第9話

 黎海山らいかいさん探偵事務所から家までは約三十分の距離にある。深泥池みぞろがいけを真っ直ぐ下がっていくと、すぐに北山駅の周辺に出た。駅の周辺は石造りを基調としたハイソな見た目で、植物園とコンサートホールが隣り合って並んでいる。道路と園内を隔てる常緑の壁の横を通り抜け、おしゃれなカフェとレストランを行き過ぎて鴨川を渡る。すると急に見慣れたくすんだ電柱が目について、煩雑はんざつな町の中へ帰ってきた自覚が戻って来る。やや高級志向なスーパーマーケットを通り過ぎて角を曲がると、新町通りに出た。ここを真っ直ぐ行けば、家に着く。ここまですれ違った人はいない。

 それもそうか、こんなド平日の深夜も深夜のいい時間に出歩く人間もそう居ないだろう。橋の下に夜釣りの影だけはあったが、アレは例外だ。それもこんな熱帯夜、三十度超えの夜となれば余計に。だからそのまま真っ直ぐと家へ歩みを進めて、汗だくになりながら玄関へと辿り着いた。

 丸い電灯が中でじりじりと音を立てている。玄関の隣の駐車場はいつもどおりがら空きで、何も入っていない。玄関はポストもアイスコープもないフラッシュドアで、ここだけ切り取ったらアパートの一室のような印象を受ける。一応――本当に一応、四部屋もある一軒家なのだが。とはいえ、見慣れたドアのことを悠長に考えている時間はない。椥辻はズボンの後ろポケットに手を差し込むと、薄っぺらい鍵を取り出して鍵穴に突っ込んだ。鍵は抵抗もなく簡単に回り、中のシリンダーが動いた音がした。ここまでになんら異常はない。気配もなければ、兆候もない。黎海山はああ言っていたが、案外大したことはないのではないか――そう思えるほどに、ここまでの道のりは余りにも平坦だった。それがずっと続いてくれれば一番だったのだが、やはり当然、そうはならない。

 椥辻なぎつじが感じていた奇妙さは、ドアノブからの違和感だった。音がしたわけでも、重かったわけでもない。ただ、ほんの少し、何かが、摩擦が、或いは手に触れる感覚が、少しだけ違うだけ。

 個人の感想で、個人の感性でしかないほんのちょっとの違い。しかし異常識とは、こういうほんのちょっとの違和感から始まることを椥辻は経験から知っている。なんせ、椥辻が相対しているのは異常ではありつつも、『常識』なのである。普通にそこら辺にあるもので、そのルールの圏内ではそれが普通なのであって、むしろあちらから見ればこちらの方が異常の存在なのである。

 だから、覚悟しなければならない。この中に入るということは、有り得ない現象に立ち会うかも知れないということであり、五体満足で事務所へ帰れる保証もない。だがここまで来た今、それを避けるという選択肢は既にない。

 避ければ自分は何も被害を被らず生きて帰れるかもしれない。もしかしたら囀子だってこのまま助かる可能性がないわけではないかもしれない。けれどそれは分の悪すぎる希望的観測で、もはや絶望的観測と言っても良かった。

 さて、椥辻は今どうしているだろう。ドアノブから異常識の気配を感じ取った彼は、その内部にどうやって侵入するだろう。これまで仕事として何度も異常識と渡り合っている彼だ、この侵入においての手順も極めてビジネス的な冷たい対応で――つまり警戒度を高めて、四方八方の気配に耳をそばだてながら入っていくだろうか。テンプレートな対応であれば、確かにそれが一番正しそうに見える。それに彼は今、を持っている。黎海山が普段から持ち歩くことを禁じるほどのものである。つまり異常識に対して効果があることを保証されている、言い換えれば、武器を持っている状態に等しい。であればやはりここは、それを十全に活用し、身の安全を十分に担保しながら進行するのが正しい――そう思うのが、普通の、の、話だ。

「ただいま」

 椥辻は、いつも通り、ドアノブを回して家に一歩踏み込んだ。土台のコンクリートが見えっぱなしのみすぼらしい玄関の中、ごちゃついた靴と囀子のブーツが段ボールの中に大切に置かれている狭い玄関へ、普通に、まるで家に帰って来たみたいに踏み込んだ。

 そしてまた、当たり前のように靴を脱いで玄関の外へと脱ぎ飛ばすと、鍵を掛けた。靴は外へ転がっているが、気が付かなかったことにして上がり框へ踏みこんだ。荷物を持ったまま汗だくの身体を引きずって左奥の脱衣所へ向かうと、そのまま汗ばんだ服を脱いで風呂の中へと入り込んだ。

 誤解なきよう訂正しておくが、ここまでの一連の流れの中で椥辻は肌でひしひしと不安の種となるような、まるでこめかみの辺りがチクチクするような嫌な気配を感じ取っている。背中からガバっと襲いかかられるかもしれないというような、思わず振り返って確認したくなるような恐怖を、人間らしく感じ取っている。だから何食わぬ顔で風呂へ突っ込んでいるものの、今だって叫び出したいくらい怖いし、逃げ出したい。額から汗は流れているけれど、『自分は汗っかきである』というような設定で自分自身を誤魔化した。

 この行動の狙いは――当たり前の流れ、つまり誰がどうやったって同じ行動をするだろう、というようなを押し付けることにあるのだが、勿論端から見れば夜遅くに汗だくで帰ってきた男がシャワーを浴びるために風呂へ突っ込んだ、というような日常の光景であり、それが狙っている効果そのものである。

