第7話
だれですか?
「囀子――ッ!」
ぼやけた視界が徐々に像を結んだ時、囀子の目の前にあったのは、見慣れた
「おとうと、さん……ちょっと、いたい、です」
「囀子、目が覚めたか! 良かった、痛いのか? 大丈夫か? 気を失ってたみたいだ、病院、今からすぐ行こう! まだ開いてるはずだし、開いてなくても開けさせる! 絶対大丈夫だからな!」
「おとうと、さん。ちがくて、いたい……! あの、わたしのこと握ってる手が、痛くて」
早とちりで空回りしそうな椥辻を見かねて、囀子は一つ無理やり微笑んだ。そこでようやく椥辻ははっとしたように手を緩め、同時に身体が弛緩してため息が漏れた。すぐに手は緩んだが、囀子の手首には赤々と痕がついてしまっていた。あー、と少し呻いた椥辻は首を傾げてバツが悪そうに謝った。
「ごめん囀子、痛かったな。でも、意識は割とはっきりしてるのか」
「はい。さいきん、おつきさまのひで。ちょっと貧血だっただけなんです――ごめんなさい、心配しましたよね」
おつきさまのひ――お月様の日。聞き慣れない単語ではあったが、流石に椥辻も二十六歳ともあればなんの隠語か当て所が付く。つまりそれは、生理のことだろう。となると、なんとも恥ずかしいことを言わせてしまったことになる。今囀子の裸を抱いている状況でありながら、椥辻はそちらの方に羞恥を持っていかれていた。
「うおっ、それはごめん、ノンデリだったか? でもちょっと気を失うのは心配だ。本当に病院行かなくて大丈夫か? タクシーも呼ぶし、すぐわかるからさ」
その心配性な性格と過保護な対応が、少し囀子を躊躇わせていることを椥辻は気付かない。囀子の意識が徐々にクリアになる度に、裸を見られているという羞恥を彼女が自覚し始めているのを、気付いていない。彼女の長い睫毛から、潤んだ雫が溢れていることに気が付いていない。だからそっと伸ばされた彼女の手が椥辻の胸に触れた時、その手が心臓を直接触れたようにびくりと震えた。
「あの、おとうとさん――」
「えっ」
その瞳に埒外なほど驚いたのは椥辻である。心臓がどくん、となり、露わになった肢体の芸術が眼前に広がる。浴場のほの明るい光が、その淫靡さを余計に引き立たせて唾を飲む。今更椥辻の方も緊急事態のアドレナリンが切れてきたというのに、また別のアドレナリンが椥辻の背筋と腰を貫いた。
「その、あんまり、まじまじみないでください……そんなに、綺麗な身体じゃないし――」
「えっ、いや、綺麗だ。すごく綺麗だよ。囀子、その、もともと可愛い囀子なのに水が滴ってて、天使様みたいに、清廉な感じが、こう、芸術的っていうか――」
蠱惑的、というか。と言いかけて、流石に椥辻も気付く。必要ないほど精確に言って気付く。
……しまった。返答を間違えた。
正解は沈黙してすぐに風呂場から引き上げることだったのだが、残念ながら気が付いた時にはもう遅い。囀子の顔は耳まで真っ赤になり、彼女の手には黄色い桶が握られていた。
「もう! ばか! おとうとさんだからって、囀子の裸じっと見ちゃダメーッ!」
かぽん――。
可哀想に、額を桶で叩きつけられて椥辻は文字通り風呂場から転がり出た。正直者は馬鹿を見るとはこのことである。骨折り損の――と、思いかけて、椥辻はもう一度瞼を閉じてため息をつく。いや、これで良かったのだ。このまま気絶したままでは、彼女がもっと酷いことになっていたかもしれない。その未来を避けられたのだからそれでいい。あとついでに、やっぱりいいものはいい。眼福。
「囀子――ごちそうさ」
「聞こえてますう!」
風呂の蛇腹戸が素早く開き、飛んできた二度目の桶を食らった時、椥辻は隙間から覗く肌色に宇宙を感じていた。藁屋に名馬繋ぎたるがよしとは室町時代の茶人、
「――今日のお味噌汁、ちょっとしょっぱいです」
長い髪をタオルで巻き付けたまま食卓に正座で座ってしゅんとする囀子に、椥辻を横に首を振った。
「あー、それか。ごめん、囀子のことに気を取られて火を消すの忘れてた、それで吹きこぼれてたみたいだ。ごめんだけど、勿体ないから飲んでくれよ」
