第14話
日が真上に昇った頃、
「――」
椥辻の首筋からは、玉のような汗が滴る。川の流れる涼し気な音と暑苦しい車の走行音が入り交じる遊歩道の木の陰で、椥辻はぺたりと座り込んだ。持ってきた仕事道具が重い。汗を手で拭う。気温は三十二度という発表だが、体感では四十度近い。許されるなら鴨川に飛び込んでしまいたいくらいのところだが、生憎そんな風に気楽に川遊びしている暇はない。というかこの辺りはそこそこ水深と流れがあるので、普通に流れる。それにそろそろ約束の時間だ。時間に厳密な彼女のことだから、もう直に辿り着いてもおかしくない。と、そこで足音が聞こえた。がさがさ、とかなりたどたどしい足音でそれは近付いてくる。彼女ではないのだろうか、こんな足音ではないはずだが、と不審に思った椥辻は振り返る。
その瞬間だった。
「いただき」
聞き慣れた声が響き、肩甲骨の下辺りに電流の走ったような鋭い痛みが駆け抜けた。同時にぶちゅ、と肉の切れるような音が身体の中に反響した。
背中から――斬られた?
「ぐああああっ」
反応で一歩進んだ束の間、椥辻の耳元には声があった。それは猫撫で声にも似た滑らかで、甘さと少々感じる喉元の吃りが蠱惑的な響きとなって耳朶をくすぐっていた。
「先輩はあほだなあ。動いちゃダメじゃないですか。んっばーか」
痛覚と聴覚が痛みと心地よさを綯い交ぜにした信号を脳髄に叩き込むと、椥辻は海老反りになって背中の痛みがあった辺りを手で抑えた。指の間からはどくどくと温かい血が溢れていることに気が付き戦慄する。
「その声は、
聞こえてきた声は、見えた背姿は――待ち合わせの人物。小さな身体に大きな正義とフリルの日傘を背負った警察官、又はかつての被誘拐少女、物部阿波礼であった。
彼女は白い半袖ブラウスにプリーツスカートという涼し気な格好をして、厚底の黒いコンフォートサンダルを履いている。癖の強いウェーブした白髪は、腰の辺りまで彼女を覆うように伸びて、日傘からはみ出た部分の髪が後光の差したように煌めいている。元から白毛である彼女は、夏の日差しに照りつけられると、反射で消えるのだ。反射光の中へ逃げ水のように溶け込んで、しばしば陽炎のように揺らぐ。だからこうして日傘を持って影の中に隠れているのだ。
「その通りです。あなたの大好きな後輩、阿波礼ちゃんですよぉ。どうしました? 今度はのけぞっちゃって」
くすくす、と花のように回りながら三日月の目で笑う阿波礼。椥辻は彼女の夜勤上がりに合わせて、ある手伝いを頼んでいたのだ。
「阿波礼――今、背中に何を」
じくじく痛む背中を抑えながら、膝の力が抜けてへたり込む。もし通行人がいたら何か勘違いしそうな光景である。痴情のもつれとか、通り魔とか、とにかく良からぬ方向にである。なんとか現状を整理しようと阿波礼の手を見つめると、彼女の手にはキラキラと光る赤く濡れた欠片が握られていた。それが硝子の欠片だと気が付いたのは、たっぷり十秒数えて呼吸が落ち着いてからだった。
「なにをもなにも、こんな真昼の往来で背中にこんな大きなガラス片背中に突き刺して歩いてるのは先輩くらいですよ。シャツも破れてるし……なんで気付かないんですか。痛いでしょう? もう、いっつも鈍感あほばかなんだから。あほばかのばかあほせんぱ~い」
ええ――? と椥辻は困惑する。明朝に阿波礼へ連絡した椥辻は、出町柳まで自転車を走らせて、そのまま京阪電車へと乗り込んだ。そして五条で降りてここまで歩いてきたわけだが、その間ずっと背中に三センチ位はあるガラス片を突き刺しながら歩いていたことになる。恥ずかしいとは塵ほどしか思わないが、気が付いた人はずいぶん驚いたことだろう。誰か教えてくれても良かったのに。
いや、『背中にデカい刃物刺さってますよ』は流石に初対面の人に言うのはハードルが高いか……。
「だからって阿波礼、そんな急に抜かなくても……それにあほばかのばかあほってなんだよ。罵倒にしても子供っぽすぎるだろ」
「だからこそ、ですよ。気が付いて無さそうな油断してる時に一気に抜いてあげようとしたのに。先輩動くから。はー、注文の多い人。
眉間を
「あのね阿波礼。どんだけ外ッ面かっこよく張り付けてもダサいものはダサいだろ。それに中臣鎌足って言うなら、流石にもう少し音韻近付けたりとか、雰囲気寄せてみたりとか、もうちょいあるだろ」
「はいはい。じゃあこれでいいでしょ。生ゴミの塊先輩」
「音韻と雰囲気が近付いた結果より最悪になるとはさしもの俺でも予想しなかったよ!」
やれやれ、と言いたげにため息をついてみせる阿波礼はするりと脇を抜けて、シャツの裾を掴んでいた。
「もー、先輩はいっつもこう。うるさい人、アタシに勝手に頼み事しといて、受取に来るといっつも傷だらけ。そんな風にしてたらいつか死んじゃいますよ。もう、あの頃みたいには若くないんだから。おじさん先輩」
そくるくると巻きながら器用に腹部を見せると、そのまま上目遣いにこちらを見て、腕を上げるように求めた。
「おじさんって、お前なあ……こちとらまだ二十六。それに阿波礼、真昼の往来だって言ったのは君の方だぞ。こんなところで上裸の男が女といちゃついてたらそれこそ問題だろ」
「先輩、じゃあ十六歳は?」
「花も恥じらう――って、つまりそれから十年もあれば花は枯れるだろうって言いたいわけ……?」
「私はなにも言ってませんよ。ただ腐葉土と花が並び合っていても、そこに違和感は生まれないってことです」
「枯れるどころか土に還って次世代に貢献してんじゃねえか! っていうか自分で自分のこと花扱いしてない?」
「あーやだやだ。わたしなぁんにもそんなこと言ってないのに、勝手に想像して繋げちゃって。もしかして先輩ってガーターベルトを見るだけで下着の想像とかする人ですか?」
はぁ、とため息をつく阿波礼。阿波礼のまるっこい愛らしい指はそっと伸びて、無遠慮に背中の傷の辺りをつついた。
「そんなこと、するに決まってあぁーーーッ゛! 何をするだァーーーッ!」
阿波礼からしてみれば悪戯でも、椥辻からしてみれば急に走る電撃のような痛みである。思わず声も出る。すると阿波礼はするりと飛び退いて、一歩下がって耳を塞いだ。
「くやー。もー、いちいちうるさい人。変態なのは四半歩譲って許すとしても、うるさい人はちょっと……」
「叫びにやる気がなさすぎる! それに四半歩だから四分の一歩だぞ! かかとちょっと動かしただけじゃん!」
「正義の味方なので、厳格なんです」
「心が狭いことを上手に言い換えて正義を矮小化するんじゃない! その言い方じゃ正義の味方が杓子定規みたいだろうが」
「違うんですか? 法の番人なんて、法を守るためにある人間でしょう」
小賢しいことを言う阿波礼。これで警察官なのだから中々ブラックジョークである。
「人間がルールを守るのか、それともルールが人間を守るのかって話?」
「いえ、なんにも私は言ってません。私はただ法の番人は法を守る為にあるって言っただけですよ。さては先輩、また一人連想ゲームですか? も~、やだなあ。そんなんだから結婚できないんですよ」
「事実だ――! 俺の負けだ! もう許してくれ、許してください!」
「はい、じゃあ阿呆罪と結婚できない罪で現行犯逮捕するんで腕上げてくださ~い」
「そんな罪で立件出来たら警察署は毎日大混雑だよ」
「そうかも。ところで阿呆罪はともかく、未婚罪は昔どこかの国であったみたいですよ。眉唾ですけど」
「本当かよ……じゃあ俺マジで逮捕されちゃうじゃん」
「なんでも結婚を拒否するのが罪だったらしいですから、結局先輩は無罪放免ですよ」
「ガラスを抜いて貰った背中に言葉が突き刺さって痛いんだけど」
椥辻は阿波礼に合わせて腕を上げる。阿波礼は脱がせたシャツを川の淀みに浸した。ぼんやりと赤黒い液体が水へと混じって浮いては流れる。あのガラス、家から飛び出して落ちた時に、突き刺さったのだろうか。阿波礼はため息をつきながらしゃがみ込むと、足下の木箱を手に取った。
「阿波礼、それ、なんだ?」
「毎回聞きますね。毎回傷だらけで来るくせに。見ればわかるでしょ。先輩のかわいそーなお体を治してあげるための救急箱ですよ」
ぶつくさ気怠げに言いながら、その木製の道具箱を開ける阿波礼。その中には見透かしたように包帯と消毒液、簡単なソーイングセット、わかりやすい救急用具が詰まっている。消毒液を手に取った阿波礼は、椥辻の背中側に回り込んで思い切り消毒液をぶっかけた。これまた海老反りになる椥辻だが、今度は覚悟していたこともあって余り声は出ない。声が出ないほど染みたとも言い換えられるが――。血と汚れがおおかた流れてから、阿波礼はガーゼを貼り付けて応急処置を完了させた。
「痛いですか? 先輩はあほなので、痛くしてるんです。今回こそ、今回こそ。この痛みで勉強できますか?」
