第8話
北大路にある、築年数で言えば百年以上の一軒家で、暑いとか寒いとか言いながら住んでいる。
この一軒家、今は一階部分が駐車場になっているが、元は店入りの――今風に言えばテナントの――長屋のようなものであった。居住部分の他は商業スペースで、賃貸として売り出す段になってようやく内装をやり直して、人が住める状態まで持っていったらしい。だから当然、夏は暑いし冬は寒い。そもそも京都は盆地のせいで夏は蒸し風呂、冬は底冷えである。となると住み良いとは決して言えないのだけれど、その分だけ二階部分の面積の広さと部屋数が多かった。よく言えば雑然として活気があった昔の京都らしく、悪く言えば中途半端に古風で現代にはそぐわない。
一階部分に水回りが集中して、二階部分はまるまる居住部分になっているものだから、そこそこ広い部屋が三部屋も使い放題である。となると、男と女、多感な時期の少女と成人後の少しばかりだらしない男性が住むとなっても、節度さえあれば十分可能である。一応夜にも内職をしている椥辻は、階段を上がった一番奥の洋室で籠もりきっており、その隣にある畳の和室が囀子の部屋になっていた。襖という薄い仕切りながらも、一応プライベートは保たれている――元の家での待遇を考えると、囀子はこの薄い襖一枚だけでも十分に幸福を感じることが出来ていた。
家計は二人で合わせて管理している。囀子も無駄遣いはしないし、椥辻も同じだ。というよりも、椥辻は本といくらかの酒くらいで、他に何も買わない。吝嗇家というのではなく、物欲がほとんど無いのだ。本の虫と言うほども本も買わない。まるで干からびたみたいに、ただ生きている。
二人のいつものスケジュールはこうだ。囀子が学校から帰ってくるまで椥辻は黎海山探偵事務所で働いている。囀子はバイトなりなんなりで少々遅くなるから、二人が家に帰るのは八時前後。それから椥辻が食事を準備して、囀子が食べる。洗い物が終われば囀子は自由時間になり、椥辻が風呂に入る。
家事の一切殆どは椥辻の担当だ。その間に囀子は本を読んだり洋裁をしたり宿題を片付けたり自分のショップページを更新したり、一言で言えば、学生らしい生活を満喫していた。学生らしい生活を満喫する、そんな言い方はなんだかおかしい気もするが、これまでの崩壊した家庭生活を思えば、満喫する、という言葉には偽りがなかった。同時に囀子は、本来ならば縁もゆかりも無い椥辻に対して、申し訳ないような、本当の親のように甘えたいような複雑な感情を抱いていた。さすがに申し訳ないと思った時には自分でなんでもやろうとするけれど、椥辻はいつも二つ返事に『いや、やっとくよ。囀子は遊んでおいで』と言ってしまうものだから、囀子も、やってくれる、と椥辻が言うことに対して特段抵抗もなく受け入れるようになっていった。大切に扱ってもらえる、そのことを受け入れることができる――この一年で囀子は様々変わったけれど、一番変わった部分を挙げろと言われれば、最も大きな変化はそこだったかもしれない。
だから今日だって、囀子は冷房の効いた部屋で新しいアイテムの試作をしていた。そろそろ夏も終わる――終わるのだろうかと首を傾げたくなるほど暑いけれど、秋に向けての新作に取り掛かっていたのである。線を引き、布を切り、型紙に当て――ベランダで床板が軋み、洗濯物を吊り下げていく音を聞きながら、安心して趣味に励んでいた。穏やかな気持で部屋に座っていられる、何かが起きても、そこにいる弟さんが守ってくれる。もしここでうつらうつらと眠ってしまったとしても、酷いことをされる心配はない。暑い中行った買い出しの疲れと、信頼から生まれる安堵のまどろみから、囀子の手は止まって椅子へと身体を預けて眠りについていた。
どこまでも穏やかな光景だった。古ぼけた一軒家でつましくも幸せに暮す一組の男女。不満がないことはないけれど、それも穏やかに過ごすから、気がつけば不満も消えて無くなっている。一緒に生活を相談して、一緒の方向に向かって歩く。ぼんやりとして愛嬌のある少しわがままな囀子と、リアリストながらも子供には甘い、世間離れした部分のある椥辻。奇妙な噛み合いでありながら、その生活は幸せで満ちていた。歪な者と歪な者が噛み合って、欠けた部分同士を慈しみ合っている。
