第11話
「開けてください」
「入り給え」
返ってきたのは、女性の声だった。
だが、その異常に、椥辻はやはり反応しない。いつもどおりの常識だから、反応しない。
出入りの儀式は、いつでも欠かすことなく行われている。 アリババと四十人の盗賊ではないが、この事務所に正式に侵入しようとする為には、絶対にこの
重い金属製の扉が開いて、椥辻は倒れ込むように事務所の土間へと雪崩込んだ。
それもそうだろう、家の中で異常識に巻き込まれ、恐怖体験に身の凍るような思いをし、それほど高くはないといえ二階から飛び降りて、片道三キロの道を一睡もせずに往復しているのだから。いかに椥辻が省エネルギーで惰性のまま動くのが得意と言っても、疲れないわけではない。軽く休ませてもらえればもう二昼夜くらい無理が効くとは言っても、それでも疲労が無視できるわけではないのだから。
だから暫く土間に倒れ込んだ後、ゆっくりと顔を上げると、そこには菅笠に透けるくらい薄い布を引っ掛けて顔を隠している、黒を基調に金のシノワズリ柄をあしらった
「
「
女の白指が素早く踊り、ぽきん、と額に扇の縁をぶつけられて、椥辻の眉間には電流のような痛みが走った。きっぱりと言い撥ねられて、その痛みでようやく普段から言い込められていることを思い出した椥辻は、とりあえず喉から絞り出した肉体の感想を空気中にぶん投げた。
「いつっ」
「痛いだろうな。痛くしているんだから。はい、これで足と身体を拭きなさい」
流麗な声である。詩でも吟じるような声と共に長い濡羽色の髪が紅い照明に揺れた。先ほどまで居座っていた、大きな背中の英国紳士風多動症はどこにも見当たらない。消えたのか、と言われるとそれは嘘だ。消えたわけではない。
椥辻の目は、白い玉のような肌の上に流れる黒い布を追っていた。
――。
客観的に、ぼんやりと現状を眺める。
誰が想像するだろう。先程の黎海山、あの男と、この女、新石が同じ存在であるなどと。
黎海山は、いや、『黎海山新石』は、一般的に見て、二つの姿がある。
依頼人が目にするのは男の方だ。だから多くの人にとって、この旗袍を纏った見目麗しいエキゾチックな女性は小間使いか、或いは妻や内縁者だと思われている。
それぞれ呼び名は男のほうが『黎海山』、女の方は『新石』。
つまり名前の『黎海山新石』というのは、名字が黎海山で、名前が新石ということではなく。
男の名前である『黎海山』と、女の名前である『新石』を繋げて読んでいるだけに過ぎない。
だから普段通りに『黎海山』と呼ぶと『新石』は怒るし、『新石』の名で『黎海山』を呼んでも無視されるだけだ。
記憶も行動原理も一貫しているのに、性格も名前も違う。
差し当たり必要なのは、これが『黎海山新石』の正体の一つであり――今の『新石』は『黎海山』よりも人当たりがいい、少し世話焼きな馴染み深い女性であるということだけだ。
「それにしても、私様は、また掃除をサボっていたのだね。全く埃臭くて堪らないな」
「黎海山が掃除なんてするタマじゃないのは、そっちの方がよく知っているだろう。自分のことなんだから」
「知っているよ。でも、気になるものは気になるの。そういえば、
十種神宝は、正式には
椥辻があの場面でわかっておかなければならなかったことは一つ。十種神宝の中の一つ、模様付きの豪華な布であるところの
椥辻は汗も丸ごと拭き上げた足で框を踏むと、奥で眠る囀子を見た。紅いソファの上で胸が上下している。今のところ苦しそうには見えない。大きく胸を撫で下ろすと、目を瞑った。黎海山に感謝するしかないだろう。仕事道具を持っていくことを許可してくれたことを含め。
「十種神宝の偽物は、十分に役に立ったよ……。とはいえ、使ったのは品物比礼だけだけれど、そのお陰でなんとか五体満足に帰ってこれた。これがその戦利品。片方はサッカーボール。もう片方は、まだ中味を改めてないけどやばいってすぐわかったから持ってきた」
「そうかい。十種神宝の偽物が役に立ったなら上々だ。アレは一度ならほぼ効くからね。あんなに歴史のある常識を振りかざされて嫌じゃない異常識はそういない。勿論、大パチこかれたとあればお相手様もお冠間違いないけれど。ところで何一つ落とさずに持って帰ってきたかい?」
そう、大嘘なのだ。椥辻が先程自宅で行ったお祓いもどきには、実際なんの効果もない。見た目だけの間に合わせ、逆に言えばだからこそ、斎宮椥辻のような素人でも扱って良いものとして黎海山は使用を許可している。なぜ十種神宝の偽物があるのかについては、一旦置いておくとして。
椥辻は仕事道具を確認する。一つも落としていない。こんなことを確認してくるのが新石の世話焼きな特性の一つなのだけれど、仕事道具の中に回収してきたハンカチが埋まっていたのでそれを引き上げた。
「そんな子供みたいなことしないよ。全部――文字通り十種類ある。ただ、ライトボールは回収できなかったから、終わったら拾って返す。それだけは待って欲しい」
「ふん、まあいいよ。ライトボールについては消耗品だからね。そのつもりで購入してある。大した問題はないよ。それより、その手に持ってるものを見せなさい」
元から渡すつもりではあったから、椥辻はその手に握っていたハンカチを差し出した。サッカーボールも渡そうと思ったが、そちらはまだ玄関に転がっている。新石の視線はそのボールを一瞥したが、手許に渡ったそのハンカチを握ると視線を切った。
「これ、まだ中は開けてないんだけど」
