第6話

 波羅場囀子はらばてんこ、十六歳。高校二年生。身長は百八十と、三センチ。体重は乙女の秘密。得意教科は数学IIと漢文古文、嫌いな教科は生物と体育。虫と運動が嫌いなのである。好きな本は『地下室の手記』。好きな映画は『時計じかけのオレンジ』。好きな音楽はポリスの『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』。そんなちょっと内面パンクに憧れるだけの彼女は、私立紫明路しめいじ高校に通う特待生。一応評判としては、折り紙付きの模範生徒である。

 折り紙付きの模範生徒――というと少しお硬いイメージを持つかもしれないが、彼女の人気は教師だけではない。友人は多く、一般的に評価して愛されていると言えるだろう。

 当然その人気は、性格や模範生徒であるからというだけではなく、プラスして見た目という最強の武器がある。彼女はその昔から、最初に写真を撮られたその瞬間から美人だった。

 長い黒髪に垂れ目なおっとりとした雰囲気の瞳に、長く伸びた足、高身長特有の腰の高さ、体型もかなり女性的な膨らみに満ちて、わがままを体言したような女性であった。

だから彼女よりも制服を着こなしている人間は、私立紫明路高校にはいないのだが、同時にサイズも特注でしかなかった。

 性格に関して言えば、頭もいいのにほんの少しだけ抜けているという天性の愛され気質で、基本的に女子同士なら可愛がられて羨まれ恨まれ、男子生徒からは分け隔てない性格から夢を持たれがちなところも含めて、彼女は完璧だった。

 ただ、光あるところには必ず闇がある――とそのように思うのは人間の悪い点である。ただ、彼女に興味を持った人は、ひとり残らずその奇妙さに首を傾げたことがあるのも事実だ。

 彼女には、高校生にしてはやたら奇妙な点があった。私生活が、全く謎なのである。これだけ派手であれば友達と毎日部活とかカラオケとか勉強会とか外々忙しそうなものなのだが、彼女はそういう交流が一切無かった。

 見る人が見ればその制服スカートがきっちり三度傾くように改造されているのがわかるだろうし、勘の良い人ならば、彼女から漂う大人すぎるコーヒー豆の香りから、校則違反のアルバイトを行っているのがわかるだろう。だが彼女がそう思われこそすれ探りを入れられないのは、わかりやすい理由があった。探りようもない、物理的な理由があった。

 何を隠そう、彼女は放課後になるとまっすぐと家へ帰ってしまうのだ。部活もしていない、友人と待ち合わせて遅くまで残ることもない、遊びも断ってしまう彼女のことなど誰も知るはずがなく――教師もまた、彼女の成績がいいことから何も言わなかった。となると、彼女は早々にアンタッチャブルになった。人は余りにもミステリアスになりすぎると、敢えてそれを探ってはいけないというような空気感を勝手に感じて、それ以上探りを入れなくなってしまう。普通の人間なら、そんな火傷するかもしれない危険な開拓をするよりも、程々に脇の甘い人間を探るのに必死になってしまうのである。

 だから、同級生は誰も知らない。

 彼女が学校の近くの小さな一軒家で、十も歳の離れたアラサーの男と一人暮らしをしていることを。

 そして、その十も歳の離れたアラサーの男を、親しげに『おとうとさん』と呼んでいることを。その呼び方が、正しいということを。

 その弟に、学園のアイドルとも言えそうなミステリアスな美人が、特別すぎる感情と関係を持っていることを。

「ただいま、囀子。おっと」

 がたん、と建付けの悪い戸が開いた。

 椥辻が玄関戸を開いて、コンクリ打ちっぱなしの玄関に踏み込んだ時、囀子は買い物袋の群れの中で立っていた。買い出しが随分暑かったのだろう、火照った額には、珠のような汗が浮いている。薄手のワンピースを着ていた彼女だから、それがぴったりと張り付いて、下着のラインが浮いている。目線に困るも、外す場所がない。さてどこに目を遣る――

「おかえりなさい! おとうとさん、アイス、食べますか?」

 と、指摘する暇も視線を外す暇もなく、元気よくおとうとを迎え入れた彼女は、ぱたぱたと子犬のような足音で近寄ってきた。とはいえ椥辻よりもずっと大きな彼女である。思い切り見下ろすような影が椥辻から光源を奪って、囀子のが視界いっぱいに広がった。彼女はすぐに、袋入りの温い液体を差し出した。袋にはソーダバー、と書かれているが完全に溶けている。棒以外が全て液体になっており、囀子の持っている部分は完全に浮いていた。青白いパッケージの向こう側からは、ちゃぷちゃぷという音が聞こえてくる。