暫くして風呂から上がった囀子は、くせ毛が濡れて濡れ鼠のようになった椥辻の姿を見て少し反省した。
ああなったのは、自分のせいなのである。たとえ自分には制御不可能な突発的なものだったとしても、それでも、やっぱりこの人には関係ないのだから。そう、私一人の問題なのだ。だから、いつもこの人には迷惑ばかり――。
となると、必要以上に萎れてしまう部分もあり。
「はい……ごめんなさい。わたしがわるいですから、気にしないでください、おとうとさん――」
「そんなシュンとしなくてもいいって。それよりごめんな、生まれきってデリカシーってやつとは疎遠で、あんまり年下の扱いがわかんなくてな。知っての通り、妹とかはいなかったからさ。なんて一緒に暮らして二年目目前にして言うことでもないか。いやー、ごめん、汗顔の至りってやつだ。さ、食おう。食べ終わったらアイスもきっと凍ってるから、それで機嫌直してくれよ」
「……」
囀子は心の中で、ざわっとした。言い得ない茫洋とした感覚で、なにかを思った。
この人が――だったら、良かったのにな。
がちがちがちがちがち――。
「美味しいです。大丈夫――その、おとうとさんの、おりょうり、大好きですから」
「そー言ってもらえると助かる。やっぱこういうのって、なんだかんだ女の子の方が繊細だったりするからなあ。囀子の手つきみてると、なんで料理できないのか不思議になるぜ。俺のやってることと言えば適当にバラバラにしてるだけなんだから、囀子の裁縫の手つきの方がよっぽど難しいことしてるよ。見てると溜息出るくらいだ。羨ましいなって」
「お料理は、火の加減がと時間が難しくて。毎回焦げちゃったり半生だったりするし、塩と洗剤間違えたりもするし……」
「まあ、そうだな。信じられないが本当に塩と洗剤間違えたりするもんな……目の前でやられた時は『あっ隠し味になんか入れるのかな~』って風に見てたらぶくぶく泡が立って来て邪神でも呼び出す儀式みたいな見た目になってたもんな」
「そうなんですよね……困ります。実際あの邪神、帰ってもらうのは大変でした。んむんむ。でも、美味しいですよ」
「そーだな。二度と出てきてほしくない。ならいいんだけど」
「となると、やっぱりご飯はおとうとさんに作ってもらうしかありませんね」
「そうだな……ところで邪神ってなに? 話合わせちゃった手前アレなんだけど、俺はその邪神見てないんだけど」
「なんなんでしょうね……邪神って……」
「なんなんだ! めっちゃ気になるだろうが! 言えよ!」
「私もそれについては、語る言葉を持ち合わせません……」
「持ち合わせてくれよ。俺は一回話を合わせたんだぞ、存在しない話を」
「ふふふっ……おとうとさんの、そういうとこ、囀子好きだなあ」
囀子は長いまつ毛をしばたたかせながらくすくすと笑った。話を料理に戻すと、彼女としてもなぜそんなことをしているのか、本気でわかっていないのだ。俗に言う天然生物なところがあるのだが、終わってみると本人も驚愕しているので感触的には
「まあでもとりあえず、天は二物を与えず、だな。でも、その代わりピカイチの才があるのは俺みたいな凡夫には羨ましいよ、はいアイス」
美人で可愛く聡明で、ちょっとウブで愛らしい囀子である。それだけで二物も三物も持っている。けれど見ただけでわかるくらいの彼女の輝かしさとは別に、もう一つ、彼女には明確な才能がある。
「ありがとうございます! 食べたかったんです。んんーっ! ビニール切れません」
椥辻は差し出されたビニールを逆側から切って、いびつな形に凍結したアイスバーを差し出した。
「はいはい、どうぞ」
「わーい! いただきます!」
細く長く、美しい指。傷一つないのが本当に不思議だ。こう見えても、彼女は毎日帰ってきてから一心に針や鋏を使って針仕事をしているのだ。同じことを椥辻が真似したら、一夜にして手は絆創膏まみれになるだろうことを、彼女は一切手指を傷つけず、繊細にこなしてみせる。
「そういえば秋口に見せるとか言ってたドレス、どうなったんだ? もう発表はしたんだろ?」
「ひゃい。もぐ、えっと、普段よりも結構いい評価かな、って思ってます。でも肝心なのは、まだ暑すぎるってことですかね」
