第5話
時は少し戻って、夏の、よくある光景の話。
人通りのまばらになった新町通をとぼとぼ歩いているこの少女の名は、
褪せてパステルになったジーンズ地をつなぎ合わせてワンピースにして、白いツバ付き帽を被っている。黒い髪にぱっちりと映える瞳は、日本人には珍しくもやや青い錆のような複雑な陰影の瞳孔が揺れている。本人としては髪を染めたいと思っているのだが、校則が許してくれないので長い黒髪を持て余して風に揺らしている。
夕暮れ時に差し掛かろうかというこの時間は、新町通でもっとも人の多い時間だ。同じ年頃の学生たちが、或いは同じく買い出しに向かう人達が、めいめいどこぞへと向かって歩いており、囀子もその流れに沿って歩いていた。
そうなると、幾度となくこの道を行き交っている囀子にとっては顔なじみの人間もいるわけであるが、そういう何気ない統一感というのが、囀子にとっては一番落ち着く環境だった。名前も知らない人とちょっとだけ交わって、ちょっとだけ知っている、肩を触れ合うか触れ合わないかくらいの幸せ――そういうちょっとした素朴さを、囀子は愛していた。
「今日は……ちょっとだけピーマンが安かった。帰ったらおとうとさんの羽織り、繕ってあげないと……あと、宿題も片付けないと、ふわあ」
今日のチラシを丸暗記している囀子の三日月模様の瞳孔は、下向きに揺れる。水面に浮いた月みたいにふらついた瞳孔は、考えるように今度は左上に向かって、囀子は考え事の中に吸い込まれていった。
この通りを真っ直ぐ行くと市役所に着く、そんな通りに行き合って右向きに曲がると北大路通に着いた。ここまで来ると有象無象の人々が多くなって、さしもの囀子でもわからない顔が増えてくる。人波はみな左から歩いてくる。あちらには主要駅であるところの京都地下鉄東西線、北大路駅があるからだ。みんな自分の家へ帰るために歩いてきたのだろう。そうなると、電車の時間と噛み合ったのかも……と囀子は思いつく。時刻は五時を回っている――ぴったり五時の電車があったはずだ――ということはその人達だと、当然想像する。
最初は列の先頭に立っていた囀子だが、献立を考えているうちに気がつけば最後尾に下がっている。囀子は歩くのが遅い、走るのも遅い。というか、運動が全般的に不得意であった。手先の器用さは全国区で見ても卓越しているが、運動だけはどうも駄目なのである。野球の授業では、全部の球にバットは当たるのに前には飛ばないという、余りにも不憫で奇怪な現象に苛まれ、バレーボールではブロックが成功したのに身体が後ろ向きに吹き飛んで保健室行きなどという目に余る貧弱ぶりである。ただ、特筆すべき点もあった。運動音痴にとって最も辛い体育科目といえば持久走、とかなりの割合の人間が答えるだろうが、囀子にとっては、この科目が得意というよりも、
だから普段は自分から考え事と混沌の海に飛び込んで行って、その間に諸用を終わらせている。その為この通り、青椒肉絲でも作ろうかな、と献立を考えながら、献立と関係のない人参とたまねぎを手癖で買っている。そうやってぼーっと買い物をして、レジまで並んで、ようやく思い出す。
「わわっ、すみません!」
直前で列を抜けてもう一度店内を回って、ようやく買えて、帰り道に着く。帰り道に着くと、またぼーっとする。反省はするが、考え事は尽きない。そうやって帰り道に着くと、駅からの人流が多くて、飲まれる。なので左に一本入って小径を進むことにする。ゆっくりと歩いて帰る。帰りが遅いので弟には毎日心配されるが、大丈夫、買い物くらい出来る。というのが、囀子の姉なりのプライドである。
プライドというには小さなハードルで、上手に飛び越えられるものを選んでいるけれど。自分がジャンプするのが不得意なのを知っているから、ハードルもやっぱり低いけれど。それでも跳んでいる。クリアする方がずっと大事。
ふらふら、ふらふら。
左右の袋でヤジロベエみたいにバランスを取りながら、ゆっくりと進んでいく。額から汗が伝う。今日はやけに夕焼けが赤い。街が焼けてるみたいだ。
それが大気の汚れで、粒子に反射した光が赤くなるという説を囀子は聞いたことがある。
赤い夕方。蛇の目みたいで綺麗。あと、少し禍々しい。
右手後ろには、船岡山が見える。あそこの鳥居なんかは、今見たらもっと真っ赤だろう。
横断歩道を渡って、真っ直ぐ進む。小学校の隣を通り過ぎる。グラウンドには誰もいない。薄暗い影の間を縫って歩いていくと、家の近くの公園が見えてきた。この辺りのお家はどれも大きい。そもそも北大路の駅周辺は、アクセスもあってちょっと良い住宅街なのだ。お家の周りの奥様も品が良い人ばかりで、出会う度になんだか頭が下がる。
