第3話
「そうか。お楽しみと思ったところが、一転してホラーというところだな。ははは。それは気持ちよくない。決して快ではない。して、その前には何か話したか?」
話し終わった椥辻へ、俯いて流れてきた髪を耳へとかけながら黎海山は質問した。
「わからない。でも寝る前に聞いたところによると、クロゼットに閉じ込められる夢を見てたみたいだ。夢の内容としては、クロゼットの隙間から子供が殴られているのを見たらしい。最後に囀子は見つかって引きずり出されるんだけど、どうやら殴られていた子供の方が囀子の手首を引っ張った。そしてその時、なぜか引っ張られた手首を蜂に刺されたらしい。詳しくはここにメモしておいたから読んでくれ」
なるほど、と黎海山は頷きつつ、差し出されたメモを手に取った。
「この内手首の異常な腫れは――そうだな。確かに。病気とか、熱による免疫反応の低下とかそういうわけでもない。彼女は確実に、間違いなく、夢の中でその子供に『手首を掴まれた』と言ったんだね? そして蜂に刺されたとも」
「ああ。言った。間違いない」
「その前にこの手首が腫れていたとか、怪我していたとかそういうことはないんだね?」
「ない。風呂で倒れていた時に、握りすぎて一時的に赤くなってたくらいで、その時に裸のままで怪我はないか確認したから間違いない」
「なら、正当なセンで探りを入れるなら、この手首は夢で刺されたものだ、ということになるな。とはいえ、そこで止まる」
黎海山は煙を灰に押し込んでぴたりと呼吸を止める。そしてゆっくりと瞼を閉じると、片目だけで椥辻を見つめて口を開いた。
「椥辻。この子を私の元へ持ってきたということは――つまり、君は
黎海山は眼の前で無防備に眠る少女の身体に指を這わせ、その感触を楽しむように弄った。足の爪先から、それこそつむじの天辺まで全てを記憶に刻み込むように弄った。鼻で嗅ぎ、指の腹で撫で、時にして舌で舐め、爪さえも立てて見せる。まるで触れることの概念全てを網羅するように黎海山は囀子の身体をこれでもか、と言いたくなるほどに触れて、見て、感じ取った。
椥辻は赤い絨毯の上に立ち尽くしながらも、その光景について何も言わなかった。姉である人間が、そうでなくてもうら若き乙女がうなされて目覚められない間自由に弄られていたら、普通は止めるものである。だが、椥辻は知っている。この『触れる行為』そのものが既に価値あることだと。常識とはかけ離れた『常識』が、そこにあるということを。
だから、止めない。ただ、座して待つ。いや、立ったまま待つ。
端から見れば婦女をかどわかして官能に浸っているようにしか見えないほどの背徳的な接触が終わり、黎海山は背を伸ばした。上体だけでも椥辻と視線が真っ直ぐ合う。慣れていることのはずなのに、椥辻にとってはこの瞬間が苦手だった。そこに覗く奇妙な世界を覗き込んでいる。明らかにおかしな論理体系に足を突っ込んでいる。高熱の時に見る無秩序な夢、その断片が目の前にあるような気がして堪らなくなるのだ。そんな風に椥辻が思っていることを、黎海山は知っている。だからわざとやる。反応されない嫌な行動を、わざとやって愉悦を得る。心底嫌なキュートアグレッションである。
だが、その後に黎海山の顔は真面目に変わった。目付きが変わる、という言葉が正しいだろう。スイッチが入ったように、先程までのおちゃらけた不真面目さが消えている。そして眠る囀子の手首の腫れに向かって音を立ててキスをした。
「うっ」
囀子は眠ったまま苦しそうなうめき声を上げて首を振った。その時だった。手首の腫れがじわじわと丸く広がって、わかりやすい形になった。
紅葉のようなという形容が極めてわかりやすいその形は、しかし紅葉ほど指先がつんと尖っておらず、均等に伸びた五本の指が節の間までわかりやすく張り出した手形だった。
子供の手形がそのまま思い切り貼り付けられたように、真っ赤になって腫れている――。
「ああっ」
呻きとともに囀子の手首が振り回されて、テーブルへとぶつかりかけた。寸前で椥辻が手を握り込み、止まる。けれどその間も囀子の身体はのたうち回り、苦しそうに暴れている。
