異常識探偵・一 Honest Hornet

安条序那

第1話 プロローグ

 誘拐――。


 現代ではもはや聞き慣れない、フィクション以外では誰も使わないような使い古されすぎた犯罪。


『一億円、身代金を用意しろ、逃走用の車もだ』


 こんな台詞を、誰もが一度くらいは聞いたことがあるだろう。漫画で、或いはアニメやドラマで。

 今よりもずっと不便だった頃、人を攫って、命の代わりに金を用意させること――それにはまだ価値があったのかもしれない。それか万が一、逃げ切れた前例があったのかもしれない。足が付かずにそのまま幸せに過ごせた例が多かったのかもしれない。

 けれど、もう何もかもが発達したこの二〇一八年では、そんな犯罪はなくなったと言っていい。誘拐に支払われる紙幣は偽物で使えないし、逃げるための車にはGPSが搭載されているし、どこへ逃げても、監視カメラがある。


 だから、誘拐犯に逃げ道はない。


 誘拐に意味はない。


 そのことを、斎宮椥辻ときみやなぎつじはよく知っている。大学では専攻して犯罪心理を学んでいるのだ。人並み以上に、そのリスクと、得られるものの少なさを理解している。

 だから、こうして誘拐犯になった自分は、もう行き場がないことを知っている。

 慣れ親しんだこの社会が、前科者に対して異常に厳しいことを、よく知り過ぎるほど識っている。返せるかどうか怪しいほど高い奨学金を受け取ってまで来た大学生活も、これで無為むいに終わりを告げるだろう。自分がどれだけバカなことをしたかを、既に知り尽くしている。

 従って、なぜこんな無謀をしたのか問い詰めたい自分がいないわけではない。何度でも問い直して、その妥当性を、他に打つ手がなかったのかを検討しなおせ、と言いたい自分がいないわけではない。けれど同時に、このバカな選択をほんの一瞬も待たずに選んだ自分を誰よりもよく理解している自分が居て、後悔していないことも事実であった。

「うっ……ひぅっ……うううう」

 背中には誘拐された十四才の少女がしがみついていた。もう一時間以上もこうしてバイクを転がしているのに、まだまだ泣き止まず、泣きじゃくると言っても過言ではないくらい、ずっとずっと泣いている。

 この泣いているばかりの彼女、ヘルメットの隙間からさざなみのような銀色の髪を風に揺蕩わせている彼女、十四才にしては小柄なやせっぽっちの彼女――この少女の名は、物部阿波礼もののべのあはれと言う。

 彼女こそ、椥辻の住居の近くに住んでいたというだけで誘拐された、音通りあわれな中学二年生である。

 ただしその始まりを見れば、彼女はただの被害者でもなかった。

阿波礼あはれ。僕は、俺は、君を誘拐する』

 たった数時間前、白昼堂々と行われた誘拐宣言。バイクに乗ったまま行われた、犯罪予告。とても正気とは思えないその宣言に、阿波礼は乗った。泣き腫らした爽やかな笑顔で、彼女はその犯罪を、受け入れた。

『わかりました。拐って下さい。先輩。私のこと、もうどうにでもしてください』

 そうして彼女は椥辻の背に身体を預け、自ら攫われた。椥辻の誘拐のお誘いに対し、拐われることで返答した。二の句も継がず、その〝誘って拐う〟行為を受け入れた。すぐそこに自分の家があるというのに、交番があるというのに、友人たちがいるというのに、衆人環視だというのに、その誘拐を快く、と形容しても違和がないくらいスムーズに受け入れた。まるで白馬の王子様に攫われるように、彼女の手は、彼女の存在は、誘拐犯を受け入れた。

 かかる経緯いきさつを思えば、阿波礼はもう疲れていたのかもしれない。いや、もうどうしようもなく疲れ果てていた。今日だって、希死念慮をなんとか飲み込んで、通学の踏切を通り過ぎる電車に飛び込んでしまいそうでドキドキしながら、この現状をなんとか解決したくて、出来なくて、それが自分の力不足にしか思えなくて、一歩一歩踏み出す地面が持ち上がって押し潰して来そうで、もう比喩抜きに死んでしまいそうだった。

 だから死ぬくらいなら、この場所から無理矢理連れ出してくれるこの手に、この二輪車に、攫われてしまおうと思った。かぼちゃの馬車だと勘違いしたのかもしれない。この先に舞踏会など開かれているはずもないのは間違いないのに、それでも良かった。この先に意地悪な継母がいたとして、たとえば退屈な針仕事ばかりさせられるとしても、それでも一向に構わなかった。それでも、それでも、それでも。