だから、子供をこんな炎天下の中、遊ばせる家は――。
ない。
はずだった、のだけれど。
「……」
ブランコが、揺れている。その近くに、サッカーボールまで落ちている。ここからだとよく見えないけれど、子供の気配がする。サッカーボールがあるから、子供は二人だろうか。それか、壁当てなんかだったら、一人かも。足音がある。
ぱたぱた、ぱたぱた。
うん、足音は二つだ。ということは、子供が一組、公園で遊んでいるに違いない。こんなに暑いのに、うだるように暑いのに。コンクリートからは熱波が湧き上がってくるのに。東屋の影から、ゆっくりと公園の内側が見えてくる。街路樹の隙間から、再び紅い日差しが差し込んでくる。
ちょうど視界がひらけて、公園の全容が映った瞬間。
足音が――止んだ。
囀子は不思議だなあ、と思った。
夕方の公園。小さな砂の粒子が風に流れている。街路樹がケーキのろうそくみたいに均等に並んでいて、その中には滑り台とブランコが置かれている。小さな公園だ。街路の一区画を切り出して作った、いかにもな憩いの場。きい、きい、と小気味良くブランコが、かさ、かさとネズミモチの分厚い葉が揺れている。
ぶうん、と眼の前を蜂が通っていく。足を止めて、刺激しないようにしないと……。
がちがちがちがち、と珍しい羽音で飛ぶ細長い蜂が目の前を横切ってどこかに消えた。
目を公園にもう一度向けた。
陽炎が立ちそうなほどの熱量が公園の像を歪めているのに、やっぱり子どもの気配がする。日の当たる場所には誰も居ない。
公園の中腹くらいまで差し当たって、もう一度公園を覗いてみる。左手に公園の入口がある。けれど公園の名札はかかっていない。少しだけ坂になっているコンクリートの先には、真っ白い砂が照り返している。背後には民家の横面が覗いていて、窓が煌めいている。
ゆらゆら、ゆらゆら。
さっきから、気配がしない。
ほんの少し歩いただけなのに、まだ、ブランコは揺れているのに。
「暑すぎるのかな」
なんだかこれが現実なのかそれとも空想なのかわからなくなって、自然と視線が木陰に向かう。確か家を出る前の気温は三十二度――体が日陰を求めているのかもしれない、そんな風に思い至ったところで、
小学生の低学年くらいに見える、男の子――だった。
けれど、一人だった。
その子は、こっちをじっと見ていた。黄色い大きな瞳は、私が彼を見る前から私の方を見ていたのだろう。既にこちらへ焦点が定まって、他には何も見ていない。まるで黒猫の瞳のように縦に裂けた瞳は、少し首を傾げた。
「大丈夫かな――」
その時、囀子は一抹の迷いもなく公園に踏み出した。いや、踏み出してしまった、というのが正しい。なんせその子供は、こんなに暑い八月の日に、真っ黒い外套を着込んでいたからだ。しかも全身を覆うような外套である。加えて暑そうにもしていない。囀子はおっとりしているものの、他者の危機は人一倍感じやすい
熱中症にでもなっているのだろうか、こんな温度であんな厚着で、汗すらかいていないなら既に重症になっているのかもしれない。都合良くも少々氷菓子を買っている。だからさっさとあの子に近寄って、その外套を脱がせてやって、氷菓子を頬張らせてすぐに救急車を呼んであげよう、そういえば重度の熱中症では寒気を感じると聞いたこともある。だから上着を着たままなのだろうか。だとしたら、すぐに、すぐに。
日は、殆ど落ちかかっていた。紅すぎる日と、夜の紫が混じりはじめて、逢魔時。
囀子はここで、少なくともここで気が付くべきだった。
逢魔時の公園で、子供の足音が二つ。だのに公園の中には一人しか居らず、その一人も様子がおかしい――とくれば、何らかの異常を疑うべきだった。
それは自分の認知の異常――たとえば自分の熱中症とか、逃げ水みたいな幻覚――或いはシチュエーションの異常。助けるという結論は変わらなかったとはいえ、その少年を助けようと公園の中に入るまでに救急消防を呼んでおくとか、或いは他の民家に助けを求めるとか、その少年が囀子の方をじっと見つめて、どの角度からでも等しくこちらを見つめていることとかに、少なくとも、ここで、気が付くべきだった。
けれど囀子は、気が付かなかった。ぼーっとしていたからではない。単純なお人好しで。単純な母性で、愛情で、その異常な少年に近付いてしまった。
だから当然、巻き込まれる。気付かない間に、引き込まれる。
「君、大丈夫? 気持ち悪かったり、しんどくない? お姉さん、アイス持ってるからそれ食べていいよ」
囀子はビニール袋へ視線を移して、氷菓子を取り出した。それを少年に手渡そうと、視線を戻した時だった。
手は、空を切った。
