第17話
新石は燭台を四方へ置くと、蝋燭に火を点けた。揺らぎとともに現れた光の波は、その姿を露わにして現実と虚構の間にある曖昧な空間を浮かび上がらせていた。まるで朝霧の中を漂う小舟が蜃気楼の島に立ち会ったような心許なさで小さく狭く広がった人の領域は、ほんの一人だけ人間を留めて置けるだけの光の島を作り出して浮かべていた。それは闇の混沌を捏ねて作ったような、形ならざる足場である。
そこに一人出で立ち、袴姿の新石は頭を下げた。そして持ち出した酒瓶を傾けて杯を煽ると、人ならざる混沌の中に――神の領域へ――踏み出した。
「わたくしは、貴方様に語りやすい言葉を持ち合わせません。あなたがどこのどの御柱であるか知らぬ
目を伏せ、語るのは神に向けてである。大いなる異常識、異常識の権化と言ってもいい、その元締たる神に向け、新石は自らの頭を垂れ褒めそやす。人の常識が枡であるならば、神の常識は異常識を包括する更に大きな海を湛える大地に等しい。然るにこれは、新石の神に対する交渉であった。神に向け、大いなる異常識の存在へ向けて助力を賜わろうという尊敬から発される頼み事であった。そう、それほどの大任なのだ。囀子に憑いた異常識、これを囀子を
「このような頼み事をさせて頂きますならば、
新石が目を伏せ跪くと、ごおごおと響く気流が逆巻くように髪を散らし蝋燭の焔が激しく揺れた。しかし焔は一本足りとも消えることなく、穏やかに背を伸ばした。新石はゆっくりと頭を下げると、一分近く頭を下げ続けようやく上げた。踵を返した新石は階段を上がると、再び応接間に戻った。
「さて――」
雑然とした部屋だ。ソファには少年と少女が眠っている。少女の身体の体表からは、白い卵の殻のような皮が剥離して紅いソファの上に落ちていた。フケのように見えるけれど、そうではない。彼女の身体がいよいよ限界を迎え始めている証左である。彼女を蝕む異常識が現実となっている――ということは異常識が常識へと変化し、実体を持ち始めているということである。
「おかーさん、おかーり!」
手を振るいざりに手を振り返しながら、新石はソファに向かって歩みを進めていく。
「ただいま。いざり、そろそろ取り掛かるから、お願いしたことやってくれる?」
「はい! もう鉢に火は点いてますか?」
「ああ。後は木を並べるだけでいい」
「わかりました! いざりも、がんばるね」
「ありがとう、可愛い子」
野ウサギのように跳ねながら、躄は玄関へと駆けていく。その背姿を見守って、新石はソファについた。
煙管を指で掴もうとして、その手が止まった。
「やれやれ」
これからは神前である。
「……なるほど。これが斎宮くんの言っていた影か」
体の中を蠢く影、そして刺したのは蜂。患部は闇に隠れようと本能的に動く――いや、この子の身体は
なぜか。
それはひとえに、ただいつものように退治してしまったら、それはそのままこの少女を――波羅場囀子を――殺害することと同意になるからだ。
それほどに、この少女は異常識を飼っている。
それほどに、この少女は異常識そのものだ。
いや、正しく表現しよう。
この少女は――異常識を自ら育て、慈しみすぎた。
可能性としては、本来ならば忌まれて然るべき異常なる常識をある種迎合するような形で、もしくはそれを異常と知らない内に埋め込まれ、気が付かない内に異常を取り込んでいたのかもしれない。異常識は常識と触れ合うことでその輪郭を発露させるものであることからして、彼女はそれを異常識とどこかの段階で気が付いたのだろう。そして体内の免疫機能が異常な存在を攻撃するように、彼女は自分の中にある異常を攻撃した。
新石の読みでは――その異常こそが、『体内を蠢く芋虫』。
故にこれを無理矢理摘出し退治することは、心臓に出来た癌を心臓ごと摘出してしまう本末転倒な行為に等しい。これを退治すれば、彼女はそのまま死んでしまう。異常識も常識も欠落した、人間かどうかも怪しい空っぽになってしまう。であれば新石の取る方策は殺さず生かさずで外道を取る、想像を絶する残酷に通ずる。
更に核心に踏み込むなら、これを解決するのに、
「やれやれ、彼を外に追い出してないと、こんなこと出来もしないよ。恐ろしくて。まあ、彼は彼でそれに気付くかもしれないが、自身の役目の重要さは理解するだろう。正義に興味はないけれど、彼の行動は私にとって重要な価値がある」
それに、
ふう、と煙を吐くように息を漏らして、新石は囀子を抱き上げた。
「死ぬほど辛いよ、囀子ちゃん。けど、手加減しないからよく覚えておきなさい。それが何も説明せずに優しいことだけが取り柄の人間に助けを求めるっていうことの代償なんだ。あなたが斎宮くんに求めた感情の代償は、死ぬほど重い。或いは、死ぬよりも重い」
階段を降りる音が聞こえる。その先には、焔の陰で織られた一人分の浮島があった。
そこに囀子が降ろされると、闇には新石が立った。新石は打ち覆いを顔に掛け、袴を締め直した。
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