第19話

 もう一度囀子てんこが目を覚ました時、眼の前には蝋燭の炎が揺れていた。背中には冷たく磨き上げられた石の感覚があり、首筋に伝う髪がすこしくすぐったかった。天地の入れ替わった空には黒ずんだ天井が広がっており、その四方は赤い木製の柱が部屋全体を支えるようにして突き立っている。壁面には紙垂しでのついた麻縄がぐるりと部屋を一周するように掛けられており、足の方には上へと繋がる階段があった。階段の入口は何重もの麻縄でより厳重に封印されており、この空間の中で空気が停滞しているようなやや重い感じがした。

 やがて呼吸を少し整えた囀子は、視線を自身の周囲へと向けた。床には何かの模様が朱色の塗料で塗られており、蝋燭は模様の頂点に置かれているらしい。頭の先にある蝋燭の向こうには、一人の女性の背中が見えた。巫女装束を着て、顔から耳まで全体を覆うように白い布を付けている。彼女の正面にあるのは小さな朽木の社で、真ん中には綺麗に磨き上げられた鏡があり、酒と枝振りの良い榊が奉納されていた。台には斜めになるように大幣おおぬさが備えられている。

 囀子がその女性を『新石』と呼ばれていた女性だと判別したのは、その背姿と黒髪の中でもなかんずく艶めく美しい髪をしていたこと、服飾に興味のある人間としての体型記憶――ぼんやりとしたシルエットを克明に記憶していたからである。そしてその女性の背姿からは、なんとなく囀子が起きていることに気が付いている気配があった。だがわざとこちらを見ず、じっと社の神棚に向かい合ってその姿勢を崩さずにおり、囀子は思わず声をかけた。まるで、決められていたように。

「もし――」

 囀子の声が正面に向けられた時、遮るように鉦鼓の音がくわん、と聞こえた。同時に、囀子の身体は総毛立った。正面に、得体の知れない何かが現れたような茫洋な不安がやおら立ち上がったのである。部屋の随所に立てられた蝋燭の炎がぐらりと揺れて、部屋の重力が瞬間的に入れ替わって戻ったような、取り返しのつかない何かが部屋の中で変わってしまったような、そんな恐ろしい感覚が脳天を突き抜けていく。ただ奇妙なのは、その感覚を囀子は遠い昔に知っていたということである。遠い遠い、記憶も怪しい影だけの中で、囀子は確かにこんな不思議な感覚に襲われたことがあった。忘れられないほど生々しい感覚であるのにどうして忘れていたのだろう――そんな混乱を遮るように、闇の中から声が飛んできた。

波羅場囀子はらばてんこ。十六歳。生日を」

 静寂の内側からそれを突き破るように新石から放たれた言葉は、石壁から跳弾して拡散し包み込むように囀子へ跳ね返って来た。清廉な波形を持つ神聖な音がシャワーのように降り注いで、囀子は自然と上体を持ち上げて正座になり、頭を垂れていた。何も言われていないけれど、何かを感じ取っている。それは理性よりも野生、催促ではなく脅迫めいた観念で、身体が自然にそうすることを強制している。生存に関わる重要な事項だと、警戒心号を発したのである。だから囀子は、声を震わせつつおずおずと答えた。

「わ、わたし、は、西暦二〇〇八年、十二月十二日に生まれました」

「そちのことを聞いた。親と離れたそうだ。旧姓はなんと言う」

 囀子の額には、不思議な音波が当たっているような奇妙な感覚が広がって、身体が少し強張っているのが感ぜられた。垂れた頭の向こうに、何か大きな存在があるような、或いは光かエネルギーのようなものがあるような気がして、唾をごくりと飲み込んだ。身体の芯から自らの罪を吐瀉させられるような恥ずかしさと、今から告げる言葉に嘘を吐くことが出来ないというような正大さの前に、囀子は所在を無くして吃りがちに答えざるを得なかった。拒否することが恐ろしいというのではなく、拒否したら軽蔑されるのではないか、この素晴らしい何かに――というような、まるで荒唐無稽とさえ思えるような尊敬入り交じる念を以て、やはり囀子の口は開いたのである。