ネズミモチの小さな葉っぱの下には、木の陰と混じり合う囀子の影だけが浮かんでいた。そう、少年は視線を移した瞬間に、煙のように消えていたのだ。
「あれ?」
囀子の手首に、結露した水滴が流れて乾いた砂に落ちて染みが出来る。氷菓子の形が崩れる。囀子の影は、手首でネズミモチの陰と交わっている。茫然とする囀子の影の手首を掴むものがあった。それは黒と紫の黄昏が交わっていく瞬間を蛇のようにのたうって、毒グモが首元に素早く毒を差し込むように影に登り、さっと手の影を覆った。
「――」
ただ、それだけだった。陰は消えた。見間違い、だっただろうか。
雲が流れて、夜の帳がやってきた。全ての陰が融けあって、夜の闇が辺りを覆い尽くして青黒く空気を染める。日が落ちたことで風向きが変わり、ベルベットのように艷やかな髪が風に舞った。
「男の子は……?」
首をふりふり、辺りを見回しても誰も居ない。ただ寂しい公園だけが、視界に広がっている。手元の氷菓子は既に溶けて、青い液体になって袋の中で垂れていた。
「帰っちゃったのかな、子供って、足が速いから。元気だったならいいのだけれど」
どこまでも呑気な囀子にとって、それは寧ろ僥倖なことと言えた。公園に不幸な子供はいなかったのである。それは最も好ましいことで、嬉しいことだった。だから囀子は気にしない。氷菓子は溶けてしまったけれど、その程度。ちょっとお財布が寂しくなるだけである。鼻歌交じりに振り返って、公園を後にしようと踵を返す。
その時だった。振り返った通りの方に、叫びながら走っていく女性が見えたのだ。黒い髪をおかっぱにして、黒いシャツに生成り色の帽子を被っている。彼女は『翔太』と叫びながら、その通りを横切っていく。ただならぬ剣呑さを纏いながら走り去る女性に、囀子は再び茫然とする。そこへ反射で反応できるほど、やっぱり囀子は素早くなかった。だから声も出ない。その間に女性は行ってしまう。
けれどひょっとすると――さっき消えてしまった少年は、翔太くんなのではないだろうか。
その程度のことは、すぐに想像がついた。だからまた踵を返して、少年が居たはずの場所を眺める。すると、なるほど、確かにそれらしきものがあった。ハンカチが落ちていたのである。少し起毛した、青いハンカチだ。二つ折りにされて中はふんわりと張り出している。囀子はすぐにそれを拾った。手のひらに砂の粒子が絡みついた少し埃っぽいハンカチが乗った。そして、人差し指でそれを開いてみる。名前はあるだろうか、それが『翔太』なら、あの女性が探していた子供ということになる。
そっと端をつまんで、そっと開いてみる。
今度は、唖然とする。ハンカチの中にあったのは、小さな白い欠片だった。小石のように丸く、小さな突起が付いている。薄暗いせいで、それがなんなのかよくわからない。指先でそれを転がした時、ようやく囀子は小さな悲鳴を上げた。
「ひっ」
それは少し気持ち悪いものだった。白くてごつごつした、ちょっと見慣れない紐がついたものだった。
得体の知れない気味の悪さに背中が跳ねて、囀子は震えながらそれをもう一度包み隠した。そして裏返すと、油性マジックで描かれた、小さな文字がそこにはあった。
『翔太』
とるものもとりあえず、気味は悪かったもののそれを捨てることも出来ないまま、囀子は振り返って歩み始めた。『翔太』、よくある――というと失礼だが――よくある名前だ。だからもしかしたら、このハンカチが先程の子供のものではないかもしれない。そんな風に思ったから、サッカーボールに歩みを進める。ボールだって、名前を書くだろう。特にサッカーボールなんてどれも同じ、に見える。だから名前だって書いてある、はず。
そんな予想のままに、囀子は軽くボールを小突いてみる。ボールがゆっくりと回転して、白い面に染みが見えた。ちょっと行き過ぎてしまったので手で戻すと、やはり『翔太』という名前があった。
「――」
やっぱり、と囀子は心の中で頷くと、困りつつもそれを拾い上げた。
「翔太くん、ボール無くなったらかわいそうだし、一旦持って帰ってあげようかな。また明日、どこかで交番に持っていってあげようね。こっちは……」
う~ん、と唸りつつも、囀子はそれをポケットに仕舞った。親にとっては、こういうものも大切な思い出の品になるかもしれない、交番に引き渡す時、何かに入れて一緒に渡してあげるのがいいだろう。
「さて、お家、帰らないと」
スーパーマーケットまですぐそこだったはずのに、ずいぶん時間を食ってしまった。弟さんも心配しているだろう――早く帰ろう。囀子は呑気に、やっぱりゆっくり、けれど急いで家路についた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます