第10話

 階段を再び上がる。心臓の鼓動が激しくなっていくのを感じる。

「さあ、夜の内に洗濯しておくかな。囀子てんこの分も回しとこう」

 白を切って、切り通す。これでもまだ椥辻なぎつじは日常の風景として、至って自然に囀子の部屋へ入ろうとしている。

 一歩一歩、その場所が近付いてくる。細長い廊下の木目に沿って、椥辻の足下の影が伸びる。もともとここは、仏間となっていた部屋らしい。大家によるとここは大家のお婆さんが棲んでいた家らしく、そのお婆さんが和室を仏間として利用していたそうだ。

 ――やれやれ、ブルって来やがった。

 皮肉なものだ。仏壇も、仏具も、墓も、基本的には死人を悼み、祝福し、死出の旅路で迷わないようにと願いを掛けて作り出したものだというのに、こうして意味ありげな背景があるだけでその意味合いが反転して邪悪なものに見えてくる。柳の下の女幽霊と同じだ。見間違い、思い違いが強く現実に影響を及ぼして、その常識にまで侵食している。

 襖の切り欠けに手を掛けた瞬間だった。ああ、不味い。わかりやすく、不味い。

 廊下の照明が明滅する。闇と光が、入り交じる。

 わかっている。これ自体何があるわけではないし、異常識側も何かをしようと思って、こういう現象が発生するのではない。いわばこの現象は常識と常識が擦れ合う時に発生する摩擦だ。上空で温度の違う大気同士が触れ合うと雷を作り出すように――先程までこちらが作り出していた日常という常識と、あちらの持っている異なる常識が擦れ合って力を発生させている。電灯が明滅すること自体には本質的に意味がない演出だけれど、その現象は覿面に人間の精神に不安をもたらすし、椥辻にとっても例外ではない。

 だから椥辻は囀子の部屋の正面の窓を開け、仕事道具からとりあえず非常用のライトを取り出してスイッチを付けた。こんな風に電灯が付いたり消えたりすることは良くあることで、それ自体にはなんの意味がないとは言え、やはり視界が悪いことには務まらない。椥辻の手元に握られていたのは球体照明。つまりライトボールである。しかも暖色タイプの照明である。全方向を照射して光を照射できるそれは懐中電灯と比して安全で、片手を取られないことから効率もいい。え? これだって明滅するんじゃないかって? その通り。明滅する。だからこそ、それを見越して何個か予備がある。

 椥辻は仕事道具の中から、今度は白い紙で折られた折り紙を取り出した。洋紙で折られたそれは漢字の大の字のようになっており人の形を模して折られている。いわゆる身代わり人形、形代と呼ばれるそれを取り出すと、部屋の前に置いた。

 準備は終わった。

 これ以上の前準備はない――というか、出来ない。常識に常識をぶつけて、明るくして、人形まで置いた。これ以上の対策をしようと思えば黎海山の助けがいる。しかし彼に囀子を頼んでいる手前、そんなこと頼めるはずもなく。

 さあ、どんと来い。いや、来てほしくはない。どっちかというと、Don’t来い。Don’t 来い異常現象。

「入るよ」

 椥辻は襖を横へと滑らせて、その部屋を照らした。先ほど囀子の部屋は和室になっていると語ったが、ただ畳が敷かれているわけではない。部屋の襖から左正面には床の間があり、仏壇はその隣の観音開きの中に入る仕組みだ。だが我が家には掛け軸や仏壇なんて大層なものはない。ということは床の間は体の良い収納になっているということであり、罰当たり極まりないのだが、仏間も同じようにかさばるものが突っ込まれているのだった。こんな職業をしておいて仏間に神棚の一つでも置かなかったのが災いしたのだろうか。そも仏間に神棚なんて妙な話ではあるが、こういうことを未然に防げた可能性があるなら、神頼みでもしておくべきだったかもしれない。とはいえ、後悔先に立たず。襖の中からはビリビリするような、それでいて甘いような奇妙な有機物の香りが漂っていた。腐敗臭とは違うが遠からずといった感じで、囀子の匂いもあるだろうが普段のそれとは異なっている。