「囀子。でも、これ」

「ぇあっ!? どうしてっ、あっそういえばさっきの公園でも同じことしちゃったんだった……!」

 差し出した瞬間に気が付いたのだろう、囀子の表情は電流でも走ったように強張っていた。彼女はその場で百八十度回転すると、すぐに買い物袋の中身を漁って、ああでもないとかこうでもないとか呟くと、やがてがっくりと首を垂れた。

「そうでした……今日、お家に帰ってくるまでにちょっと時間がかかりすぎて、溶けちゃったんでした。おとうとさん、ごめんなさい。もうアイスは食べられません。囀子のせいで……悪い子なので、お仕置きしてください」

 彼女自身も楽しみにしていたのだろう、予想以上の落ち込み方だ。一頻り落ち込んだ彼女はゆらゆら立ち上がると、ごめんなさい、という気持ちを前面に出して困った顔をした。なんというか、お仕置きは甘んじます、と目で訴える子犬みたいな顔だ。

「そっか。いや、全然いいよ。買い出しありがとう囀子。っていうかなんだお仕置きって。そんなのしたことないぞ」

「いつもの、しなくていいんですか?」

「えっそんなことしたことあったっけ」

 したことなかったっけ、したことなかったよな――? まるで通例の光景のように言われると、ちょっと不安になる。真意を探るように視線を彼女の瞳に向けるが、彼女はそのまま恥ずかしそうにそっぽを向く。

「やめろ囀子、視線を外すな。まるで僕が悪いことをしてるみたいじゃないか」

「あっ、これは、あの、お仕置きして、とかじゃないですからね。お仕置きしたかったらしてね、っていうそれくらいのことですから!」

「……どれくらいのことだよ。それに、こっちが選ばされるタイプのお仕置きは新しすぎるだろ。これじゃまるで本当にお仕置きしたとして、囀子に頼まれてお仕置きしてるみたいじゃないか。そうなるとお仕置きするっていうか、お仕置きさせられるっていうどっちが命令してるのかわからない状況になるだろ!」

「囀子にお願いされてお仕置きさせられたい――!? そんな、破廉恥ですよおとうとさん、でも、それがしたいってお願いするなら、囀子、いいですよ……ごくっ良いですか、聞いて下さいね! あなたは私にお仕置きさせられてください!」

 スカートの裾がふわり、と揺れた。上気した表情で腕を引いて、恥ずかしそうに告げる囀子。何かを勘違いしてるのか、暑さで頭が茹だっているのかわからないが、ともかく彼女はなんだか変な勘違いをしているようだ。下着が透けていることも気が付いていないせいで、視界の暴力とも言えるような艶美な光景が目の前に飛び込んでくる。はっきり言って、理性に悪すぎる。こんなの同級生にいたら十中八九勘違いしているだろう――。

「待て待て、そうなるともはや、囀子にお仕置きするっていうか、僕が囀子にお仕置きしてってお願いされてからお仕置きしたいものすごい変態野郎になるんじゃないか――?」

 心外極まる、と椥辻は言ってみたものの、囀子は今度は全然揺れなかった。揺れているのは、体裁を気にする椥辻の方ばかりだ。

「違うんですか? お・と・う・と・さん」

「溜めを駆使してセクシーさを表現してくるんじゃねえ! それにもう、囀子楽しんでるだろお前! ……そんな風紀を乱す悪い子には、お仕置きだ!」

「あっだめぇ! そんな、激しいっまだあせくさいから、お風呂に入ってから――」

 どう聞いたって、この台詞では淫靡な光景を思い浮かべるだろう、汗だくのまま男女が組んず解れつ部屋の中ですることと言えば、痴話喧嘩か殺し合いかエロいことの三択である。そんな中、椥辻の狙いは全く別のところにあった。それも答えは既に出ている。

「激しいだろうな! 当然だ、お前がこんな風に誘ってきたんだから、仕方ないだろ! 激しくしても、文句言うなよ!」

 上がり框を勢いよく踏んだ椥辻は、彼女の身体を強く抱き締めて、そのまま叩き込んだ。

 ――脱衣所に。

 囀子のワンピースは、まるでマリリン・モンローの白いドレスみたいにくるくる回りながら吹き上がると、脱衣所に入り込んだところで扉はバタンと閉められた。囀子が意図せず放ったそのテンプレート、椥辻の狙いはその通りだった。

