めきれなかったのである。
「お母さんに、会いたくて。養父さんが、怖くて、養母さんが、怖くて――あの家が。怖くて。それだけ、だったんです」
がっくりと、全て言いきったように、囀子は項垂れた。頭を床に擦り付け、がくがくと震えながら、自らの罪を告白するように言い切った。
それを受け止めるように、新石。
「まことか」
「本当、です」
「まこと、なのだな」
「はい、本当、です」
二度確かめて、新石はこう問う。
「天地神明に誓えるか。そなたの弟君の命に代えても、誓えるか。まことである、と」
「――え」
告げることは全て告げたはずなのに、どうしてこんなことを。
囀子が顔を上げた時、眼の前には自分が吐き出した赤黒い塊があった。
それは胎児の形をしていた。赤黒い、蹲る胎児。それがこちらを向いて、嬉しそうに笑っていた。額から、まっすぐ割れている。
がちがちがちがち。
聞こえる。
音が聞こえる。
囀子の目には、肉塊の内側に大量の蜂が渦巻いているのが見えた。蚊柱のように立ち上る大量の蜂。それは中心核となる一匹の蜂を核として、円錐形を書くように飛び回り、囀子を巻き込もうといきり立っていた。文字通り、蜂起していた。
「ひっ、いやっ、いやあああっ」
囀子にしがみつこうとする蜂球に、新石は十字の形に組み合わせられた布を振った。
――ふるへ、ゆらゆらと、ふるへ。
その言葉とともに、囀子の正面からその蜂球は、散逸して影となって散った。部屋の壁に逃げて、じっとこちらを窺っている。
「波羅場囀子。もう一度だけ告げる。まことを、申せ」
新石の言葉に、囀子の瞳は見開かれて彼女を見た。
そこには、先程まで付けていた布を剥いで素顔を晒す新石の姿があった。
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