第15話
「……」
そう言われたら、その通りだ。その通り、なのだが――。と椥辻は吃った。
翻って阿波礼といえば、待たせた割の返答が気に入らなかったのか、手持ち無沙汰にあくびさえして見せる。なんだか悪しざまに罵られたような感じでどんな顔をするべきなのか悩むけれど、とりあえず彼女は移動したいらしい。まあ、実際ここに長居するのは自殺行為だ。暑すぎるという意味で。夏の京都は盆地故に蒸し風呂とよく形容されるものだが、最近の京都は本当にその表現が正しい。湿度八割の体感温度四十度は、もうほとんどサウナみたいなものだ。
彼女に着いていきながら、椥辻は阿波礼の救急箱の上からシャツを手に取ろうと手を伸ばす。しかしその手は鋭く躱されて空を切る。椥辻からして見れば移動するのに半裸のままでいるのは中々良くないだろうという判断で行ったことではあるのだが、どうもその思惑は彼女のものとは違ったらしい。思惑があるなら伝えて欲しいというのが椥辻の前々から伝えている願いなのだが、今朝は既にお願いを頼んでいるのはこちらの方である。となるとそのことについて触れるのは少々躊躇われた。おまけに阿波礼は夜勤上がりとくれば、彼女の機嫌を取るのはこちらの役目だろう。そんなこんなで、川端通りの往来で、日傘と救急箱を持った小柄な少女と半裸の怪我人という如何にも怪しげな二人組は正面橋を渡って木屋町筋方面へと歩みを進めることになるのだが……。
川端通りと違って、対岸のこの辺りは素朴な日常の面影が今も根付いている。こちらに来たということは、この先にある阿波礼の家へと向かうのだろうけれど、阿波礼は木屋町筋へと真っ直ぐと出ることなく二宮通りをあがって、山内任天堂の角を折れた。
「先輩って、重ね重ね本当にバカな人ですね」
肩で風を切って、阿波礼は振り返りもせずにこちらを貶す。それも明らかに語彙少なに、適当に貶す。
「バカなのは認めるけど、今日はやけにだな」
「なんでだと思います?」
「いつもよりも怪我が大きかったからかな」
「違います」
椥辻はその瞳を見る、眉を見る、唇を見る。いつもの阿波礼と見比べる。
いや――嘘だ。その横顔は、普段より明らかに頬を膨らませて、目付きをほんの少し険しくさせて、唇を引き絞って怒っている。こんな顔をするのは、図星だった時だけだ。だから椥辻は、申し訳ないな、と素直に思う。自分の体調のことで誰かが怒ってくれるなんて、大人になったら当たり前ではない。粉骨砕身の精神で過ごしてきたつもりではあるけれど――粉骨砕身が外身から見えてしまうのでは、三流もいいところだ。足を早めた阿波礼は、責め立てるようにちくちくと突き回すように話しかけてくる。
「先輩、その囀子っていう子、確かあのキチガイのお姉さんの夫の妹さんですよね。厄介事持ち込んで来てこんな風にされて、鬱陶しいとか思わないんですか? 私だったらすーぐ叩き出して知らないフリしますよ」
冷徹なことを、サラリと言う阿波礼。心配しているのが、逆にこういうきつい言い方へと転化されているのだ。ということは逆接的に、今回はかなり本気で心配されているらしい。まあ、普段はかなり時間に余裕を持たせた上での頼みごとしかしてない人間が、急に『数時間後に絶対持ってきて欲しい』なんて頼み方をして傷だらけで現れれば、誰だって心配するのもやむなしかもしれないが……。
「そんな大層なことを。それに、多分誤解だ。背中に刺さってたガラスは、家の二階からジャンプしたせいで刺さったものだ……と思う」
「ほんとバカ。それだって、元を糺せばそのせいでしょう! せんぱいのあーほ。質問に答えられてないのもあーほ」
「そう言われると、痛いな」
真っ赤な舌を見せながら、後ろ向きに高瀬川に架かる橋を渡る阿波礼。木漏れ日の間から差し込む光が、彼女の金色に近い髪を灰銀に輝かせている。こうして見ると、阿波礼は今日もあの日となにも変わらない。憎らしくて愛らしい、かわいい後輩だ。多分今生きている人の中で、一番自分の立場を知った上で、見放さずに心配してくれている人だ。
橋の向こうには、入口の少し高くなったマンションが建っていた。サンハイム木屋町――彼女の祖母が建て、今では阿波礼の所有するマンションだ。
「はー、暑かった。先輩、ほら、入ってください」
