第二章 蠢動含霊

一 山狩

 陽暦ようれき十九年 丹省たんしょう 省都しょうと岐杏きあん


 春である。

 桃の花が咲き誇り、金衣公子きんいこうしの鳴く声が春を告げるこの季節。(※金衣公子……鶯の事。ただし名前の通りその姿は黄色)

 新たに登用された若き官吏達が城の中で右往左往しながらも、しがみつこうと必死に動き回る様は何とも初々しくもあり、当人達は目まぐるしくもあるだろう。

 春というのは何かと忙しい時節でもある。新たな官吏の登用もあるが、人が浮き足立つ時節でもあるのだ。何かと都も騒がしく、事件も後を絶たない。軍も忙しく動き回ったりと、お陰でこの季節は何処の府も人手不足だ。

 

 そんな穏やかとは縁遠い、春麗らかな日和の頃合い。忙殺と言わんばかりに、尚書府しょうしょふ(※文書管理などの仕事)もまた忙しくあった。そこは蚩尤が雷堂と共に六年前に、尚書郎しょうしょろう(※尚書の見習い)に任命された府でもある。

  

 着任して早六年。二人の立場は未だ学ぶ事は多くも職務に励まねばならないものである――――のだが、文官となって六年目のこの春。尚書府に二人の姿は無かった。二人は現在、官府かんふ(※役所)どころか省都にも姿が無い。

 二人が今いる場所、それは――



 ◇



 緑深い山間部。空を覆い尽くすような枝葉の重なりが光を遮り、辺りは夕暮れと見紛う程に薄暗い。そんな、人里から離れた山深い獣道を進む群行が、無遠慮に獣達の領域を犯していた。

 群行に組みされた者達の様相は物々しく、皆同じような鉄製の鎧甲がいこう鉄冑てっちゅう(戦闘用の帽子)を身につけ、帯剣した姿。皆同様に腹帯ふくたいは同色に染め上げられ、剣やちゅうの飾り房も全て赤色である事から、群行が丹省軍である事は明らかである。


 これから何が始まるのか。中には新兵なのか、若い顔立ちがちらりほらりとあるが、どの顔も緊張の面持ちで足を進めている。まるで、恐ろしい何かと対峙する時を恐れてでもいるかのようだ。

  

 群行は山奥へと進む程に、小隊に別れた。そこからさらに、六人程度の編成へと分隊する。

 しかし、これから何かと対峙するにせよ、訓練にせよ、その行軍は何かと騒がしいものだ。草を踏む音だけでなく、小枝を踏み、小石を蹴り、時に鞘が梢や幹に当たる。これが狩りであればとんだ間抜けだ。

 が、新兵は戸惑う様子があったが、隊を率いる者や、慣れた足取りがしっかりした者は寧ろ進んで音を立てている。

 山に潜む獣達は、早くに気配を察知し群行を警戒して近づかないだろう。

 しかし、それは山を行く者達には好都合。これから始まるのは、丹省軍による山狩りである。だが、その山狩りの標的はでは無いのだ。


 とある小隊の先頭に立つ男が、ふと足を止めた。左手を軽く上げて、背後に続く者達へと注意を促す。

 先頭の男が剣を引き抜けば、それが合図であったのか。

 

 行軍の足が止まった事により、山は静寂が呼び戻された。

 嫌に静かだ。ざわざわと梢がぶつかる音すら聞こえず、緊張からか誰かが唾を飲み込んで喉を鳴らす。

 先頭に男が辺りを警戒し、何かの気配を探るように目配せした――その時だった。


 がさり――。

 茂みを掻き分ける僅かな物音を、先頭を行く男の耳が捉えた。



 ◇



 所変わって、また別小隊の分隊。

 散り散りとなった分隊の一つとして、蚩尤と雷堂は二人で山間を歩いていた。

 二人もまた足取りは無遠慮に音を立てる。自身がここにいるとに対して位置を示す為としか思えない行為を、更に深い山奥へと入ろうとも続けた。

 二人の姿は少しばかり異質だったかもしれない。軽装ではあるが軍服は着用せず、兵士達のように鉄の鎧甲がいこうではなく、革製の胸当てと籠手程度の軽いものだ。

 二人だけではあるが、それこそ新兵のような緊張感は無く、足取りも山歩きに慣れた軽いものだった。


「来たな」


 何、という事もなく、蚩尤は独り言のように呟いた。


「前方から、三……いや、四か」


 雷堂の足取りは軽々としていたが、木々の奥底を見つめた眼光は鋭い。雷堂の背には馴染みの大刀が装備されて、利き手である右手は指の先にすら警戒の色が見え、いかなる状況でも動けるだろう。