つん、と冷たい声。怒っているわけではないが、阿波礼は毎回こうなのだ。どこか冷徹な雰囲気で、辟易したような感じで声を掛けてくる。とはいえ本当に辟易しているわけではない――と椥辻は思っている。きっとそうだったら、こんなに良くしてくれることはないだろう。
「痛いよ。でも、手当だからな……ありがと、阿波礼。ところで、本当に迷惑だったら、いつでも嫌だって言ってくれよ」
「はい、おまけで、つんつん」
「ああああ゛ああああ゛あッ! なんで! なんで今一発余分にいったの!」
「嫌だったらこんな早くから救急箱持ってここまで来てませんよーだ」
「くっ、ようやく可愛げのある一言が出てきたのに痛すぎてそれどころじゃない……!」
明らかに必要のないおまけの一発に悶えつつ、椥辻はその場で飛び跳ねた。こんなにアツアツの地面の上で上裸に剥かれて、その上炙り焼きにされて虐められるなど、プレス機のたこせんべい並に酷いことをされている。涼しい顔のまま満足気な阿波礼は、そのまま箱の中に消毒液を仕舞って流麗な眉を傾けながら微笑んだ。
「どーいたしまして。ところで、今度はどんなことに巻き込まれて、どんな筋書きで私に力を貸して欲しいことになったんですか? 警察のこと、顎で使える便利組織だと勘違いしてません?」
そう、こんなにも小さくて、身長で言えば百五十センチもないほど小さくて、愛らしくて、本当に小動物のようでありながら、物部阿波礼は警察官の職に着いている正義の公僕だ。彼女から詳しい仕事の内容なんかは聞いたことがないから彼女の職務がどのようなものなのかも知らないが――というよりも、彼女はプライベートにおいて仕事の話をするのを極端に嫌がるから聞けない――知りたい案件についての頼み事をすると、そこそこ役に立つ情報を流してくれる。それもこれも、彼女曰く『署に来てくれれば一般的に知ることが出来ること限定』らしいが。つまり、仕事終わりの一般人となった阿波礼にお遣いを頼んでいるようなものだ。
「いつも通り、手厳しいな阿波礼。残念ながら、恐れ多くも法治国家において唯一の暴力装置であるところの警察を探偵もどきがそんなに軽んじたりはしない、というか出来はしないよ。今回だって時間がないせいでどうしても阿波礼しか頼れないからお願いしたんだ」
ふうん、と流し目でつまらなさそうに毛先をいじる阿波礼。ふてくされたような口元が、への字に曲がる。その視線は何か不満なことがあるような感じだったが、阿波礼は何も言わない。何も言わないと、椥辻も言うことがない。気まずい沈黙に、鴨川の水の流れが大きく聞こえる。時がゆっくり流れる。眺めあったまま、二人共微動だにしない。椥辻は口を開けたまま、何を言うかひたすら迷っていた。こちらへと漂ってくる不満なオーラが、椥辻を余計に迷わせている。だが意外にも、先に口を開いたのは、阿波礼の方だった。阿波礼の手は淀みのシャツを拾い上げて、ストレスでも解消するように思い切り絞り上げた。
ぎゅう、という音を立てて、水が乾いた地面にぼたぼた落ちていく。そしてよれよれになったシャツの肩口を開いて、今度はばさばさと払って見せる。シャツを四つ折りにした阿波礼は、そのまま閉じた救急箱の上に乗せて持ち上げた。
「――なんか、ごめん」
ここしかない、という判断で、椥辻はとりあえず謝罪を挟む。小人故に、とりあえず、謝っちゃう。これがいい方向へ進んだ試しもないのに、とりあえずで。だがどこ吹く風の阿波礼である。彼女はそのまま振り返って、川端通りへと上がる石階段に一段とばしで足を掛けた。
「なにバカみたいな顔してるんですか。まあ、ほんとにあほだからお似合いの顔ですけど。さ、もう手当も終わりましたし、さっさと行きましょう。半裸の変態」
「バカなのかあほなのか、せめてどれかにしてくれよ。属性重複だ」
「バカとあほと変態が、ベン図で書いた時全部重なってる集合です……あら、図にすると図らずもバイオハザードマークに似てますね。まあ危険人物ですしちょうどいいや」
うんうん、と納得したように頷く阿波礼。こちらは全く納得していない。
「バカとあほはそもそも同一円だろ。集合を水増しして人を危険人物にしようとするな」
「背中に刃物刺さってる人は危険人物ですよ。それに、こういうのはニュアンスです。っていうかそんなことはどうでもいいんです。さ、行きますよ。先輩」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます