第16話

 ――ま、家出も喧嘩も一回も通報されてませんでしたケド。

 ――うちはもう途中から親が子供への興味を喪ってたからな。別に黙ってどこに行こうと気にされることも無かったよ。

 椥辻の違和感は、阿波礼が先程何気なく呟いた一言と、自分で発していた言葉の中にあった。前者だとするなら、一体誰が通報するのだろう。子供の家出が常習的であるなら、通報しても無駄なだけだ。或いは後者だとするならば、長く見つかっていない時点で殺人や誘拐を疑われるはずだ。

 椥辻は思考の海にあって、前提を見直していた。

 まず必要な前提として、事件がなければいけない。でなければ異常識の発生する下地がないことになる。囀子が見た事件の場所がやけに遠い可能性はないはずだ。距離が離れれば、異常識も薄まって、人の意識に影響できなくなる。新石の言うように、もし精神的に通底するせいで反応距離が伸びていたとしても、これまでの経験上、何キロも離れた先から干渉されることは基本的に有り得ない。

 では先程阿波礼の言っていた行方不明事件がそうだろうか――いや、こちらも今のところ直接関係にあると断じることはできない。

 今回の事件は、囀子の夢と新石の分析によるならば、『子殺し』もしくは『監禁』でなくてはならないはずだ。『行方不明』では、遠すぎる。それに、もしかなり飛躍した直接的な発想で、『行方不明の子の親が、行方不明というていで殺した子供を隠している』とした場合でも、かなり歪な問題を抱えることになる。その子供はどこに隠されているのか、という問題である。当然警察も、その子の家に上がり込んだり近所からの聞き込みをしたりしたはずだ。しかし見つかっていない――となるとこれをどう考えるべきかまず悩まなくてはならない。

 そうなった時、この行方不明を本線として置くのはかなりリスキーであって、このような逼迫した状態ではまかり間違っても軽率には追えないだろう。

 矛盾している――状況的に、わかりやすい子供に関する事件がなくてはならないはずなのに、それが浮かび上がってこない。

「だとすると、違う方面から切り口を出すしかない」

 椥辻はその問題に拘泥こうでいするべきではないと結論付けて、方針を変えた。阿波礼の言ったように、『通報がされていなかったら?』というような前提から糸口を探ってみることにしたのだ。

 そう――事件がないのではなく、観測できない状態にあったとすれば。

 事件があるはずなのに、或いはあったはずなのに、それが観測されなかった、というようなことがあったとするならば――?

「なあ、阿波礼。聞きたいんだけど、この中から『本人当事者以外から通報されたもの』ってあるか?」

「え? 一応不審通報ですからそういう分類はありますよ。枠の一番右の、ここです。内・外のチェックボックスのとこです。それが内の時は家の中から通報があって、外の時は外部からの通報、つまりあんまり酷い叫び声とかが聞こえたものだから、ご近所さんとかが通報する例です。わかりやすいのだと、これですね」

 阿波礼の指がつつつ、と、光沢する紙面の上を撫でる。そして『近所での子供と親との喧嘩、及び叫び声』と書かれた点を指した。詳細には、つかみ合いの喧嘩とドタバタ音、叫び声により通報。解決済みと書かれている。

「そうか。ありがとう」

「なにかわかったんですか?」

「うん。阿波礼が言ってたことの方が確かに、筋が通ってるなって」

「――? 私、何か言いましたっけ」

 不思議そうに首を傾げる阿波礼。椥辻は資料の上に目を滑らせていく。内外のチェックボックスの中で、外にチェックがついている通報だけを選り抜いていく。更にその中でも、未解決のままに終わった通報だけを抜き出していく。

「通報なんてしないんだ。子供が居なくなるのが当たり前の家なら。或いは、後ろめたいことがある家なら」

「それはそうでしょうね。私が知りたいのは、私が言った何を根拠に、そんな風に目の色変えて資料見てんのか――ってハナシです」

「今見てるのは、『通報者が家の外の人間』で、『未解決の通報』だよ」

 狙った案件に印を付けていくと、ざっと案件は十五件に絞られた。

 その中でも、行方不明の子供が絡むと、更に五件省かれる。

「阿波礼、ごめん、ハサミ貸して」

「どーぞ」

 椥辻は絞り込んだ事件を切り抜いて、十件、その通報の内容を確認する。

 一件目、子供の泣き声。通報。駆けつけるも既に泣き声無し、周辺で子供を探している親を発見。話を聞くが子供見つからず、一旦目を離した隙に親が居なくなり、そのまま帰投。二件目、公園で子供を探している母親ありと通報。警察官が向かうもその存在確認できず。三件目、夕方、公園内で不審者発見、女性で、子供の名前らしきものを叫んでいる。四件目、女性が子供を探していると言っていたので一緒に探していたが、女性が見つからない、心配なので一応通報――。

 椥辻の背中に電流が走り、それを覗き込んでいた阿波礼は目を丸くして、その奇妙な符号に困惑していた。というのも、絞り込んだ十件全て、同じ人物が登場している。その人物は女性で、いつも公園で現れて、子供を探す。けれどいつも気が付けば居なくなり、最後は行方不明になって終わる。