阿波礼自らがドアを開き、椥辻は頭を下げながらマンションの中へ入った。当然他にも入居者がいるエントランスホールなわけだから、ここで頭を下げる理由はないはずなのだけれど、椥辻はなまじここが阿波礼の所有だと知っているものだから、なんだか慣例的に頭を下げてしまう。そのまま最上階へ向かうエレベーターに乗って、阿波礼の家へと到着した。ドアを開けると、白を基調にしたさっぱりとした廊下が広がっていた。奥のリビングへと向かうドアの前には小さなテーブルが置かれていて、青い帽子を被ったくまのぬいぐるみがこちらを向いている。前にこの部屋へ来たのはいつだったか忘れたが――その時も同じようにこちらを向いていた。埃も被っていない。
「あれ、まだ置いてくれてるのか」
「……そうですね」
そのくまのぬいぐるみは、かつて椥辻が阿波礼に贈ったものだ。とはいえ、椥辻でさえいつ贈ったか定かではない。相当大事にしてくれているのだろう。嬉しいものだ。翻って、阿波礼はなんだかバツが悪そうにそっぽを向いて靴を脱いだ。
「早く入りましょう。クーラー掛けますから」
「うん、失礼します」
まっすぐ行った先のリビングは、毛足の長い絨毯が敷かれた、清潔で可愛らしい部屋だった。広々としたファミリー用のキッチンに、曲線の多い家具――まるでモデルルームの一室のように、傷のない無垢材と採光の良いバルコニーが白い壁紙に静かに影を落としていた。そこら辺に座っておいてください、と言った阿波礼は、そのまま奥の方へと消えてしまって、椥辻はとりあえず絨毯の上に胡座をかいた。ティーテーブル用のソファも、食事用の普通の椅子もあるけれど、万一にでも血がついたらこの部屋の景観を損ねてしまいそうで、それは出来なかった。それに阿波礼という女の子が、こういう造作もない床の上に座り込むことを普通のこととして慣れ親しんで来たことを知っているから、余計にそうなる。きっと彼女も立派なソファや木目の良く浮き出た趣味の良い椅子なんか大して使っていないに違いない。随分前に来たっきりなのにほとんどヘタっていないソファの膨らみが、余計にそれを主張していた。
何かがごそごそ動き出す駆動音が聞こえてきて、阿波礼は間もなく戻ってきた。手にはグラスを抱えている。
「まあ、暑いんでサイダーでもどうですか……? って、どうして地べたに座ってるんです?」
「いや、背中の傷が家具に染みたら嫌だから」
「はあ、そんなこと気にしてるんですか? 別に構いやしませんよ。ほら、座ってください」
「いいや。ダメだ。綺麗な部屋だし、汚したくない。それに、いいだろ。ほら、阿波礼もこっちに慣れてるし」
「慣れてない、慣れてないです! もう! しかたないなあ。先輩は、本当に、仕方ない人ですね」
阿波礼はやっぱりぷりぷり怒りながら、床に盆を置いて、グラスを並べた。手慣れた動きである。ぺたんと座り込んだ阿波礼は、怒りを飲み下すようにサイダーを思い切り流し込んで、その雫が首を伝った。椥辻もかなり暑かったので追って口を潤すと、ようやく人心地ついて首を垂れた。眼球だけを銀盤の時計に向ける。時刻はまだ午前十時。一日はまだ始まったばかりだ。阿波礼は脇に挟んでいたファイルを手に持つと、ぺらりと繰ってそれを開いた。
「――北大路駅周辺、特に西側にかけての不審通報の情報でしたね。子供が絡んでるやつ。期間はこの一年から二年程度。あんまりざっくりしてるので抽出大変そうだなあって思ってましたけど、あの辺りって、そもそも治安が良いので割とそうでもなかったです。近隣での殺人事件とかは、この二年ありませんでした。行方不明は一件だけ。これです、名前は下田慎太郎くんという小学生の男の子。一年前に公園へ遊びに行って帰ってこなかったみたいです。とりあえず概要抜き出してコピーしてあるので、確認してください。全体件数は五〇〇くらい。大変ですけど見てください」
阿波礼が出してきた資料は、シチュエーション、時間、通報理由などが明確に示された、レイアウトの綺麗なものだった。彼女の作る資料はわかりやすい。何度も頼んで手慣れているのもあるだろうが、頼んで数時間でこれだけのものを出してくるのだから、ひとえにその手際には感嘆するばかりだ。資料を繰っていくと、最も通報件数が多いのはやはり子供の家出について。
