第13話

 震えていた囀子てんこは、びくりと背中を跳ねさせて自分を抱きしめて硬直した。

「ひ、ぃいいいいいいいっ、うや、あいあああっ」

 囀子の言葉にならない悲鳴が部屋の中に反響した。金切り声の発作だ。椥辻なぎつじは新石の鋭い目での静止のせいで、囀子の身体に触れてやることも出来ないまま、批難と困惑の視線を新石に向けていた。囀子は震えたまま泣きじゃくるように蹲り、殆ど外の音も聞こえていないような状態となっている。そこまでしてから、新石は扇をパシンと音を立てて開いて椥辻に合図をした。

「椥辻くん、気を付けて彼女に呼びかけてあげなさい」

「囀子! ごめん、大丈夫――」

「いやっ!」

「うっ」

 振り返りざまに素早く振られた手が鼻先を掠める――だがその手が横切った瞬間だった。椥辻の目には、大きく腫れ上がりきった、こぶのようになった手首が映った。手首――そういえば、囀子の手首には、子供の手形がついていたはずだ。それは黎海山の処置で収まったはず。なのになぜ、囀子の手は腫れている?

「大丈夫だから、囀子。ここにはお前を虐める人間はいない」

「ふーっ、ふーっ……」

 蹲りながら、疵獣かじゅうのような鋭い目線で威嚇している――あのおっとりとした囀子とは同一人物とは思えないほど豹変ぶりに、さしもの椥辻も怯んでいた。けれどその瞳は徐々に涙に潤みながら力を喪って、ふやけた泣き声が上がり始めた。椥辻はその声を契機に彼女を優しく胸の中へ抱き締めた。

「怖くない。大丈夫」

「う、えええええええ――おとうとさん、おとうとさん、ええん、ううううう――」

 彼女の腕が背中に回る。肩甲骨の辺りに異常な熱がある。これが先程見えた瘤の感触だろう。椥辻の胸には、再び焦りの火が燃えつつあった。あの攻撃的な瞳は、囀子のものではない。着実に囀子は異常識に蝕まれているのだ。時間が減っている。だのに新石は相変わらず、こちらを無感動な瞳でじっと眺め続けていた。何を考えているのかわからない瞳、道化の面のまま。

「斎宮くん。先に聞いておくが、囀子くんが家に来てから、君は彼女を心療内科や精神科などの医療施設へ繋げてあげたかい?」

「いいや。してない。すぐに引っ越しになったのからそこまで余裕がなかったのもあって、出来てない」

 それが、こんなことになった理由なのだろうか――いや、待て。と椥辻は唾を飲み込む。なんとか呼吸を整えて、新石の言葉を待つ。

 そうか、と新石が口を開いた。扇で口元を覆い隠しながら、その確信を得たように話し始めた。

「ほんの少し触りだけ、君にも説明するべきだな。この異常識は、囀子くんの記憶と性質を引き金として発生した異常識だ」

「触りと言わず、一から十まで説明してくれよ。それで、記憶と性質?」

「時間があれば、わたしもそうするよ。さて、本題だ。今回のこれは、囀子くんの強い忌避感や恐怖体験、それを核として生み出された異常識だ。斎宮くんに保護されてから囀子くんは徐々にその恐怖から解放されて自由に生き始めたのかもしれないのだけれど、精神の中に残った見えない生傷がずっと化膿し続けたんだ。そのせいでこんな異常識に自ら踏み込んでしまう結果となっている」

 平たく、表面を浚っただけのような説明に、椥辻は首を傾げる。取っ掛かりの部分は理解できたが、まだ内部については何も語られていない。だがその程度で終わる新石でもない。彼女は俯いたまま、テーブルの木目を眺めつつ話し始めた。