 場違いであるということは、何よりもストレスになる。喩えるなら、いつも通りの席に座ったと思ったら一つ隣の席に間違って座っていて、本当の席の主が帰ってきて隣で立ち尽くしたまま気を抜いている自分の姿をじっと見つめていた、みたいな。だがこの当たり前のように申し訳なくて恥ずかしいシーンを、一つだけ気まずくならず穏便に解決する方法がある。

 それは鈍感にも、隣に立った席の主にずっと気が付かないことである。気が付かない間に用を済ませて立ち去ってしまうことである。常識と常識が噛み合わない、まるで立体交差のようにお互いが干渉することなく終わらせて、穏便に立ち去ってしまう――まるで盗塁のように、さっさと成果だけ得て立ち去ってしまえばいいのである。

 とにかく限界までこちらの尺を引き伸ばす。こちらの土俵のまま戦える時間を伸ばす、小賢しくて姑息なやり方だが特に内側まで侵入されているのなら当然、やらざるを得ない。

 だから椥辻は、歌だって歌っちゃう。シャワーを浴びながら、一軒家である利点を活かして、大きめの声で歌っちゃったりもする。ホラー番組を見た後のシャワーで目を瞑った瞬間が怖いのも知っているから、背後を常に動かすように踊ったりもする。異常識に対抗しているというか、ここまで来ると普通に異常ではあるのだが、椥辻は大真面目なのだ。弾け飛ぶ水滴に、踊る髪、泡でスピンするのも、大真面目である。大真面目にふざけているのだ。なんせ椥辻はホラーなんて嫌いが故に、ホラーも超常現象も、異常識だって大嫌いであるが為に、それをなんとかする為に、なんでもする。なぜこんな職業で日銭を稼いでいるんだと言われたら、もう成り行きでしかない。椥辻は怖いものが大嫌いだ。

 だからシャワーもそこそこに、脱衣所へ転び出る。珪藻土マットの上に飛びついて、仕込み通りの一言を放つ。

「しまった。タオルを忘れた――」

 半分真面目で、半分嘘のことを、椥辻はわざと言葉に出して言った。まるで、これから裸でこの家の中をうろつくことを宣言するように、わざと声に出して言った。

「これだから、困っちゃうよなあ」

 水も滴る男――枕詞に従っていい男とは口が裂けても言えないようなあられもない格好で、椥辻は家の中へ踏み出した。全裸のまま階段の電気をつけて、出来るだけ水滴を飛ばさないように、二階へと駆け上がる。

 椥辻が二階に行くためのルートを設定していたのには、ワケがある。二階のベランダの隣の部屋が囀子の部屋だからだ。黎海山の言によると、今回の囀子を襲っている現象には理由だけではなく、他の『何か』が干渉している。囀子の症状が急激に悪化したのはそのせいだ。加えて推察するのであれば家の中にその『何か』があるせいで、この家の中に異常識が蔓延している。

 階段を登りながら、椥辻は出来るだけ心臓の鼓動を抑えてベランダ側の部屋に差し掛かった。ベニヤの安っぽいドアを開けて、畳んで床へ置きっぱなしになっているタオルを手に取った。顔に押し当てると、水滴がじわりとシミになる。一瞥してみるけれど、この部屋にはなにか異常がある感じはしない。むしろ気配がずいぶん薄いと感じるくらいだ。

 まあ、当然か。それはそうだ。ここは目当ての部屋ではないのだから。目当てとなっている一番危険と思しき部屋――それは隣の部屋、つまり囀子の部屋である。廊下からは襖一枚の和室。そっと着替えごと持って降りると、身体を拭き上げて新しい服に袖を通す。そしてドライヤーまで、きっちりやる。櫛で髪を整え、ヘアオイルを付け、ブローする。できるだけいつも通りのように、これがも『常識』である、という風に。

 ここまでたっぷり三十分。椥辻は怖くてやっぱり震えているけれど、ようやく狙っていた効果が発生し始めていた。一階部分に充満していた嫌な感じが薄くなっている。

「うん。こんなもんかな」

 髪は乾いた。

 異常識が蔓延した場所に、こちらの普通をぶつけること。それが椥辻の当初よりの戦略である。常識と常識は、ぶつかればどこかで端折られる部分が出てくる。どちらの常識もが奇跡的に折り合うこともないわけではないが、人を害するような異常識とこちらの常識はどこかで必ずぶつかる。そうなれば押し返すことはなくとも、力の拮抗が起こる。拮抗が起こるということはこちらにとって安全な圏内が大きくなることであり、同時に危険箇所の特定に役に立つ。想定していた形が綺麗に嵌っている。ということは、椥辻のすべきことはたった一つ。黎海山の指示した通り、この家の中にある異常識の媒体となる『何か』を囀子の部屋から引き上げる。それも、数はわからない。

 『何か』を引き上げる――。

 言葉にしてしまえば簡単だが、この工程がもっとも難しく、もっとも恐ろしい。今回は特に、その『何か』がどういうものかすらはっきりしていないのだ。ということはここから先はほとんど予備情報なしでその『何か』を特定し、持ち出さなければいけない。時間を掛ければ危険度は跳ね上がるから、素早く行わなければならない。とはいえ、幾つかわからない中の一つは、ほぼわかっている。

 腰に仕事道具を括り付けると、椥辻は腹を括った。


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