だからそんな中眠る囀子の夢は幸せに決まっている。
そう、いつも通りなら、そのはずだった。
けれどその日だけは、黎海山探偵事務所に囀子が運び込まれるそのほんの数時間前だけは、その常識が違っていた。
囀子は気がつけば、暗い空間の中に居た。辺りには誰もいない。けれど足下にごつごつと当たる段ボールやプラスチックの角、そして埃っぽい匂い。背中にはさわさわと触れる衣類の袖があって、ようやく囀子は自分が物置かクロゼットの中にいるのだと気が付いた。熱気の籠もった暑い閉鎖空間――囀子の脳裏に映ったのは、前の家での光景だった。父の目から隠れるために、よく囀子は物置の隙間に入り込んで着替えをしていた。正面に一条の光の線がある、ということはここはクロゼットのようだ。
となると、囀子は首を傾げる。なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。その時だった。クロゼットの前から、鈍い音がした。ごん、となにかが床板に叩きつけられる音である。まるでボウリング玉でも叩きつけたみたいな異様な音が何度か響いて、流石のおっとり囀子も異常を感じた。動ける範囲も限られているから、まずはこの状況を窺ってみようとクロゼットの隙間から外を覗いてみる。そこにあったのは雑然とした子供部屋だった。左側の窓から、真っ赤な夕暮れがカーテンを貫いて照らしつけている。薄暗く反射するフローリングの上には何も敷かれていない。そこには子供用のおもちゃがいくつも転がっており、おもちゃ箱は見つからない。右手の奥には部屋の出口がある。開け放たれている――いや、違う。この扉は壊れているのだ。外側から破られて壊れている。急に目の前へと飛び込んで来た異常に、囀子は息を呑む。
そうだ、音のした方を見なければ。囀子は視線をゆっくりと動かす。クロゼットの隙間から、細い視界を体ごと動かして景色を探る。
かたかた、かたかた。囀子は自分の手元から聞こえる小さな音に気が付いて手元を一瞥した。するとその音の原因は、自分の手の震えだった。手元にはびっしょりとした汗が滴っている。囀子には、その理由がわからない。わからないから、音の原因を確認しようと更に身体を右へ右へとずらしていく。音の方角に向かって、視界を広げていく。絡みつくような粒子状の熱気が首に巻き付く。毛羽立ったカーペットの上に乗った黒いランドセル。使い込まれてボロボロだ。壊れた人形に、サッカーボール――。
サッカー、ボール?
公園に転がっていた、サッカーボール。
囀子はあのボールを、手に持って帰ってきた。だからボールの傷の位置も、名前を書いてあった白タイルの位置も憶えている。そこに転がっているボールは、紛れもなくそれだ。となると、囀子は余計にわからなくなる。先ほど聞こえた大きな音は、このボールが床にぶつかった音だったのだろうか。いや、そんなはずはない。先程聞こえた音はもっと水っぽくて、中身の詰まった、スイカを床に落としたみたいな音で――。
そこで、もう一度音がした。
同じ音だった。
どずん、ばくん、擬音にするなら、そういう音だ。混じって、消え入りそうな子供の声。
けれど、サッカーボールは、動かなかった。いや、少しだけ動いた。けれどそれはサッカーボールの左の床が動いたからで、サッカーボールが地面に叩きつけられたわけではない。
「――」
囀子は息を呑みながら、視界を再び左へずらしていく。振動はそちらからだ。
カーペットに、染みが広がっている。
始めの異常は、それだった。
赤黒い染みだ。じわり、じわりと広がっている。サッカーボールの足下まで、丸く広がっていく。
息が浅い、背中を這い上がる怖気が止まらない。熱気で蒸した額から、冷や汗がしたたっていく。震える手は口元に当てられた。音を立てないように、自分で覆ったのだ。やめればいいのに、囀子は更に覗き込んだ。それはただ好奇心や、目を離せなくなった恐懼から選択された消極的な結果ではない。
