第12話

 ぼんやりと瞳孔が開いたり縮んだり――背景の光と合わさって見えにくくなっているのだろう。擦り寄ってくるいざりの頭を抱えつつ、囀子てんこの頭側へと回り込む。囀子と椥辻なぎつじはお互いに天地逆さで覗き込むような形ではあるものの、その視線が噛み合った時、互いに安堵の微笑みが漏れた。椥辻は囀子が再び目覚めたことに安堵し、囀子は恐ろしい夢から覚めてすぐに椥辻の顔が見られたことを。

 もう目覚めなかったらどうしよう――そんな覚悟を持って当たっていた椥辻は、思わず瞳が潤んだ。

「よ、良かった囀子……!」

「わっ、どうしたんですか!? そんなにぎゅってされたらくるしいですよ……もー」

 若干火照る身体と重い頭で、囀子は椥辻を優しく抱きしめ返す。

 その視線の先には、まるで骨董品屋の一室に思えるような奇妙な部屋が映っていた。照明は赤に近い暖色灯で、提灯の中から燻るように灯りが漏れている。調度品はほぼ全て朱色と黒、時に青緑といったような寺社を彷彿とさせる色調で作られており、様々なモチーフが部屋の至る所に飾られている――人が人なら思わず悪夢に紛れ込んだのではないかと思うほど仰々しい空間に見知らぬ少年。それでも混乱したり恐怖したりしないのは、流石のおっとり囀子さん、と言ったところだった。

「ここ、どこですか……?」

「ここは、そうだな。黎海山探偵事務所。囀子はちょっと今、なんだ、厄介な風邪みたいなものにかかってて、気を失ってた。それで、あっえと、人に伝染るようなものじゃないから安心して。それを詳しい人に今見せに来たところだったんだ」

「ひとがいるのにおとうとさん、ぎゅってしたんですか?」

「いや、あの、それは、すんません――って、そんなことは良いんだ。あそこにいるのが、囀子を見てくれるせんせ――」

 と、視線を移そうとした時、いざりの顔が正面にちらと映った。いざりは苦しそうに身を反らして、体重を後ろに掛けていた。なぜだろう、と思うのも束の間、囀子が頭を上げた瞬間にいざりの身体は後ろに向かって吹っ飛んで床に激突した。

 どん、という鈍い音に気が付いたのか、囀子は緩慢に背を起こすといざりの方へ手のひらを伸ばして、いざりのことを抱き上げた。

「あら、ごめんなさい。だいじょうぶ?」

「うん、だいじょうぶ! いざり、つよいし!」

「いざりっていう名前なのね。私は囀子。お膝貸してくれてありがとう」

 いざりはこれまた得意そうに口端を歪めると、まるで頭の先から喜びを迸らせるように毛先で遊んだ。いざりはいつの間にか囀子の胸にすっぽり収まってしまって、椥辻は囀子の隣に座った。囀子の顔色は決して悪くない。手首の痕もすっかり消えたというわけではないもの、かなり薄くなっている。

 元気だ――。いつも通りの、囀子に見える。

 椥辻はこのまま行きみたいに囀子を背負って帰って、そのまま今日ぐらい冷房を効かせた部屋でビールでも飲みながら穏やかに眠ってしまいたかった。そして願わくば、なんの問題もなく明日を迎え、またいつも通りの一日に戻りたかった――そんな儚い願いを持っていることを、強く自覚していた。