「それはそうだ。でも評価されてるみたいで良かった」
そう、何を隠そう彼女の燦然と輝く才能とは、洋裁の腕だ。実際その手腕は、椥辻が人生の中で見てきた誰よりも秀でて随一である。彼女は手持ち無沙汰に適当な端切れを貰ってきては自分の身体に合う趣味のいいパッチワークのワンピースを作ったり、人形に変わった風合いの服を着せてやったり人形自体にまつ毛を移植したりと、本当にその筋の職人なのではないかと勘違いする程に卓越した技術を持っている。
椥辻が彼女にプレゼントした簡素なホームページは、まだ設置して一年と立たないのにいくつかのアイテムがかなりの評判を得ている。半年前には有名なブランドから囀子の作ったグローヴのデザインに対してオファーが来ていたけれど、その頃の囀子はまだ踏み出す気になれず、結局断ってしまった。だが、それでも彼女の才能は輝かしいことに変わりはないし、実際そのセンスが一般のそれから大きく卓越している証明になっている。
「こんなに見てもらえるようになるとは思いませんでした。囀子、すごく感謝してるんです」
「感謝されるほどたいそうなことはしてない。囀子の努力と才能が見て貰えてる一番の理由だよ。俺には同じことは絶対できないね」
彼女の作品には意図的に黄金比を歪めたような――歪めているのに整っているというような、不思議な調和がある。観察するにそこに魔力があって、椥辻のような凡夫を以てしても魔力を可視化することが出来る。それがすごい。全ての人に似た印象を与えることが出来る作品――それは名作だ。見せるべき場所を見せ、そうでない場所が隠れている。メリハリとは微に入り細を穿った中でしか生まれないのだから。そしてそれを誰に指導されずとも心得ている存在、それを天才と言わずしてなんと言うのだろう。
だから椥辻は、なんとか彼女の才能を伸ばしてやりたいと常々思っている。なにも言わないままでそれに夢中になる余り、彼女はやっぱりお風呂を疎かにしてしまうのだが。――そしてそれが椥辻にとっては頭の痛いところでもあるのだが、天才というのは得てしてそういうものなのかもしれないな、と凡夫なりに納得している部分でもあった。
つつい、と彼女は麦茶を傾けて喉を潤すと口を開いた。
「まあ、そんなこと……。でもおとうとさんは、今まで会った人の中で一番優しいですよ」
卑屈に取られてしまったのだろうか、囀子は手心で椥辻に慰めを送る。しかしながらそれは、凡人には痛すぎる、冷たい天才の施しでもあった。
「優しいってやつは、言うことがない時に最後の逃げ道として言うものだよ」
だから椥辻が何気なく流そうしたその言葉は、卑屈に変わって捻れてしまった。けれど一度口に出した言葉など、飲み込めるはずもなく。
「そうですね。私もそう思います」
……のみならず肯定された。自覚している分凹みはしないが、少しばかり空しくはある。
「でも、おとうとさんについては逃げ道じゃなくて、まっすぐそうだとおもいます。親でも兄弟でもないのに、わたしを守るために必死になってくれる人なんて、今まで会ったこともなかったですから」
となると、囀子は捻じれを直す。直そうとするのではなく、捻れてしまった造形が気持ち悪くて。
「たまたまだよ。囀子が縁故のある身内じゃなくて完全な他人だったら、話しを聞きすらしなかったかもしれない」
「ですけど現実、おとうとさんは助けてくれました。何回も」
「……ごめん。悪いとこが出た。じゃあ、褒めとしてちゃんと受け取っとく」
美学と卑屈のぶつかりあいは、卑屈が折れる形で決着した。囀子は優しく微笑んで、手を合わせると食事の終わりを告げた。椥辻もそれに倣って、食事は終わった。
「囀子、そうだ。ほんとに、身体は大丈夫か? あの後苦しくなったりとかしてないか?」
「大丈夫です――ほら、この通り」
囀子は自分の手を椥辻に握らせると、囀子の額にぴたりとつけた。
いつも通り、囀子の平熱はものすごく熱かった。
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