「まず第一に、彼女には疵がある。父親に対する疵がある。彼女はそれに気付かないまま、精神的健康体だと勘違いして生活を続けていた。これだけなら良くあることだ。当たり前のように普通の人間が疵を持っている、こんなのは古今東西どこでもだね。当然、問題も起きない。けれど今回、そこに更に別の要因が関わっている。日常に潜んでいる――京都の結界の中に這入り込んだ異常識がいた。今のところそれがどういう事件で、どういう経緯いきさつで異常識になったのかはわからないが、彼女はそれと深い部分で干渉してしまったんだ」

「つまり、そいつが囀子を苦しめてるって――」

「焦らないで。まだこれでもこの事件は起こらない。もう一つ重要な理由がある。彼女は善かれと思ったのだろうね。干渉するだけでなく、そのしるしとなるようなものを拾い上げて、自らの領域の中に入れてしまったようだ――かわいそうだから、なんて理由でね。そこで一気に、取り込まれた。異常な速度で接近してしまった。父親の話で反応するように手首が腫れ上がっているのが良い証拠だ、異常識と彼女の強い共鳴部分が『父親に対する嫌悪と恐怖』という輪郭が共通しているからこのような症状が発生する」

「じゃあ、決め手になったのは」

「そう、斎宮くんにわざわざ持ってきて貰ったあのサッカーボールと、ハンカチの中身だ。斎宮くん、家の中そこかしこから嫌な感じはしただろうが、正確なことを言うとこれらが置いてあった部屋の一室だけが異常識に取り込まれていたんじゃないのかい?」

 ――。

 そうだ。そうだった。なんせ家の中は、風呂に入る余裕まであったのだ。囀子の部屋ほど濃い気配が家中にあったなら、椥辻は早々に襲われて今頃狂ってしまっているだろう。更に言うなら、最も深い異常識に取り込まれていたのはあのカーテンの向こう側だ。それがこのハンカチとサッカーボールのせいだと言うのなら、十分に納得できる。

「待ってくれ。だとするなら新石。そのハンカチの中身とサッカーボールを清めてさっさと焼却するなりなんなりで、囀子は回復するんじゃないか」

 人形供養するように、それらを十分に奉り燃やす。冴えたことを思いついた、というような顔をしていた椥辻だが、新石は首を横に振った。

「いいや。それだとまだ解決していない問題があるじゃないか」

「解決していない、問題?」

 焦れて結論を急ぎ続ける椥辻に、新石は呆れるようにため息をつきつつ、口を開いた。

「ああ。夢だよ。囀子くんはそのサッカーボールとハンカチのせいで、夢の中、即ち自意識の領域まで這入り込まれている。これは大きな問題だ。それを供養すれば勿論マシにはなるかもしれないが、解決しない。囀子くんはゆっくりと恐怖の夢を見続けて衰弱し、異常識に取り込まれていくだろう。それは経験上、このまま一昼夜で死んでしまうよりも苦しいことだ。それに、片方は焼却できないんだ。物理的に」

 サッカーボールもハンカチも燃えるだろう――と思いながら、椥辻はハンカチの中に何かが入っていたことを思い出す。

「待ってくれ、新石。ハンカチの中は何が入ってたんだ?」

 新石が袖から取り出したのは、白い石のように見える丸みを帯びた身体の一部だった。

「これさ。二本の乳歯だよ」

 子供の、歯。

 あの膨らみは、子供の抜けた歯だったのか。

 そうか、それなら燃えない。火葬しても歯は残る。

 そう思うと、椥辻の背中はぞっとする。

「君があのハンカチを仕事道具の偽十種神宝の中に入れて持って帰ってきたのは、本当にツイてたと言わざるを得ないね。もしハンカチを生で持って帰ってきていたなら、それは相当強い繋がりとなって、異常識と君を繋いでいただろう。歯というのは、強い呪具として使われた過去が何例もある。つまり君は、心と、物質の縁で繋がれた彼女を助けてやらないといけないわけだ。わたしが言うのもなんだけど、これって結構骨なことなんだぜ、斎宮くん。しかも残された時間は、君もわかっている通り殆どない」