 素人ならこれで解決と思ってしまうような瞬間的な回復――だがかなしいかな、椥辻は決して素人ではない。解決能力こそ黎海山頼りではあるものの、かなりの経験者ではある。

 だからこれが、長く続かないことを知っている。知りすぎるほどに、現場に立ち会っている。

 背後から足音があった。フローリングの板材が軋む、軽い音だった。新石の足音だ。ということは、渡したものに対する見立てが固まったのだろう。現実的な話をするのであれば、ここからが本題ということになる。これまでも椥辻は十分すぎるほど危険を冒し、清水の舞台から飛び降りた桜姫のような覚悟を持って家の二階から飛び降りたり、命からがらなんとか自宅から帰ってくる――なんだかあべこべだが紛れもない事実である――など体を張って来ているのだが、それでもそれは『手がかり』を得ただけで、『解答』を得たわけではない。言うなれば魔王城の鍵を手に入れただけで。つまりこれからその中に棲まう猖獗の主、大魔王を倒さなければならないということで。

「さて、お目覚めはどうかな。斎宮くんのお姉ちゃん。わたしこそが紹介に預かった君の、まあ治療行為にあたっている人間だ」

 人当たりのよいまろやかな話口で視界の中に入ってきたのは、やはり新石だった。彼女はソファへと静かに腰掛けると、いつの間にかサッカーボールまで手の中に納めて持ってきている。囀子は新石の見慣れない服装と室内での菅笠と、そこから垂れ下がっている透けるくらい薄い布の存在に興味津々なのか、何度かこちらにそわそわと目線をやった。そしてそのまま新石はいざりに向かって「おいで」と告げた。するといざりはぱっと囀子から離れて、赤子が抱かれるみたいに新石の胸の中へと飛び込んだ。

「あ、あの、えっと、綺麗なお洋服を着てますね! 気分はなんていうか、ごめんなさい。まだちょっと現状がわかってなくて、ここってどこでしょう、夢の中?」

 確かに夢の中っぽさはあるか――と、椥辻は思った。思想宗教モチーフ呪具全部ごちゃまぜ飾りっぱなしの部屋の中は、言われてみれば夢の中に閉じ込められたっぽい。起き抜けに現れた少年と、新石の見慣れない格好も手伝っているのだろう。とはいえ囀子は人を信用する性質たちだから、ここが夢ですと嘘を言われたら信じてしまう。ただまあ、そんな意地悪をするのは黎海山の方で、新石はしない。

「まずは、褒めてくれてありがとう。夢の中、というのはあながち間違いではないよ。君たちの普段生きている世界と少し常識が違うという意味ではね。けれど夢というのは違うかな。ここは紛れもない現実だよ。ついでに君の弟の仕事場でもある。フルネームをお聞かせ願おう。斎宮くんのお姉ちゃん」

「名前は波羅場囀子、六波羅蜜の波羅に、場所の場、囀る子で囀子です。えっと、わかんないけど、つまりおとうとさんの職場ってことですよね」

 波羅場――。

 その言葉に、新石の瞳にいつも溜まっている涙が揺れた。なにか引っかかるところがあっただろうか、と椥辻は思うが、今ではないだろう。特に差し挟むことはしなかった。

「その認識で構わない。所詮言葉遊びに過ぎないことだ。だから時間もないことだし、本題に入ろう」

 ほとんどの説明を省いているから囀子は未だに困惑しているようで、話半分でここまでの状況をつなぎ合わせようと無駄な努力をしているのが見えていた。それに気付いてはいるものの、椥辻は特に補足を入れようと思わない。なんならこのまま囀子は混乱したままで、言われた通りに進んで、明日になったらなんでも無かったみたいにいつも通りの生活に戻ってほしい――そんな風にさえ思っている。こちら側を理解なんてしなくていい。夢幻で終わるなら、それが一番幸せなのだ。

「はい、本題ですね。わかりました!」

 間違いなくわかってはいないが、いい返事だ。

「そうだな、新石。本題に入るべきだとは俺も思うよ。もうだって――」

 椥辻は部屋の東向きの窓の方に目を向ける。十字格子の丸窓は、徐々に青白い外気を映し始めていた。朝が来る。朝が来るということは、再び『異常識』が活動しにくい時間に差し掛かるということでもある。だがその間にも囀子を蝕んでいる『何か』は動き続けているのだ。言うならば潜伏期間に入ったようなもので、まだ病原菌が特定できていないこちらとしては、この間に全ての対応方針を纏めなければならないということでもあった。