「囀子、しっかりしろ――!」
「心配する必要はない。手を離しなさい」
「でも」
「私を信頼しろ」
奥歯を噛み締めながらゆっくりと手を離した椥辻は、その離した手がある一方に吸い込まれていくのを見ていた。
椥辻はじっと黎海山の眼を見つめ、黎海山は頷いた。囀子の手首は蛇のようにのたうって、テーブルの下に潜り込んで止まっている。不思議そうに見つめた椥辻とは対象的に、黎海山は納得したようにその様に頷いた。
「さて、椥辻。結論を言おう。君の考えていた通りで合っているようだ。体温は人体の生存温度ギリギリを推移しているが、病の兆候は血の味からしてないだろう。だが見ろ、手首の腫れを。必死になって光から逃している。つまり、そこにいるということだ」
そこにいる。椥辻が見ていた像の正体が、そこにいるのである。
「じゃあ、
「ああ。放置すれば当然死に至る。これは侵食の重度症状だ」
死に至る、という言葉を聞いた瞬間、椥辻の目はかっと見開かれて囀子に触れた。熱すぎる身体である。きっと酷く苦しいのだろう。気を失っているにも関わらず、涙を流しながら譫言を呟いている。
「そんな! 死ぬ、のか? それに重度――でも、手首だけなんだぞ!」
「ああ、部位など関係ない。死ぬ。しかも旦夕に迫るほど猶予がない。椥辻、君は身体の中にその白い影を見たと言ったな。それは彼女の中をそれが這い回ったということだ。君は皮下組織を食われて生きていられるか? それに冷静に考えてみろ。人間は自分よりも余りにも小さく、目に見えないほどのサイズのウイルスで当たり前のように死ぬ。なんらおかしいことではない」
今まで火照り上げていた肉体から、血の気が引いていく。この一年、一緒に過ごしてきた彼女が死ぬ。目の前で、何も出来ないまま、こんなに苦しんで死んでいく――。
「そんな、どうしてだ!」
椥辻とて素人ではない、それでも聞き返したのは囀子という身内が巻き込まれたことによって、急にそれが身近になったからだ。遠くの災害映像は、見ているだけでは実感がない。けれど身に迫ればそれは現実になり、脅威となる。椥辻にとっては、その瞬間が今だった。
「椥辻、君は我が探偵事務所の唯一の探偵だ。故に、何度も体験しているだろう。異常の中にあることが当然となった人間は、今までの『常識』を喪っていく。全ての認知が書き換わり、全ての道筋が、当たり前の世界が壊れていく。狂人になるのが早いか、それか交通事故に巻き込まれて死亡するか、それか家が燃えるか、寧ろ殺して殺人鬼として二度と出てこられないか――少なくとも、こうなった以上、いい死に方は期待できない」
黎海山の冷酷な宣言に、椥辻は眼の前で眠る少女を見つめる。
この少女は……斎宮椥辻の姉、
機能不全な家族に酷く圧迫されて、命からがらようやく逃げ出してきたこの子を保護したのが一年前。一応、かなり複雑な事情があるものの椥辻にとって彼女の呼び方は姉であり、彼女にとって椥辻は弟である。聞くところによると、どこの家庭でも末っ子長女だった彼女は、ずっと弟が欲しかったらしい。だから年上の弟という奇妙な関係にある椥辻のことを、年下の姉なりに、何かをお返ししようとずいぶん可愛がってくれた。お世辞にも良い家庭で育ってきたとは自負できない椥辻にとって、この一年、放っておけない可愛い姉がいたというのは、それだけであんまりにも幸せなことであったし、その光景はどこまでも『当たり前の光景』として瞼に焼き付いている。それを喪うことなんて、今となっては考えられない。ほんの数時間前まで、彼女はあんなにも元気だったのだ。そんな愛らしい姉が、帰ったらそこにいること。そんな愛おしい、年下の女の子が自分を頼っていてくれることが、椥辻にとっては何よりも幸せなことだったのに――自覚さえしていたのに。
けれど彼女は、黎海山によるともうすぐ死ぬ。長くは生きられない。
「こんなことって、あるかよ!」
始まったばかりなのに? 彼女はようやく、笑顔で暮らせるようになったのに?