解決したと書かれているものが殆どで、一部は児相などの介入によって終結しているものもある。北大路駅の西側は、かなり大きめの家が立ち並んでいて、子供連れも多い。割と高級な住宅街なのだ。ただやはり、どれだけお金を持っていたところで人間同士の諍い、すれ違いから逃れられるはずもなく。家庭内であってもそれがなくなることはない。
となるとどこかしらで発生した父母子の不幸なすれ違いが今回の事件の引き金になっている可能性を考えるのは当たり前で、茫洋ながらも、凡庸ながらも、そういう曖昧なツテを頼って調べるしかないのが事実。こんなものを地域の警察署に赴いて調べるなんてとても急いでいる時に出来ることではない。やはり持つべきものは頼れる友人である。
「家出家出家出喧嘩家出家出喧嘩家出家出家出――これすごくないか? みんな家出してるぞ。ほとんど解決済だけど」
黙って資料を見つめる椥辻を、カーペットに寝そべって頬杖突きながら見つめる阿波礼。先程までは椅子に座れと言っていたのに、こうしてみると落ち着くものである。
「まあ、そりゃ、親と折り合いつかなきゃ家も出るでしょ。家庭内不和の通報って案外多いんですよ。先輩はしたことないんですか? 私は先輩の御存知の通り、家出アリ、喧嘩アリ、誘拐経歴アリの問題アリアリガールでしたケド。ま、家出も喧嘩も一回も通報されてませんでしたケド」
問題アリアリガール……。規範意識はナイナイガールだろう。とはいえ誘拐はこちらが行ったものだから、ナイの片棒担いで担ぎ上げて持っていったのは自分ということになるが。
うっかり、当たり前のことすぎて忘れそうになるけれど、阿波礼も囀子とどっこいどっこいの壮絶人生勢である。とはいえ一度も家を出たりしなかった内向的な囀子と、その存在理由を探すように、自らの軛を噛み千切るようにアグレッシブに動いていた阿波礼では、余りにも背景は違うのだが。だからこそ、少しだけ囀子に会ったことのある阿波礼は――その焦れったさを思い出して歯噛みするのだろうし、だからこそ、今日もこうして素早く反応してくれたのだろう。阿波礼は素直じゃないが、真っ直ぐだから、誰かが不当に損をすることを見逃すことが出来ない。かといって真っ直ぐ「助けてやる」とは絶対に言わない。曰く、猫みたいな性格をしている――とは彼女に親の仇のように嫌われている黎海山の弁である。
「うーん、完全に無いと言われれば嘘になるけど、うちはもう途中から親が子供への興味を喪ってたからな。別に黙ってどこに行こうと気にされることも無かったよ。お陰で助かったことの方が多い。そのナイナイの片棒も、そのお陰で発生したものだし」
「ナイナイ?」
「ああいや、アリアリの片方ってこと」
しまった。考えていたことがそのまま脳から直接で言葉に出てしまっていた。しかしどうしたものだろう。そう言われると、余計に困ってしまう。それほど細かいことが書き込まれているわけではないこの『このような内容で通報があった』『解決した・してない』ことしか書いていない情報では、その背景にあるものは流石にわからない。だからといって阿波礼にこれ以上調べてもらうことも容易ではない。先程彼女が言った通り、そもそもの検索範囲が広すぎるのだ。あの住宅街に、一体何戸の家が建ち並んでいることだろう。何家族が住んでいることだろう。その中で何人の人間がつつがなく平穏に暮らせているのだろう。ちょっとした異常で通報する人もいるかもしれないし、或いは事件性があるにも関わらず黙殺されているパターンも有るに違いない。そうなった時、この情報はたまたま抽出された『通報された』パターンでしかない。全ての事件を網羅することなど、絶対に不可能なのだ。考えなしに阿波礼に頼んだわけではないが、甘かったかもしれない――。椥辻の眉間には皺が寄った。こうなると貴重な時間を焦って無駄にした可能性まで考えなくてはいけなくなる。
椥辻にとって今必要な情報は、『子供の行方不明』の情報一点である。囀子の夢から聞くに、あの光景は虐待か、それか
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