 ライトボールを徐ろに部屋の中へ転がす。正面には仕切りの白いカーテンが敷かれており、右手前側にはポールハンガーに掛けられた学校の制服がかけられてカバンが置かれている。左側には大きな作業台が置かれており、切れ端やミシン、裁縫道具などが丁寧に片付けられて置かれていた。床の間には囀子の自作した衣装がハンガーラックに掛けられており、どれも普段と変わりない。

「さて、どこにあるかな」

 このタイミングで、椥辻はほとんど演技を辞めていた。ライトボールを転がして、警戒してこの部屋に入った時点で、敵対行動になっている。身の安全を確保するための最低限の演技はここまで十分に仕込んできた。だからもう、演技は要らない。ここからは異常識との一騎打ち、だが椥辻に緊張の色はない。仕事道具があるからではない、いや、そういう理由もあるけれど、根本のところは違う。だから椥辻は怖がりつつも、嫌だと思いつつもしっかりとした足取りで部屋の中へ踏み込んだ。

 足の裏に畳の目の柔らかな感触が触れる。左側にある作業台には部屋の電灯のスイッチが置いてある。床の間に置かれたワンピースが風もないのに揺れた気がした。視界の中には何もいない。いないのに動きがあるから、誰かがここにいる息遣いが聞こえてくる気がして、その思考を振り払う。電灯のスイッチを押してみる。反応はない。

「……」

 思わず何度も押して見たくなるけれど、に気を取られてはいけない。異常識は、常に視界の外にいる。意識の外にある。というよりも、意識の外にあるから異常識なのだ。彼らと交わる瞬間はもっと決定的で、衝撃的で、触れた瞬間にそれが異常なのだと理解できる。サブリミナルに脳裏へ刻まれて、それが恐ろしいものだと知る暇もなく、引きずり込まれる。だから怖がっても、動揺してはいけない。動揺して無駄に動けば、その拍子にもっとも触れてはならない異常識の領域の中に踏み込んでしまう確率が高まる。

 平静に、起こったことだけを抽出する。椥辻は今、部屋に入り、電灯のスイッチを押してみたがそれが不調で電源がつかなかった。それだけの話だ。これまでだってこういう不調は何度でもあったのだから、不必要に恐れることはない。カーテンの手前側にはこれ以上めぼしいものは無さそうだ。となると、やはり奥。本命は囀子の文机だろう。

 囀子の部屋の構造は、襖の向こうにもう一枚のカーテンを置いて仕切りを設けるという、まるで舞台のような仕組みになっている。これは囀子に部屋を与えた時に襖一枚では何かと問題があるかもしれない、と仕切りを追加した結果なのだが――はっきりいって、これのせいでめちゃくちゃ怖い。暗闇の中、見えない箱の中――恐怖というのは実に見えないことによって増幅されるというのがよくわかる。囀子の為に想像を働かせたせいで、恐怖の想像までも働かせることになるなんて、なんたる皮肉だ。

「やるか」

 だが椥辻は、焦らない。

 このような状況に立ち会った時、人は行うべき行動を行ってしまう。それも急いで行ってしまう。行き急いで、十分な用意もなく、歩みを進めてしまう。だからもし椥辻が焦っていたら、動揺していたら、もうここに一秒も居たくないという風にそのままカーテンを思い切りよく引き開けて、その中へ飛び込んでしまうことも有り得たわけだが、椥辻はそうしなかった。

 甘い匂いが、腐っている。

 そのことに、いち早く気が付いていたのだ。

 徐々にこの部屋全体が異常識になりつつある――その兆候だろう。

 土壁からはかさり、虫が這いずるような気配がする。羽音がする。がちがちと聞き慣れない羽音。次いで何かの呼吸音。一つだ。どこからだろう。怖い――。どこからともなく、どこからでも見られているのが感じられる。ライトボールから照射される影が揺らいでいる。誰かが動いている。違う体系の常識の中で、斎宮椥辻をよく思わないものが動いている。こちらを捉えようとしている。足音がある、足音があるということは、これは『足がある異常識』ということになる。けれど姿は見えないか、姿を特定の状況でしか映さない異常識。

 かくれんぼか、幽霊か。

 幽霊はない。足があるのだ。であれば、かくれんぼ。椥辻は真っ直ぐと向いたまま、一歩、二歩と踏み出した。みし、みし、床板が軋む。その音は一つではない。真後ろから追いかけるような足音が来る。こちらが一歩進むごとに、それに合わせて移動している。カーテンの裾を見ないように、椥辻はそっと正座を組んで座り込んだ。そして仕事道具の中から一本の豪華な布を取り出す。布の中心には×の形のモチーフがあり、布の縁は青海波模様が刺繍されている。

 椥辻は、想像する。今、このかくれんぼは自分が振り返るのを待っている。

 異常識のルールに気が付き、振り返ることを求めている。

 かくれんぼを、発見してもらおうと企んでいる。

 異常識のルールに自ら飛び込んでくることを、或いはルールが変わるのを待っている。

 振り返らず、走り出したら――その時は追いかけっ子になる。そうなれば椥辻は逃げられないだろう。真後ろを取られている。

 だから椥辻は、振り返らない。異常識に取り込まれたら、もう帰って来られない。今この場所は、相手の陣地、胃の腑の中にいると言っても過言ではない。容易に出ることなどできない。

 入口も開放されているのに、密室状態と変わりない。ここで対処しなければ、椥辻諸共ここで異常識に飲まれて死に至る。

 背後にあるものの形を想像する。囀子の夢を、思い出す。

 子供がいて、怪我をしている。

 囀子はクロゼットから飛び出す。けれど捕まる――。

 そして見たのは、赤ん坊の死体。

 異常識に侵された者は、その常識の中に深く入り込む。故にその異常識がその異常識の中にいるのかを克明に伝えている。囀子が見たのは、理由だ。背後に間違いなくいるこの子がなぜ、かくれんぼをしているのかの、理由。

 意味。

 かくれんぼには、価値があったのだ。この子にはかくれんぼする理由があった。

 椥辻は目を瞑ると、手に持った豪華な布を緩やかに左右へと振り始めた。

 ひだり、みぎ、ひだり。

 ひだり、みぎ、ひだり。


 ――ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ


 左右へと布を振りながら、椥辻はゆっくりとその祓詞はらえのことばを呟いた。

「――!」

 椥辻の左肩甲骨の辺りに、ひたりと手が乗った感触があった。けれど形だけで手のひらではない。小さく羽音がある。虫だ。

 虫の集まった、冷たい手だ。生者の手ではない。椥辻が堪えていたものが一気に噴き上げて、思わず叫びだしそうになる。

 ひたひたひたひた。

 なんども、なんども、まるで子供が遊んで、とねだるように、小さな手が、肩を叩く。虫の尖った足先が、あの特徴的な顎が、噛みつくぞ、そんな風に威圧しているようにさえ感じる。

 だが椥辻は、振り返らない。気が付いた素振りも見せない。怖いけれど、平静ぶって、大嘘こいて、もう一度読み上げる。


 ――ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか 


 ――ねえ、どうして遊んでくれないの?


 どうして、遊んでくれないの? 