 

 だから、だろうか。二人が、一層警戒を強めたのは同時だった。


 地が鳴る。大型の獣が駆ける音が、聞こえてほんの三つ数えた頃。行手を塞ぐように、前方より二体が姿を現した。


 黒い獣の姿。どちらも、虎に似ているだろうか。しかし、通常の虎よりも一回りは大きい。

 目は赤く妖しい輝きを放って、とは言い難い。

 その赤い目、黒い毛並み。そのどちらもが特徴と言えるだろう。

 人はそれを、『妖魔』と呼ぶ。


 蚩尤はその姿を前にして鞘へと手をかける。しかし雷堂は反対に、蚩尤の背後にありながら、視線は今の今、歩いてきた獣道へと向いていた。

 

 雷堂の行動には気付いているだろうが、蚩尤は構わずへと向かって踏み出した。

 山深いその場では真っ当に戦える場など無い。茂みは深く、足場は悪い。木々の間隔もそう間広くはない為、適当に剣を抜き振れば、どうなるかなど想像するまでも無いだろうか。

 地の利は山に棲まう者にあると言って良いだろう。当然、妖魔もそれに当たる。

 蚩尤が踏み出したのと同時に、虎も蚩尤へと焦点を定めているのだろう。どう――と豪風でも駆け抜けるかのような音と共に虎は動いた。四足で走る凄まじいもの勢いのまま地を踏み鳴らす。標的を捉えた目に迷い無い。


 だが、それは蚩尤も同じだった。差し迫る二体の妖魔を標的として蚩尤は駆ける。十歩も行けば、もう妖魔の一体とぶつかるという距離。そこで、蚩尤は急に足を止めた。ずずっ――と足が滑るが姿勢は崩れない。

 それを好機ととったのか、妖魔二体は駆ける勢いのまま蚩尤へと牙を剥き出して後ろ足で強く地を蹴って飛び掛かった。跳躍は一直線。蚩尤は着地点を見定め、妖魔の直線から僅かに身体を右方へと逸らす。

 狙いは、妖魔の首だ。

 その狙い通り。ダン――、と体重を乗せた妖魔の着地は地を抉る。同時に、妖魔は再度蚩尤へと飛び掛かろうと地を踏みしめる。その一瞬の隙、蚩尤は剣を抜いた。

 

 抜剣は瞬きの間だった。

 蚩尤の剣撃は躊躇いも無く、妖魔の首を狩る。喉を裂き、脊髄の隙間へと到達した深い斬撃は、妖魔のおどろおどろしい黒い血を噴き出させた。黒を吹き散らした一撃で、妖魔の赤い目から光が消えていた。

  

 しかし、次の瞬間には、もう一体の妖魔が倒れる妖魔の影から飛び掛かっていた。


 蚩尤は一歩下がる。妖魔の軌道は蚩尤の手前で、爪も牙も届かない。その地に着いた瞬間の動きが止まった妖魔の頭頂部へと、蚩尤は剣を突き立てた。


 頭蓋すら貫くその勢い。頭を貫かれた妖魔の目は光を失い、その場へと大きな音を立てて崩れ落ちた。


 妖魔が息絶えた姿を蚩尤は一瞥するが、それはあくまでも剣を引き抜く為であって、妖魔に向ける一抹の感情もない。

 ずるりと引き抜かれた剣の等身は黒い血で染まる。蚩尤は剣を一度振るって払うも、べとりと纏わりつく黒は中々にしつこい。その為に用意していたであろう手拭いを当て、念入りに拭い去る。しかし目線は、雷堂がいたであろう場所へと向いていた。

 だが、目線を向けるまでもなく、雷堂は既に蚩尤へと向かいつつ「こっちは終わった」と声をあげる。その手には大刀が握られて、蚩尤の剣と同じく刃は黒く染まっていた。


 当初の予測では、妖魔は四体。前方からは二体しか現れていない。蚩尤が、後方を見やれば、大型の猿と狼らしき姿の妖魔が血を流して転がっていた。


「やはり後方に回り込んでいたか」

「大した事は無かったがな」


 軽口を返すが、言葉通り雷堂の身には頬に返り血が付着しているだけで傷は無い。雷堂もまた、刃から血を拭き取る。それが終わると、また気配を探るように目配せしながら蚩尤の隣に立った。


「この辺りはまだ少ない。奥へ行こう」

「ああ、折角の機会だ。奥まった所まで行きたい」


 二人は得物を今一度鞘へと戻すと、再び歩き出した。

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