「あたっ、そ、そんな……おとうとさん、酷いですっ! 本当に私にお風呂へ入れって、言うんですかぁ!? この人でなし!」

「あのなあ、風呂に入らせるってだけで人でなしとは心外な。これがお仕置きだ、囀子。お風呂に入りなさい!」

 子犬がお風呂を嫌がるみたいに、囀子はドアをどんどんと叩きつけるが、椥辻に開ける気はない。これはお仕置きである。お仕置きとは、嫌がることをするものなのだ。そして囀子はお風呂が大嫌いなのだ。自分で伸ばした長い髪を洗うのが面倒だからって、いつもお風呂に入る前に一悶着起こして不機嫌そうに蹲っている。結局、入ったり入らなかったりで朝を迎えるのだが、あまり良いことではない。よって、今日は一番風呂に叩き込むことでお仕置きとする。風呂嫌いの女の子をお風呂にぶちこむ――名付けて風呂責めである。

 よって初めてのお仕置き、ここに達成。

「うーっわん! うーっわんっ!」

「泣き真似じゃなくて犬の鳴き真似になってるぞ囀子、プライドと人の姿を捨ててまで嫌なのか……?」

 とはいえ、流石の囀子ももう反抗に疲れたのだろう、次第に勢いは弱くなり、結局認めるに至った。

「やだよーっ! お風呂ヤダーッ! でもおとうとさんが言うなら……入ります……お仕置きだから……」

「うん。そうしろ。それに、そんなスケスケで居られたらこっちも目のやり場に困るだろ。お風呂上がったらご飯食べられるようにしといてやるから」

「スケスケだから、スケベな気持ちになっちゃいますか?」

 ……脳内桃色のアホがよ。とため息一つ。

「やれやれ、こちとら無精毎日洗濯をさせていただいております。囀子が毎日どの下着付けてたのかも知ってんだ。それに姉見てエロい気分になる弟はいねえよ」

 ……血縁も何もない、姉ともギリギリ言えない――義理の姉だが。

「でも、実際に着てる下着と未着用の下着では違いますよう」

「うら若き乙女が変態親父みたいなことを言うな。はいはい、むっつりスケベなのは囀子の方だってことがよく分かった」

「違います。キッチリドスケベです」

「几帳面な上にドの付くスケベ!?」

「任せてください!」

「何をだよ! いいから風呂に入りなさい!」

 ドアの向こうで衣擦れの音が聞こえて、椥辻は一歩下がった。その軋みの音を聞いてか、囀子の声が返ってきた。

「おとうとさん、あの」

「なんだ?」

「いつも、ありがとうございます。もう、ここに来て約束の一年が経ったから。お風呂、入ります!」

「あ、ああ――気にしなくていいぞ。囀子。これからも一緒にいよう。実は結構助かってんだ。だから契約更新でいいよ」

「……嬉しいです。私も、おとうとさんがいてくれて良かった。できるだけ早く、なんとかしますね」

「なんとかって、まあ、別にゆっくりでいいよ。ちゃんと大人になってからでもいい。本当に迷惑はしてないんだ」

 なんだか釈然としないまま、椥辻は放置されたまま砂糖水になったアイスや食材を冷蔵庫に詰め込んだ。そして夕飯の支度に取り掛かる。様々準備があるものの、まあ概ね簡単な食事しか作る気がない椥辻にとっては、どれも同じだ。出汁を取って、適当に具材を突っ込んで煮込むだけ。後は米を炊飯器に叩き込むだけ。三十分もあれば、夕飯は完成する――した。

 したせいで、椥辻は恐ろしい違和感を抱えていた。

「あれ?」

 それは、シャワーの音だった。流れ続けている。囀子が、、お風呂に入っている。

 三十分のお風呂、それは並の人間なら違和感はないだろう。年頃の女の子なら二時間近くもお風呂に入っていてもおかしくないが、しかし囀子は違う。彼女は精々長くて二十分、早ければ十五分で風呂から上がってくる。烏の行水もいいとこなのである。比較的珍しい女の子なのである。その女の子が、三十分も、お風呂に入っている。

 それはもはや異常と言っても良い。少なくとも、心配するには値した。だから椥辻はすぐに脱衣所に向かって扉をノックした。

「なあ、囀子! 寝てるのか?」

 返事はない。ただシャワーから流れ続ける水の音だけが延々と響き続けている。

「――! 囀子!」

 椥辻はすぐにドアを開けて脱衣所に囀子がいないことを確認すると、風呂場の蛇腹戸を押し開けた。

 するとそこには、横たわる囀子の裸体があった。身体を洗っている途中に気を失ったのか、排水口は身体で塞がれている。溜まった水が横たわった口元の半分くらいまで達そうとしている。

「囀子、しっかりしろ!」

 抱き上げた身体は暑かった。張りのある肌は吸い付くように椥辻の指にしっとりと食い込む。詰まっていた排水口が流れ、渦を巻いて飛沫が消える。

「起きろ! 囀子――!」

 キッチンで鍋が吹きこぼれ、ブザーが鳴った。

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