そんなことを、許して良いのか?
そんな当たり前を、常識を、許していいのだろうか。
追撃するように、黎海山は眉を下げて告げる。
「――君の姉は、突っ込んでしまったんだ。なんの悪意も過失もなく、巻き込まれてしまった。かわいそうだが」
その言葉が契機になった。
余裕綽々と煙管に手を伸ばした大男に掴みかかった椥辻は、そのまま詰め寄って黎海山を睨みつけた。
「手立てはないのか! お前、
黎海山は笑みつつ頷くと、そのままどっかりとソファへと身体を預けて、テーブルへと足を乗せた。余りの体格差に、引きずられるように、掴みかかった椥辻の体がズレていく。
「解決役というなら、君もその解決役の手先じゃないか」
「そういう言葉遊びはいい。囀子が弱っていくのをこのまま見てることしかできないなんて真っ平だ。なんとかしてくれ、いや、しろ! じゃないと、わかってるだろうな!」
くくく、と黎海山は煙管に火を付けた。紫煙がくゆり、紅い灯りに混ざって曼珠沙華の華が咲き乱れているようだ。
一服ついた黎海山は、煙管を置くと襟を正して椥辻を睥睨した。品の良い割に血腥い野性的な瞳孔がこちらを射竦めている。けれど引くことはない。黎海山新石――その人がただならぬものであることは、椥辻だって身を以て知っているのだから。
「椥辻、専門家への、
「好きにしろ、幾らでも天引きすりゃいい」
くくく、カカカ。
鬼のように笑う黎海山。
鬼らしく、鬼気迫る様で笑っている黎海山。
――椥辻は知っている。
鬼という言葉が余りにも似合うこの男が、それ相応の身の上であることを。
だからこそ、こんな人通りのない場所で『黎海山探偵事務所』という
その調査員――つまり探偵稼業である椥辻は、その専門家の手足であり、受付であり、フロント企業のような存在であるということを。
だからこの男が、どのように
「いいだろう、椥辻。お前の姉――波羅場囀子が踏み込んだ
異常なる、常識。
それを『異常識』と呼称している。
踏み込めば帰ってこられない、過去へも未来へも繋がらないどん詰まりの暗澹たる海。
その中に放り出されれば、人はいとも容易く平衡感覚を失い、現実に衝突する。
いや、正しく表現するならば、助からないほどの衝撃で、現実にぶつかろうとするようになる。
まるでハリガネムシに操られたカマキリが水の中へ飛び込もうとするように、けれどカマキリにとってはそれを避けられないように。気付けば破滅の中にいる。
黎海山に曰く、異常識とは、人を内側から蝕む不可知の毒であり、精神を這いずり回り穴だらけにする蟲である。
スピリチュアルと現実の狭間、異常と常識の境界線に、常にその影は揺らいでいる。
だから、
囀子もまた、その境界線に立ち会ってしまったのだろう。
異なる体系で作用する現実、その中に囚われてしまった人間が頼る専門の探偵事務所、黎海山探偵事務所。
触れたものから徐々に。
だから椥辻は、囀子を救わねばならない。
それは自らを救うことであり、自らが持ち込んでしまった可能性もあるということであり。
なによりこの少女を喪うくらいなら、死んだほうがマシだという、椥辻の常識でもあった。
「君の家に帰り給え。何か理由があるはずだ。それを見つけてきなさい」
「わかった。仕事道具も持っていくぞ」
「許可しよう――だがみだりに使わぬように」
――わかってる。
腰から仕事道具の入ったベルトを下げた椥辻は、再び闇に踏み出した。
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