 後ろに、いるのに。


 耳元で、少年の声が囁いた。

 椥辻の背後にある気配は、どんどん大きくなっていく。怒っているのだろう。けれど椥辻は振り返らない。祓詞の間に割り込まれても、少し肩を引かれても。

 決して、その誘いには乗らない。

 効いているのだ。今この異常識は、こちらの常識の中へと身を晒し始めている。ひふみ祝詞――五十音を並べ替えて作られた由緒正しい祓詞が異常識の主となる少年に大きな影響を及ぼしている、嫌がっているのだ。だからわざわざ身を晒してまで、こちらの祝詞を辞めるよう求めているのだ。早期決着を付ける、そういう意味合いで。

 やめて、ねえ、やめて。やめてよ、いじめないでよお。

 ねえ、

 や、め、て。

 ぐい、と引かれる。力強く、思い切り、子供に引かれる。泣きわめきながら、誰もいない部屋で背中を引かれている。

 だが絶対に、振り返らない。こうして引いているのだって、きっと物理的なそれではない。こちらの常識とは違うから、なにか違う力で引っ張っているのだ。

 だから、椥辻もそういう異常識には合わせない。むしろこの瞬間を待っていたのだから。

 わざと今の状況とは合わない祓詞を撒き餌にして、嫌がって顔を出すところを、ずっと狙っていたのだから。

 椥辻は、再びその布を高く掲げてひだり、みぎ、ひだりと振った。

 そして読み上げたのは、先ほどとは違う祓詞である。


  ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 品々物比禮くさぐさのもののひれ、ふるいのけはらひやりたまへ


 一度唱えると、背中に触れていた手が止まった。

 

 ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 品々物比禮くさぐさのもののひれ、ふるいのけはらひやりたまへ


 

 二度唱えると、手が遠ざかった。

 

 ――ひと ふた   いつ むゆ なな  ここの たりや ととなへつつ ふるへゆらゆらと ふるへ 品々物比禮くさぐさのもののひれ、ふるいのけはらひやりたまへ 

 

 

 三度唱えた時、それが隠れたのがわかった。


 椥辻はカーテンを開ける。

 白いカーテンの先には、囀子の文机があった。よく整頓された机の上には、繕う途中で放り出された縫い物と、どう見たって不釣り合いな、ボロボロのサッカーボールが置いてある。

「やっぱり、一個はこれだよな」

 椥辻は素早く立ち上がると、そのサッカーボールを持ち上げた。と同時に、もう一つ見慣れないハンカチが机の上にあることに気が付いた。中身には小さな何かが入っている膨らみがある。

 開けるか――? 椥辻の手は一瞬迷ったが、開けなかった。ここで開ける必要はない。素早くポケットにそれをしまい込もうとしてうっかり仕事道具入れに入ってしまったが、気にしない。椥辻は円を描くように回って振り返らないようにして廊下へ向かい合った。

 なにもいない。

 いないけれど――思い切り駆け出した。

 がちがちがちがち。

 それが聞こえたから。


 我我我我我我我我我我我我我我がががががががががががががが――。


 何度も何度も呼んでいるその声が、

  、聞こえたから。

 婉曲させて、そのルールを騙そうと迂回したけれど、見逃してくれるはずがないから。

 ましてやを振りかざした不届き者など、逃がしてくれるはずもないから。

 だから椥辻は、開けておいた窓から

 後ろ手で飛び出した窓を閉めながら、自由落下に任せて落ちた。

 二階から跳んだって、死ぬはずがない。靴だって、最初から外へと放り出している。鍵も閉まっている。ここまでは、想定内。

 生きてここから出られれば、儲けものだ。

 飛び降りる椥辻の背中から、腰の細い蜂のような羽虫が離れていく。

 は空で翻って――形代、先ほど部屋の襖の前に置いていた形代へ群がった。

 は急いで玄関まで降りてきた。椥辻を捕まえようとのたうちまわる羽音が聞こえ、玄関の鍵が閉まっていることに気が付くと、何度も何度もいみじそうに玄関を叩いて、再び闇の中へと融けていった。

「この仕事、本当に、最悪だ――」

 汗を拭いながら、玄関先で椥辻はへたり込んだ。

 かくして、椥辻の手にはサッカーボールとハンカチに入った『何か』が握られた。

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