囀子は恐怖しながら、かつての自分が陥ったようなトラウマを刺激されるような光景を目にしながら、現在起こっている現象から当然推測される状況に思考を回していた。思考の反応速度が早い人間なら、脳から直接降りる命令に従って蹲って隠れてしまいそうになる状況でありながら――囀子はそれをしなかった。鈍感な人間にのみ許された、理不尽とも取れるような悠長な行動を選択した。
そう、つまり。
ここには、可哀想な子供がいるかも知れない。助けてあげないと。
そういう、少しズレた善良すぎる鈍感な判断をしたのである。だから囀子は観察を続けていた。視界を左へずらしていくと、子供の頭が見えた。床に叩きつけられていたのはこの子だ。
更に左には、誰かが立っている。子供用の勉強机の後ろの方に、誰かが立っている。大人の背丈だ。体型は太りがちで、腹が出ている。男か女かはわからない。ことここに来て、囀子は口を抑えていた手を離して、ぐっと握り込んで力を込めた。
そうしてあろうことか、クロゼットの扉を思い切り、自分の手で開け放った。
そして、呼んだのだ。
その少年の名前を。
「翔太くん! 今、助けるからね!」
めいっぱい、威嚇を込めて、思い切り、叫んで飛び出した。
クロゼットが開くと同時に、今まで闇に満ちていたクロゼットの中に赤い光が差し込んだ。埃に差し込んだ光が何条もの光の列となって格子状に囀子を照らす。大きな息を肺いっぱいに吸い込んで、覚悟を決める。囀子にとって、これは大きな賭けだった。囀子は御存知の通り、自分でも御存知するくらい、動きがトロい。すっトロいと言っても差し支えない。だから上手に逃げおおせる、そんなこと出来っこないのだ。でも、それでも、これが蛮勇で、匹夫の勇だとしても、眼の前で子供が大怪我を負っているのに黙っているなんて出来ない。
だから賭ける。
大声を上げて、威嚇して、なんとか翔太くんを抱き留めて、外にでも運び出せば――夕方なら人通りだってあるのだ。そこまで行ければ後はなんとでもなるはず!
苦肉の策だ。けれど肉体的に劣っていると自覚する囀子と、それでも諦められない精神。アンビバレントに陥った囀子はもっともわがままな道を選んだ。リスクを排しても排しても排しきれない不可能状況においては、最終的にはもっとも勝率が低そうな行動が勝つ――そんなことを最近何かの本で読んだから、そのまま使う。
クロゼットのレールを跨いで踏み出す。第一歩。誰も動いていない。まだあの音から実時間にして十秒も経っていない。こちらには来ていない。だから今のうちに――。
「捕まえた」
「え?」
そう、確かめて出たはずなのに。
囀子の腕は、既に握り込まれていた。大きな男の手だ。分厚く垂れた脂肪が二の腕の下から液垂れのように垂れている。これはおかしい――そんな風に思う暇もなく、囀子の身体はぐいと引き込まれて体勢を崩した。掴まれた肘の辺りが痛む。そのまま前転するみたいに転がって、頭からフローリングに打ち付けられて視界が白黒した。
痛い、痛い、けれど、それどころではない。なんとか体勢を動けるまで身を捩って、身体を起こす。
視界の先に居たのは、薄暗い部屋の中に立つ、だらしない身体をした男だった。ほとんど裸みたいな身なりで、弛んだ表情の筋肉にごわついた髪、よだれを垂らしながら泡を吹くように呼吸しており、ぬめぬめした液が瞳に張り付いている。それが徐々に囀子へと歩みを進めて、近付いてきている。
「ふーっ、ふーっ」
囀子の脳裏には、恐ろしい男の姿が焼き付いていた。
がちがちがちがち。
公園で聞いた、あの蜂の羽音がする。
部屋の中に、蜂が飛んでいる。頭の上を、飛んでいる。
いっぱいの蜂が、飛んでいる。
がちがちがちがち、がちがちがちがち。
「なんでこんなところで隠れてるんだァ? 悪い子は、なあ、お仕置きするって、言ったよなあ」
――。
何を言っているのだろう。囀子はこんな男と面識がない。だのにまるで、この男は親しげに、それこそ子供をいびる親のように、詰め寄ってくる。
逃げないと、翔太くんを連れて逃げないと!