「そ、その。お父さんが、まず居なくなって、その、でも、私、生まれた時から波羅場で、母の名前なんです。一応、戸籍上では、一度違う名前だったようなのですが、それすらも、知らない――」

 できるだけ、精確に。そう焦るばかりに、囀子の言葉は言い訳がましく閉じられた。口元を抑えてみるけれど、吐いた言葉はもう戻らない。

「良い。嘘がない」

 きっぱりと、やはり言葉はどこからともなく反射して染み込むように降ってきた。今、囀子が語ったことは紛れもなく事実である。だというのに、囀子は恐ろしさに消耗していた。自分の言ったことが間違っていないか、自分のことなのに嘘を言ってしまったような憔悴と立ち会って、全身から汗が噴き出していた。息が上がり、まるで全身に重りを括りつけられたようなプレッシャーに潰れてしまいそうだった。新石の気配は、囀子の頭上でゆらゆらと火の影と共に揺らめいている。身体の中で、何かがどくどく震えて動いている。その度に突き上げられたような嗚咽が漏れる。

「あっ……あっ! あっ……ごめんなさい、なんだか、おかしくてえっあっ」

「気にせずとも良い。では次に、そちの親について聞かせよ。現状のことで良い。包み隠さず、偽りなく話せ」

「えっと、えっと――げぶぉえっげえっうっげぷっ」

 親――親。

 親――って、なに?

 なんなんだろう、わからない。

 わからない、よ。

『関係ない。囀子を助けられないなら、その時は俺も死んだ方がずっとマシだ』

 眠りと現実の間で、こんな言葉を聞きました。

 弟さんの、声でした。他の人の声は、聞こえませんでした。

「ひっ――!」

 囀子の瞼の裏をまるで映画のダイジェストのように高速で過ぎ去っていった光景には、自分を捨てた顔も知らぬ父、自分を嫌った母親、溺愛する養父母、そして、椥辻という良い距離で保とうと努力してくれる控えめな男性という一つも統合されないバラバラの像だった。

 けれどすぐに気付いて、囀子は恐ろしくなった。だってそれは、決定的に間違っている。間違っていると、囀子は断言できる。この中に一人だけ、なんら親でもなんでもない、ただの善意の人間が混じっているのだから。だのになぜ、囀子は親と言われてまず最初に、この人のことを思い出したのだろう。親と言われて、どうしてその人の声だけが聞こえたのだろう。それがなぜか最も恐ろしいことである気がして、囀子は両手で必死に頭を抑え込んだ。

「違う――違うの! おとうとさんは。違う! 私の親じゃないの!」

 内側を這いずる鼓動が囀子の胃の辺りまで突き上げた時、囀子は蹲るように上体を前傾させて倒れ込んでいた。心臓からキリキリとした痛みを感じながら、何か押されて空気が漏れる。食道から胃に溜まっていた空気が押されて、げっぷのようなだらしない音とよだれが垂れていく。

「うええっ……ごっ……ごえっごめんなさ……きゃうっあっ――ああああっ!」

 飲み込もうとすればするほど心臓の中に毒が溜まっていき、ようやく押し込んだ毒が逆流していくようなその痛みは、囀子の胸を引き裂くような苦痛へと段階的に変化し始めていた。小さな悲鳴と共にその口から赤黒い液体を滴らせた囀子は、傍から見れば吐血のようにさえ見える噴出を起こしていた。胃から、肺から、鼻から問わず遡った液体が、囀子の足下にびちゃびちゃと汚らしい音を立てて広がっていく。抑えようとする手を汚し、パジャマに大きな染みを作っていく。