「これ、なんですか――」

「わからない。でも、明らかに奇妙すぎる。こんなこと、普通ありえないだろう」

 一つや二つならまだしも、期間を開けて十連続で同じような内容での通報である。とても尋常ではない。

「通報の時期から見るに、一年前から現れて、少なくとも通報されてない期間は半年前から――ということは、この人は居なくなったってことですか?」

「いや、それは違う。阿波礼。だから、君が言った通りなんだよ」

 あ、と阿波礼は丸く口を開ける。彼女は気付いたのだ。前提条件が、既に入れ替わっていることに。

 事件があるから、通報される。

「ここの人たちは、何度も通報したんだよ」

 そういう前提の上で、これを逆にしてみる。

「子供の泣き声が聞こえて、それを探す親を見つけたんだ」

 通報されると、事件がある。

 その上で、過程をもう一つ挟む。

「でも、毎回親の方が行方不明になる。子供も当然見つからない」

 通報されて、人が向かったが、事件はなかった。

 これが何度も繰り返されて常態化した時――前提と結論は変わってしまう。慣れと飽きによって、見えていたはずの事件は、覆い隠されていく。

 あったはずの事件は常識に変わり、ことに上書きされる。

 そして辿り着く結論は――。

「半年前を皮切りに、通報は、途絶えている――」

 から、通報の必要は

 ざわ、と阿波礼の背中の毛が逆立って、ようやく腑に落ちた。

「そっか、それがになったら、誰もおかしいと思わないから通報しないんだ」

 そう、ここには異常識がある。あるのに、それは何度にも渡る通報と、問題がなかったという報告により受け入れられたのだ。ほんの少し奇妙だけれど、普通に存在する、に変換されたのだ。

「そう、だからなんだ。だから通報がなくなってる。最初は異常識の光景だったそれがに変わったから」

 『異常がある』という前提が先にないと見落としてしまう異常――先に『どのような事件があったのか』を知らないと見つけることができない過程。こうして並べて見ると瞭然ではあるものの、普通なら気付くはずがないそれは、日常の風景の中に既に侵食している。だからそこに近付いただけ、それだけで、囀子は反応してしまった。

 逆に言えば、ここに必ず異常識の主は現れるということであり、通報があったということは辺り一帯にはその人がどのような人か知られているということで。となると、椥辻の次の目的地も、探すべきものも決まったということになる。

「ありがとう、阿波礼、もう行くよ。すごく助かった」

 さて、急ごう。と素早く立ち上がった椥辻の手を、阿波礼は座ったまま握り取った。その手は小さいもののしっかりと力が籠もっていて、見上げる瞳には強い批難の意志を感じる輝きが湛えられていた。

「せんぱい。あの。半裸で出るつもりですか?」

「あ」

 忘れていた。そういえば、自分は今、上半身裸、背中傷だらけの落ち武者スタイルなのだった。

「せんぱいの為に、あのシャツ、今ちょっとだけ脱水と乾燥回してたんですよ。あとほんのちょっとで終わるから、それまで待ってくださいよ。行くっていっても、せめて、このサイダー飲み終わるくらいまでは一緒に」

 くい、くい、と小鳥が花を啄むような嫋やかさで、その手は引かれていた。

 素直じゃないな。と、椥辻は思う。もう少しだけ話していたい、と言ってくれれば。或いは、この埋め合わせにどこかに連れて行ってくれ、そんな風に言ってくれれば、自分は喜んでその計画を立てるだろうし、その方がわかりやすいのに。阿波礼はいつも、こうしてぼかして、ほんのちょっとでいい、と嘯いて誤魔化す。それが精一杯の甘えであり、素直じゃない彼女なりの好意であることは、既に痛いほど知られているのに。

 だから椥辻は、もう一度腰を据える。そうして、もう少しだけ、ここにいることになる。その埋め合わせも、彼女は自分ですることになるのに。

「ごめん、急ぎすぎたな。急いてはことを仕損じる。悪い癖だ」

「そうですよ。それに、その分は、私が送っていきますから。ところで先輩。私、最近バーに行ってみたいんですよ」

「へー、なんで」

「なんかかっこいいじゃないですか。しゃかしゃかーって。それに、レディキラーってお酒があるんでしょ? あれ、飲んでみたいんです。どんな味か知ってます?」

「レディキラーはお酒の名前じゃなくて……綺麗で美味しそうな度数の強いカクテルのことを言うんだよ。女の子を酔わせて持ち帰ろうっていう悪い男の発想だ」

「やだ、けだもの」

「まあ、そういうことだよ」

「でも、私はもっと強いですよ。レディキラーキラーです」

「眩しそうな名前になったな……じゃあ阿波礼、次の休み教えてくれよ。バーに行こう」

 と、こんな調子で、結局この後、椥辻はバーに阿波礼を誘うことになる。わざと自分から言いました、というように、誘導されていく。彼女の下手な誘導にのって、まるで自分から網にかかるみたいに、いつも通りのことをする。そうして最後にいつも、叱られる。誘拐した少女に、叱られる。

「先輩。言ってた目的地、着きましたよ。でも、約束してくださいね。もう怪我するようなこと、しちゃダメですからね。次は、怒りますからね。約束、しましたからね」

 怒っている顔で、阿波礼は言う。

「わかってる。今度は気を付ける」

 不器用な後輩の精一杯の真心を感じながら、何度目かわからない破る約束をして、椥辻は助手席を降りた。

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