 新石は、覚悟を試すように流し目で椥辻を見た。けれど椥辻には、もう引く場所はない。ここまで来たのだ。一度は張った命という代償、ここで引っ込めるなど愚中の愚。毒も喰らわば皿まで、いいや、人まで。死ぬまで引く気はない。

「関係ない。囀子を助けられないなら、その時は俺も死んだ方がずっとマシだ」

 胸の中の囀子は再び昏睡に陥っていた、泣き声は聞こえなくなっている。新石は隣に寝転んでいたいざりに手を伸ばし、細い肩を揺らした。

「また眠ったか――やはり強く引き寄せられ続けている。いざり、起きて。お乳も飲んだでしょう。その子を診て上げなさい」

 新石の呼びかけに眠い目を擦りながら不満の高い声を上げたいざりは、そのまま這いずるようにこちらのソファに移り、囀子の頭を抱きしめる。椥辻は囀子の足を自分の足に乗せ、いざりの膝の上にゆっくりと囀子の頭を下ろしていく。彼女のパジャマの上に、額からの汗が滴り染みが出来た。いざりはこくりこくり、と船を漕ぎながらも、囀子の頭を抱えている。椥辻に今出来ることは、その時間制限に間に合うよう、ただ動き続けるだけだ。

「新石、どうすればいい。ここからどうすれば囀子を助けられる」

 焦りに震える椥辻とは対象に、新石は冷静だった。ようやくやりやすくなったと言わんばかりに足を組んで胡座になると、煙管に火を付けて煙を呑んだ。

「さて、斎宮。今からシビアな話をするけれど、準備はいいかな?」

「シビアって、まだあんのかよ」

「当然だ。君には重要な役目がある。私には出来ない、重要な役目だ。これをしくじれば、彼女は死ぬ。その時はわたしも手の施しようがない。どうしようもなくなる」

 青鈍色の瞳の鋒が、椥辻の眉間に突き刺さる。彼女の細めた目尻は紫煙に燻され霞がかって、御簾の向こうに見える大山のようにやけに遠大に感じられた。嘘やハッタリではない。本気で言っている。きっと囀子が起きていたから、先程までは言わなかったのだろう。その心遣いがわかるせいで、余計に真実味に重厚さが加味されて息苦しかった。けれど、囀子。

 椥辻は、ほんの少しだけ眼球を右下に向けた。少しだけ息が荒れている。新石の言葉によれば、ここからもっとひどくなっていくのだろう。それこそ呼吸が出来なくなるほど、椥辻という安全なはずの存在を拒否するようになるほど、彼女は変容していくのだろう。

 異常識に、飲み込まれていくのだろう。

「なんだ、なにが必要なんだよ」

「この夕方、日の入りまでに、君はこの異常識の発生源を調べ上げなさい。彼女が異常識に巻き込まれた公園の近くに、異常識の核となる物事があるはずだ。そしてその異常識を解決なさい。きっと蜂が関係している。それが出来れば――」

 この子は、助かるよ。つまり君に必要なのは。いつものことを、いつものようにこなせって、ことさ。

「いいんだな。、やれば」

 言われるや否や、椥辻は舌打ちをして事務所を出るため立ち上がった。

「ああ、そうだ。むしろ無駄に緊張して動きが悪くならなければ助かる公算が高いということでもある。ときに、斎宮くん」

「なんだよ、急げって言ったのは新石だろ」

 振り返る椥辻に、問う新石は囀子の額に手を当てていた。

「一言くらい良いだろう? この子、いつから体温が高い」

「体温? 囀子はずっとなんか平熱が高いんだよ。こっち来た時からずっとそうだったと思う。でも……思えば最近は、もっと高い、気もする。細かくは測ってないからわからないけど」

 何か考えるように小首を傾げた新石の肩の辺りに、弛んだ薄布が流れていく。一呼吸置いた後、彼女は首を縦に戻して頷いた。

「……そうか。引き止めて悪かったな。行ってらっしゃい」

「ああ、囀子を頼む」

 椥辻が外に出た頃には、既に鳥の声が聞こえていた。

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