 今ここにいる自分よりはずっとずっと、生きているはずだ。今が一番、死んでいる。

 そんな刹那的な感傷に身を擲った。

 だから二人は合意の上、犯罪に乗り切った。車通りのほとんど無くなった夜の京都縦貫自動車道を、買ったばかりのバイクで駆け抜けていた。

 幾つものトンネルを通り過ぎ、園部町を通り過ぎて民家の灯りから遠ざかり、綾部の山を越えて由良川を通り過ぎ、くらい方へくらい方へ、逃げていくように走る。逃げられる場所なんてどこにもないことを二人共理解しながら、高速道路の監視カメラに映っていることを知りながら、それでも椥辻はタイヤを転がし続けていた。逃げれば逃げるほど、終わりに近付く逃避行、その一秒を噛みしめるように、二人はこの高速道を抜けていった。

 誘拐犯である斎宮椥辻は、此度の誘拐において、使い古された脅迫文句を言っていない。身代金を用意しろ、そんな言葉、誰にも言っていない。すると発見は遅れるだろう、だが、肝心の『人を誘拐する』という大きな大きなリスクを犯している割に、椥辻が得るものは余りにも少ない。

 それに少女自身を報酬にするとしても、椥辻は少女を一人、これから監禁して一生養えるほどの稼ぎがあるわけではない。

 大人になったと言ったって、まだまだ食い扶持の無い大学生なのだ。日々ちまちましたバイトで小銭を稼ぎ、このバイクだって何年かかるかわからないローンを組んでようやく買った。

 だからこの誘拐は、椥辻にとって自殺に等しいほどの不条理な行為だった。その目的だって、血迷った男子が婦女を誘拐して性的に暴行する、といった幼稚なものでもなければ、モラトリアム爆発して社会への不満をぶつける、というようなこれまた稚拙なものでもない。

 そんなこと、何の意味もない。泡沫ほうまつに消えてなくなるだけだ。よしんば例え世間に広まったとしても、たった一ヶ月でみんな忘れるだろう。このエンタメ過剰供給な時代、大学生が中学生女子を攫ったとて、そう大した問題にはならないのだ。多くの人にとってそんなこと大して興味はないのだ。『あら怖いわねえ』そんな他人事な声が既に聞こえて来そうなほど、興味がないことは明らかすぎる。だから、そんなことする価値がない。

 冷静に俯瞰ふかんできてしまう、冷めきっている。

 ではなぜ、そんな現実に覚めきった、夢から覚めきった青年が、こんなことをしたのか、せざるを得なかったのか。

 そう聞かれると、自問自答すると、椥辻の思考は濃霧に包まれる。こんな勢いだけの行動、理性だけでなんて語れないのだ。

 なんとか理性に働きかけて、敢えて自ら学んだ概念で語るなら、それはリスクとリターンが噛み合うから、その一言に終始した。

 犯罪行為とは、それを行うことによって得られる精神的な利益と物理的な利益が、犯罪を行うというリスクを凌駕した時に生まれるものである――。

 故に、椥辻にとってのこの行為は、これからの人生を棒に振るよりも重要で、生きることに欠かせない、そんな誘拐行為にあたることになるわけで。

……いや、お笑いだ。どう考えても破綻している。

 誘拐したところで、椥辻はなにも得しない。むしろ損するだけだ。得るものは犯罪者という肩書きだけだ。


 だが、全くもって間違いではない。


 阿波礼を喪うくらいなら、自分が先に壊れていい。


 全く笑えるヒロイズムだ。買い被りも甚だしすぎる。けれどそれが本心で、馬鹿な自分の辟易する本心であることは、やっぱり疑いようもなく。


 だから、いい。阿波礼の為ならなんでもしよう。


 だって、椥辻はこの誘拐行為を、この先一度だって後悔しないのだから。


 これからも長く続いていく人生で、この誘拐を、大きすぎる間違いを、長い旅路の末にやっぱり間違っていなかったと結論付ける事ができるのだから。


 だって、実際、それが全てだったじゃないか。

 真っ赤に燃える山の向こうとさざなみの間で、真っ白い少女である物部阿波礼を抱きしめた時、彼女からこぼれ出る全ての悲しい言葉聞いた時、やはり間違えていなかったと、確信を持つことができたじゃないか。


 それが幾度となく繰り返される出会いと別れの物語だったとしても、毎度死ぬような思いをする恐ろしい経験だったとしても。


 それでも。


 それでも――。


 を救うことが出来たのだから。


 死んでいたら一生後悔することになるだろうその黄昏時の一瞬を、椥辻は間違わずに間違えられたんだから。


 その少女を、誘拐できたことを。


 ずっと抱えて生きていく。功も罪も両方を。


 抱えるだけの意味がある。


 だからこれからも、斎宮椥辻は間違え続ける。


 間違えが、間違えのまま終わらない為に。


 ただ生きるためではなく、生きているということを感じ続けるために。


 異常識の中、常識で生き続ける為に。

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2024年11月9日 06:00
2024年11月9日 18:00
2024年11月10日 06:00

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