「……」
新石は自らの手のひらで握ったそのハンカチへ視線を落とすと、眉根を寄せてそれを凝視した。そして布地の上から指で触れて、小さな首肯の後ため息をついた。
「なるほど。確かにこれっぽいね」
明らかに思わせぶりなため息だ。何かわかったのだろうか――そう聞きたそうな椥辻を放っておいて、新石はソファへと向かった。椥辻もそれを追いかけた、ところだった。囀子の顔は玄関からだとソファの背もたれに遮られてギリギリ見えない位置だ。焦れる気持ちで椥辻は新石を追い越して、小走りで囀子へと向かう。玄関から見えたのは呼吸までだ、死んでいないのはわかっているけれど、苦しんでいないだろうか。それが心配で、何も出来ないけれど足は逸った。
横になって眠っている囀子――早く近付いて、その顔色を確認したい。真正面から、横になっている囀子だと上から眺めることになるけれど。その顔色を――。
と考えていた椥辻の視線は、いち早く囀子の顔を捉えた。
立ったままなのに、その顔色をしっかりと見ることが出来た。というのも囀子の顔は、少し角度がついた台座に載せられていた。小さな枕くらいの布を付けた――膝の上に。
「どうしたの?」
ぽけー、という言葉が丁度似合うような、真っ黒い瞳と目が合った。骨格に対して大きい瞳、子供の瞳である。黒い袷に身を包んで、膝の上に黒い布を敷いている。その上には落ち着いた囀子の寝顔があった。家で居眠りをしている時と同じいたく落ち着いた感じで、大きく肩から力が抜けた。黎海山の対処がうまくいったのだろう。
「いざりちゃんこんばんは。君がこうしてるってことは、君が囀子のことを助けてくれたの?」
椥辻は膝を抱えるように蹲り、視線を下げた。出来るだけ子供用の柔和な笑顔を作る。少年は一つくくりの長い髪を左右へと振った。
「ううん。わかんない。でも、ちょっとだけお母さん言われた通りにしたよ」
「そっか、ありがとう。今は黄金糖ないんだけど、次にあったらあげるよ」
「わあっ、ほんとう~?」
「うん、本当。ありがとういざりちゃん。それとも髪飾りがいい?」
「どっちも!」
「わかった。約束だ」
「わ~い!」
両手を叩いて喜ぶいざり。愛らしい少年は、嬉しそうに小首を傾げて瞳を細めた。
さて――話の内容としては、やはり新石はこの子に囀子を任せたらしい。会話にあった『お母さん』とは、新石のことだ。
この眼の前にいる、十から十三くらいまでに見える線の細い少年の名前は黎海山
「ところでおにーちゃん。この人って、おにーちゃんの、なに?」
いざりの持つ、底の見えない大きな瞳で、そう聞かれる。肩を寄せて、小首を傾げて、ほんの少し手首を反らせて、興味津々に、まるで女の子みたいに聞かれる。
いざりは一応男の身体をしているけれど、中身は――つまり魂にあたるものは――女だと新石から聞いたことがある。どういう原理でそうなっているのか、どういう
黎海山が彼女を呼んだのは、彼女が特定の傾向を持つ異常識に対する特効薬となる存在であるからだ。『子供の異常識』に対する『子供の異常識』という切り札。異常識は、材質が同じで対極にある存在を近付けることでその存在をある程度矮小にすることが出来る傾向を持っている。磁石でいうところの、同極同士を近付けようとすると離れていくようなものである。
「なに、と聞かれると、お姉ちゃんだ」
「うーそ! だってこのひとの方が若いもん」
「若くても、姉になる時はある。血縁というのは不思議なもので、年下のおじさんなんてこともあり得るんだ」
ふーん、と案外そこについては受け流してくるいざり。読み通りならここらで理解できなくて打ち返してくるものだと思っていたのだが――案外頭が回るのだろうか。と、思っていたのだが、その予想はわずか一秒の後にひっくり返された。彼の、或いは彼女の着眼点は、思っていたそれとは大きく違った。想像の斜め上だった。
「なーに、おにーちゃん。ねえ、そのおねーちゃんといざり、どっちが大好きなの?」
いざりの瞳が、じっとりとした湿度で上目遣いになる。唇の形が拗ねたように曲がって、嫉妬深そうな光の間で揺れる。一見すれば子供愛らしい嫉妬のように見える無害なそれだが、いざりの言葉には背後でハンカチを弄っていた新石も反応していた。新石から一瞬の目配せがあり、椥辻はそれとなく頷いた。椥辻はソファの裏側に回って、いざりの頭をそっと撫でた。すると無垢な笑顔で嬉しそうに頬ずりしてくる。まるで子犬のような反応だ。愛らしい、甘えたがりの可愛い子供である。ただ、ここで返答を間違えてはいけない。
椥辻はいざりの耳にそっと「いざりが大好きだよ」と耳打ちしてやった。みるみる内にいざりの耳は赤くなって、とろけたりんごのようなほっぺで顔を綻ばせた。まるで愛の言葉に恥じらう乙女――まあ、肉体上は男ではあるのだが、彼女は満足したように得意顔になって微笑んだ。
椥辻がなぜこんな返答をしたのかというと、それが黎海山探偵事務所においての常識だからだ。
いざりに『自分が好きか』と聞かれた時は、必ず好意を惜しまず表明し、それは一番ではないといけない。それ以外はない、認められていない。
それが、黎海山
「おにーちゃん、おにーちゃん」
すりすりと擦り寄ってくるいざりの頭を抱き留めながら、膝に乗った囀子を眺めると、薄目の先の瞳と目が合った。
「あ」
「おとうと、さん」
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