第2話
京都市は北区にある
両脇を緑の雑木林に囲まれて薄暗く、それだけでなくアスファルトに亀裂が見られるほど荒れた峠道であるものの、峠の脇道には路地があって、そこにはまだ昔ながらの家々の名残が残っている。民家の他には公民館のような建物もある。人通りが少ないことは言うまでもないのだが、それでも京都市の北部と京都市を繋ぐ重要な道路として、過去から現代に渡って人々に歩み抜かれてきた過去がある。
とはいっても両脇を峠に挟まれた道だ。夜になると車通りもめっきりと無くなり、二十二時を過ぎると路線バスも無くなる。殆ど路灯もない峠道だから、夜に通るとその真っ暗な両壁に驚く。こんな時間に峠道を通りすがるのは急用者か、或いは道を選ぶのをしくじった観光者くらいになるものだから、当然余計に車通りが減って薄ら怖い雰囲気を醸すことになる。そうなると余計に人の足が遠のくものだから、当然のように夜の深泥池には誰も近付かない。ここは底なし沼なのだ。うっかり深みにはまり込んでしまったら、屍体すらも見つかるかわからない。
だからその日も、例外なく誰も峠には近寄らなかった。夜が更けて路線バスが無くなってしまった頃にはいつも通りの静かな深泥池が広がっていて、草木も眠る丑三つ時にはまだ早い零時の段階ですらひっそりと静まり返って動くものは無かった。
それもこんな夏の夜にはいわずもがな。おどろおどろしい真っ赤な夕焼けが照った夜では特に誰も近寄らないし、動かなかった。ただ明日の太陽がやってくることを待ちながら家の中で眠っていた。
その時だった。木々の枝葉が揺れて、さわさわというざわめきが闇に反響した。次いでアスファルトを蹴る革靴の小気味良い音が響き渡り、その影は急ぎ足で峠の方へ向かっていた。荒い吐息はここまでの間に既に長い時間歩き詰めていたことを表すように乾いており、けれど額からは玉のような汗が滴っていた。仄かな月影に映る影は、大きなな人間を背負って歩いていた。その影は峠に差し掛かると小径の方へ逸れていき、突き当りの山を背負うように立った一軒の民家の前に立った。寝静まった集落の間を縫って、誰も居ないはずの山へ向かって人が歩いていく――
昼と夜では『常識』が違うから、世界に対する作法が変わっている。
「開けてください」
民家の中へ語りかけたその声は、男の声だった。この民家には、特異にもインターフォンがない。大きさとしては田舎の一軒家らしくそれなりに広く門構えも良い。正面の玄関の脇からは閑静な庭に続く脇道も見えているというのに、それなのにインターフォンがない。ただ古臭いだけで呼び鈴くらいはあるものだろうと見渡しても、それもない。では人が住んでいないのかというと、これもそうでない。
家屋には暖色灯がぼんやりと曇った灯りをガラスに映している。人はいるし、気配はある。呼びかけた男の声色は、その家屋の中に人がいることを信じて疑っていない、そういう呼びかけ方だった。であればここの『訪問方法』は、それであるということだ。一般的な家屋であればインターフォンを押し、内部の端末から発された音で家屋の住人が気付き、それを聞きつけて玄関に向かう――そういう当たり前の方法と、この家屋の常識は再び相容れない。
寝静まった夜中の集落と、峠の小径にある突き当りの民家。
徐々に一般的な『常識』から距離的にも、心理的にも遠ざかっている。だから庭にあるぐねぐねと曲がったザクロの木も、なんだか遠い場所の存在であるような――まるでヨモツヘグイのような――気さえする。
声が闇の中で吸い込まれて消えた頃、重たい金属とガラスで構成された玄関のドアの鍵が回った。この玄関の灯りは、まるで熟れたほおずきのように紅い。見方によっては家の中で縁日が始まったように見える状況だが、沈黙に支配された夜の中で現れた縁日など少なくとも現世のものではないだろう。ともあれそれは、見方の話であって現実の話ではない。
ただ忘れてはいけないのは、見方の話が、しばしば現実になることもあることだ。特にこんな、常識のないところでは。
「入り給え」
中からはコントラバスめいた低くまろやかな声が返ってきた。錠前がどのように開いたのか、それについて外から知れることはない。ともあれ何かを背負った男は、そのドアを躊躇いなく開けた。その手つきから、彼が普段からここを出入りしていることは間違いないように思われた。彼はそのままドアノブを引いて、玄関の中に侵入する。
光に当てられたその男は、真っ黒いうねる髪をそのまま伸びっぱなしにした中肉中背の成人男性だった。歳の頃は二十五前後、背の丈は百六十から百七十、それほど筋肉質にも思えない。どちらかというと痩せ気味で、顔の印象は割と濃い。やや冷たい目元には黒墨を流したようなまつげが太く長く伸びており、顔立ちもそれほど淡麗ではないが強い意志を感じさせる印象だ。彼は今、背中に黒く大きな袋のようなものを背負っていた。とはいえ、ただの袋ではない。明らかに人である。よく見ればそれは、長い髪を風に揺らしている、寝間着姿のままの女性だった。負ぶい紐で胴を固定して、数キロ先の北大路にある自らの家から、ここまでじっくり運んできたのである。時間の関係で、タクシーも見つからなかった。故にこのような火急の事態においては仕方なかったのだが、辛いものは辛い。体は火照って喉からは乾ききった嗚咽のような嗄れ声が漏れていた。男は膝に手をついて肩で呼吸をしながら、眼の前で優雅に座っている雲を突くような大男へ視線を向けた。