「がふっ……ううっ……」

「応えよ。そちの親について、包み隠さず話せ」

 それは、椥辻がいれば殴ってでも止めさせただろう陰惨な光景だった。しかしその当人は今居ない。この囀子を救うため、奔走に奔走を重ねている。そうとは知らず。囀子はのたうつように上体を折り曲げて、そのまま喉の奥に支えていた黒い塊を一つ吐き出した。

「げおえっ……はぁ、はぁ……ごめんなさい、ごめんなさい」

 囀子の瞳からはボロボロと涙が溢れた、一年前の、惨めな囀子に戻ったみたいに、ただ見当もなく謝っている。赤黒い塊がなんなのか、これが血であるのか、そうでないのかすらも囀子には判別がつかない。混乱して、自分の身体が自分でないみたいに熱を持っていることしかわからない。

「そちの順で語れ」

 その声に迫られるように囀子はようやく息を整えると、ふらふらとその顔を上げて言葉を紡いだ。眼の前には、新石がこちらを向いて立っていた。けれど白い布の向こう側には、彼女がいる気がしなかった。蝋燭の火がめらめら燃えている。風も吹いていないこの空間で、炎がまるで生きているみたいに、こっちを見ている。新石さんの先には、もっと大きな何かがいるんだ――囀子は怖くなって再び頭を下げた。そしてようやく、言葉を話すために口を開くことが出来た。

「今のっ、今の父母は、実は……他の人で……私は、養子縁組で、娘がほしいっていう夫婦に、譲られた形なんです。もともとのお母さんは、わたしのことを嫌がってたから、だから、養子縁組で私を愛してくれる人のところへ行きなさいって言われて、それで、そこのお家にはもともと息子さんが居て……だから、私の父母とは今、血縁がなくって、それで私が一番下で。それくらい、それくらい、です。けど、名前だけはお母さんのもののままで――ごめんなさい、ごめんなさい」

 囀子は、実母から愛情がないと表明され、殆ど身売りのように、ある夫妻の元へと引き取られた。囀子がそのことを受け入れたのは、単純に囀子の実母のこれまでの言動が、幼い囀子がその選択を納得してしまうほどに明らかなネグレクトがあったからである。実際囀子は、養子縁組が決まって喜んだ。食事もロクに出来ず、綺麗な服も着ることが出来ない、読み書きだって拙い少女は、その母があけすけに幼い囀子のことを罵っているのを毎日のように聞かされていたのだから。

 だから囀子は使い古してぼろぼろになった、ほんの少しのおもちゃだけを持って、みすぼらしいなりで、一人で電車に乗って、道に迷い何時間も掛けて、養子縁組先の家まで自分の足で向かった。送迎なんて丁寧な真似、どちらもしなかった。囀子はその電車の中で、迷い道の中で、暗くなっていく長い夕陽の影の中で、母に愛されることが出来なかったという罪を、その努力が足りなかった自分を深く反省した。そうだ、大人になったらもう一度お母さんに会いに行こう、と誓った。もう一回、愛しなおしてもらおう。それまでにいっぱい勉強して、いい子になって、愛されようと思った。それがどうしようもない相性の問題ではなく、完全に自分の努力不足だと認めることで、失われた愛情を完全に手放すことを拒んだのである。そして明日への希望を持つために、自分の価値を下げることで適応した。そうせざるを、得なかった。

 それから、囀子がいい子に成るための養子縁組先での生活が始まった。養父母の実子である兄は十も上だった。養父母ももともとの母親の十個くらいは上で、おばさんおじさんと呼ばれても違和感のない見た目と生活感があった。少し馴染むのに苦労したけれど、兎にも角にも、囀子はようやくそこで一般に近い家庭を得た。勉強が出来、食事が出来て、遊ぶことが許されている、順当な子供らしさを得ることが出来たのである。だから囀子は、すごく養父母に感謝していた。ある時までは。

 悍ましい、あの日までは。

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