「頃合いだ。彼は誰時かはたれどきも来てしまったからね」

 新石が眼の前の二人に出したのは、こんな部屋には余りにも不釣り合いな瓶入りの乳飲料だった。

「気合い入れだ。飲み給え」

 甘くてちょっと酸っぱい、子供向けのそれ。封は眼の前で開けられた。そして新石はいざりを黒い布の内側に入れて、胸をはだけさせて彼の口元を乳首へと近付けた。授乳にしか見えない光景だが、ものすごい違和感ではある。なんせ、いざりの年頃は既に授乳なんて終わっている、青年に差し掛かるかもという成長具合なのだ。囀子はその異常な様を見て、驚いたように毛先を逆立たせてフリーズしていた。

 まあ、それもそうだ。と見慣れている椥辻は乳飲料に口を付けた。疲労している身体に冷たくて甘い乳飲料はよく効く。昔はこういう飲料が結構好きだった。大人になったら甘すぎてとても常飲する気にはならなくなったが――ともかくとして。冷蔵庫にこれしか無かったのは知っているが、目の前で授乳の真似事をされると、乳飲料が母乳の味に思えてくるのは盲点だった。とはいえ、味わう。うまい。

「さ、やろうか。あと斎宮くん、これは私様が『鬼かも知れない』と一次の見立てで言ったそうだが、それは違う。先程わかったよ」

「えっ、そうなのか、じゃあ……」

「それを今から話す」

 授乳にも一段落、こちらにも一段落ついたということで、新石は胸を仕舞って口を開いた。いざりはお腹がいっぱいになった赤ん坊がそうされるように、背中を優しく叩かれてちいさくげっぷした後、ころりと眠りに入った。愛らしい膝小僧が弛緩して開き、優しくいざりの頭の下にクッションを差し込んで自由になると、新石はぐっと背中を持ち上げてため息をついた。彼女にとってもようやく一段落なのだろう。

「ところで、囀子くん。君、父親がいないか――それか再婚の父親がいるね」

「います」

「そしてその父親のことをよく思っていない、いや、ほとんど悪く思っている。寝ている間に身体を触られたり、或いは言葉にするのも悍ましい、もっと怖い思いをしたことがあるね」

 囀子は、その言葉に思わず固まった。わかりやすく呼吸が浅く、顔にしっとりと汗をかいている。ぐい、と喉の奥から唾を飲み込む音が聞こえ、目が少し充血した。囀子の顔は少し上向きになり、何かに震えるようにして言葉を絞り出した。それは然も、『そのとおりです』と告白するように。

「そ、そんなことありません! 父親は、父親はいい人です! とってもいい人です! あなたの方がおかしいです!」

 口から迸った言葉は、真逆だった。けれどその言葉を吐き出すと同時に、囀子の視線は下がって、ガタガタと震えだした。

「新石――おい!」

 椥辻が割って入る。そのことを椥辻は知っているけれど、おくびにも出さないような禁忌の言葉だった。囀子の家庭は複雑なのだ。彼女が家を追われて斎宮家の弟の元へ逃げてきたのも、その家の歪さが全ての元凶となっている。だから彼女にとっては、元の家族の、それも父親が大きなトラウマとなっているのだ。それをこんなにも消耗している囀子にぶつけるなど、解決に関係があるとしても荒療治がすぎる。

「黙りなさい。斎宮くん。これは君にも責任があることなんだからね」

 だが割って入った椥辻をばっさり切り捨てて、新石はまっすぐと囀子の方を見た。灰色の薄明かりに映える光が刀の煌めきのような鋒を囀子の方へ向ける。そのまま新石は、低い声で――黎海山の声で、こう告げた。

「囀子、今日の夜、父さんの部屋に来なさい――」

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