框の奥に拵えられた赤絨毯の応接間のソファに腰掛けているのは、栗色の豊かな髭で顔を包み込み、煙管を燻らしている英国紳士然とした大男だった。こんな深夜にも関わらずきっちりとした着こなしでスーツを身につけており、体型は見事な逆三角形をしている。部屋の中には上品な香の薫りが満ちていた。
「はは、これはずいぶん立派な若妻だね。
煙管から口を離した大男は、ゆるりと寛いだままそう放つ。その視線には見定めるような無礼な成分が含まれている。椥辻と呼ばれた男は気分を害したのか負ぶい紐を緩めて、いつでも下ろせるように靴を足だけで脱ぎ捨てた。
「
「ふむ。まぁゆっくりと何がおかしいのか聞かせてくれたまえ」
黎海山、ずいぶん大仰な名前で呼ばれたその男は忽せに煙管を揺らして音を立てるようにひっくり返すと、受け皿に灰を返した。椥辻は框に乗り上げると、紅い革張りで程よく反発するソファに囀子と紹介した少女を下ろす。艶めく愛らしい髪が波のように紅いソファの上へ落ちていく。デフォルメされた熊がプリントされたパジャマに身を包んだその少女は、仰向けになりながら額に玉のような汗を滴らせつつ仰向けに眠っていた。これだけなら寝苦しそうにしているように見えなくもないが、異常はすぐそこに、わかりやすく発現していた。
黎海山の大きなごつごつとした手が、小鳥のように儚げな囀子の手首に添えられた。滑らかなうら若き女の手である。短く切られた爪が、彼女が働きものであることを物語っている。傷一つないところを見ると、ずいぶん器用なのだろう。そっと茶器を持ち上げるようにその手首を持ち上げた黎海山は、まさに腕から手にかかるちょうど関節の位置に、赤いミミズ腫れがあることに気が付いた。一見すると
「ちょっと夕方からおかしかったんだ。まず始めに風呂場で倒れて、それは生理の貧血だって話だったんだ。けど、その後は全然おかしなとこもなくていつも通りだった。だから普通にしてたんだけど、寝付いてから、その」
椥辻は逡巡する。
隣の部屋で床に付いて暫く、一時間くらいの仮眠を取った頃だった。微睡みの中、椥辻はやけに暑くて目が覚めた。身体もやけに重くて、始めは熱でも出たのかと勘違いをした。けれど、感覚が少し違う。何かで身体を包みこまれているような感覚だったのである。重くて暑い、しっとりした布団が身体に覆いかぶさっているような。
目を開けた椥辻は、その光景に驚いた。まず始めに、手が柔らかい何かに触れていた。濡れていて、ふにふにと柔らかい。そして腰の辺りでやけに激しく何かが擦り付けられるような感覚があり、目の前には真っ黒い暗闇に覆われた囀子が居た。視界の中に、椥辻の手は映っていた。夜目がうっすらと効いてきて、その全貌が明らかになった時、椥辻は酷く困惑した。上に乗っていたのが囀子であることはわかる。彼女は時折、寂しいのか布団に潜り込んでくることがあるからだ。
だが常軌を逸していたのは、彼女が裸だったことだ。上から下まで、一糸纏わぬ姿だった。彼女は自分の手使って、椥辻の手を掴み、その手のひらで自分の乳房を触れさせるようにして、発情した犬のように腰を服の上から押し付けていたのだ。そしてもう片方の手は、椥辻の下着にかかっていた。
「おとうとさん……ふーっ、ふーっ。おとうとさん、ごめんなさいっ。でも、もう、囀子、がまんできない――」
熱っぽい告白と共に、囀子はその身体を枝垂れさせて椥辻の首元に舌を這わせて接吻した。
ここまでなら、夜這いである。一つ屋根の下で一年間共に暮らした男女の、どちらかが恋煩いに侵されて、手を出してくれないもう片方に直接的な愛をせがんでいるような状況でありつつも、椥辻の目は、別の場所に向かっていた。普通なら目に入るはずのその双丘も、美しいはずの首筋も、唇の艶も、何も目に入っていなかった。
その代わりに、見てはいけないものを見ていた。
「何かが、囀子の体内で動いたんだ。どくん、どくんって動いて、移動した。丁度覆いかぶさられているから肩甲骨の辺りから尻の辺りまでくらいが見える範囲だったんだけど、動いてたのは骨盤の辺りから、お尻の方へ向かってだった。芋虫みたいな脈動があった」
それは、現実には有り得ない、まるでレントゲンを通したような奇妙な造影だった。身体の中が透けて見える――そんな視界を椥辻は持っているはずがない、だのに囀子の身体の中には、確かに動いているものが見えた。光は脈動した瞬間に映り、止まると消えた。
「おとうとさん――わたしのこと、めちゃくちゃにして……こわしてぇ」
その言葉と共に触れ合った身体に、椥辻は確信していた。
「こわして! こわして! こわしてええええ――!」
熱すぎたのである。
暑いで済むレベルではなく、熱すぎた。
感覚としては、タオルを巻く前の湯たんぽを直に身体へ押し付けられたような、火傷寸前の熱さである。呻きながら強張っていく囀子の身体は熱くて、彼女の身体が動く度に体内には奇妙な像が浮かんだ。となれば、こんなもの尋常ではない――あってたまるか。
「おとうとさん、お願いぃ……囀子を、壊して」
そう願い、呻きながら、突然彼女は椥辻の腹上でぱったりと気を失った。それっきり、何も動かず、像は見えなかった。
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