震える手足を緩慢に動かして、なんとか振り返る。そうだ、私がクロゼットを飛び出した理由は、この男の子を助けるためだ。一秒も早く、この子を助けてあげるためだ。
だからこんな男の相手をしている場合ではない。脇をすり抜けて、すぐに廊下に出て玄関へ、少なくとも大声を上げて誰かに気が付いてもらわないと、シンタロウが――。
「――?」
シンタロウ――?
シンタロウ?
誰?
浮かんだ疑問を胸に浮かべたまま、囀子は振り返って倒れている少年を抱き上げようと手を伸ばした。視界の端を滑るように赤黒い境界線が伸びていく。赤い染みはどこまでも続いているのだ。その分いっぱい血が出ているのだ。一秒でも、一瞬でも早くお医者さんに見せないと、シンタロウが、危ない。
視界がシンタロウを捉える。生えかかってきた髪に、少しだけ生えた乳歯。よだれかけが何枚もかかっている。ボロボロになったよだれかけは、自分のお下がりだ。そうだ、シンタロウは良くこんな風にされていた。何度も、何度も、同じように。
そうだ、だから僕は、今日、この時、助けようとしたのだ。
お父さんが、シンタロウに暴力を振るった後は、煙草を吸いに外に出るから。
その時にそっとシンタロウを抱えて、お家の外に出て、誰かに助けてもらうんだ。
だのに、今日だけは、どうしてまだ、お父さんがいるんだ。
どうして僕は、探されて、引きずり出されたんだ。
こうなったら、シンタロウを抱えて、すぐに玄関に逃げないと。
「なに、これ」
囀子の眼の前にいた子供は、死んでいた。頭蓋骨が割れている。瞼は開ききって、乾いている。
ああ、死んでいる。ひと目見て、死んでいると、すぐにわかる。後頭部から流れている血が止まっている。
手で子供を抱えようとする。ほとんど新生児と変わらないくらいの大きさだ。だから簡単に持ち上げて、今からでも外に持っていけば、ひょっとしたら、万が一、蘇生が間に合うかもしれない。
なのにその身体は、鉛のように重かった。持ち上げられないことはないが、余りにも新生児にしては重たすぎる。だから囀子はその身体を上手に支えることが出来ない。おかしい、そんなことあるはずが、どうして。
囀子は自分の身体がおかしいのかと自分の手を眺める。
そこでようやく気が付いた。
囀子の身体は、小さくなっているのだ。まるで小学生くらいの子供まで、縮みきっている。だから赤ちゃんでさえ重たく感じる。なぜ、どうして。そんな疑問が解決する間もなく、背後から聞こえてくるのはあの男の声だ。
「出てくるなって言っただろ!!!!!!!! このゴミがッ!!!!!」
「わあっ」
背後から怒鳴りつけられた囀子は、もう限界を迎えていた。表情は崩れ、恐怖で足は竦み、怖くて涙が零れた。動けない、この子を連れて逃げられない。自分だけでも、でも、そんなこと言っても足が動かなくて、あ、あ、あ。
助けて、助けて、助けて――。
頭を抱えて、背後で何かが動く音がした。
なんとなく、その動きが完了したら、死ぬ気がした。
だからせめて、なんとか、この子だけでも――。
囀子は赤ん坊の、シンタロウの死体に手を伸ばす。
瞳の乾いた、動かない赤ん坊の死体。
手を伸ばした瞬間だった。
えへ。
赤ん坊の声がした。嬉しそうな声だった。乾いた瞳が、ひっくり返した三日月みたいに歪んだ。割れた頭蓋の首がぐりんと捻れて、こちらを見た。
囀子の体は、恐怖で完全に動かなくなった。伸ばした手も氷が張り付いたように停止して、もはや用を為さない体だけがそこにある。
背後から勢いよく何かが落ちてくる気配と共に、笑う赤ん坊が囀子の手首を握った。
えへへ。
無邪気な、赤子。
そのはずなのに、どうして、こんなにも、禍々し――。
その子供は、気が付けば大量の蜂になっていた。蜂が玉のように集まって、新生児の形になって蠢いている。
がちがちがちがち、がちがちがちがち、がちがちがちがち。
あの音が、聞こえる。蜂の羽音にしては異なる音。あの羽音。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああ――」
囀子の手首には、大量の蜂が這い登る。
そして、一斉にその針を、突き刺した。
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