第一章 冬の都

一 馴染み

 陽暦ようれき十二年 丹省たんしょう岐杏きあん


 ひらり、ひらりと白雪が舞い降りる。陽皇国ようこうこく最北端と言える丹省の雪は軽い。さらさらとした雪が深々と降り積もり、冬の化身とも言える白仙山はくせんさんの影響か、一度雪が降ればそれこそ街は埋もれてしまうほど。恐らく、冬の息吹が濃くなれば今年もそうなるだろうか。今はまだ、降り始めて淡く道を染める粉雪に、戯れ付く子供の声も賑やか。冬は始まったばかりで穏やかだ。


 しかし空模様は分厚い雲が空を覆って、そろそろ本格的に降り出しそうな……そんな、まだ昼前の頃合い。ギンッ――と金属がぶつかり合う音が曇天の空に鳴り渡った。


 ◇


 白雪が舞う。白く染まりかけた鍛錬場の片隅に、蚩尤しゆうはいた。十二年という歳月で、巨躯と呼べる程の四尺よんしゃく八寸はっすん(※約百八十二センチ)にまで伸びた上背から注がれる眼光が捉えるのは、黒い衣を纏う一人の男の姿。身の丈こそ、四尺六寸五分(※約百七十六センチ)と蚩尤よりは低いが、ひょろりとした蚩尤に比べて身体付きは武人を思わせるほどに逞しい。精悍な顔立ちに備わる金色こんじきの瞳は蚩尤を射抜く目で捉え、僅かな隙も見逃しはしないだろう。重心低く身構えたその腕には大刀の姿。長ものである大刀の大きさたるや、柄だけでも六尺六寸(※二メートル)。その分、重さも伴うわけだが、金色の瞳の男――雷堂の隆々とした筋骨はものともしていなかった。


 とはいえ、蚩尤も黙って見ているだけではない。その手には抜き身の直刀両刃の剣を携え、雷堂へと向けていた。

 蚩尤の足は、じりり、じりりと。結えた長い髪をほのかに揺らし、白く染まった地に足跡を残しながら、雷堂との距離を今にも詰めんと間合いを測る。蚩尤の目は至って冷静だ。が、それは雷堂も同じだろう。


 よく見れば、二人の足元はすでに何度と雪を踏んで土色に戻っている箇所がどれだけもあった。その上に、また雪が積もってまた白く染め上げる。その繰り返しか。


 今にも白雪が舞い落ちる音すら耳に響きそうなまでに、しじまが続いた――次の瞬間、蚩尤の長い髪がなびく。地を滑るようにして低くした身が、一瞬にして大刀の間合いへと入り込んだ。不意を突く、巨躯に似合わぬ素早い動き。今にも斬りかからんと下段から剣を振るっていた――が、雷堂とて油断は無かった。


 雷堂は軽々と大刀を横薙ぎにした。びゅう――と、空を斬る。その勢いは今にも蚩尤の腹を割く勢い。それでも、蚩尤の目にはその軌道が映り、後退するかと思いきや、そのまま雷堂の背後へと転がり込んだ。すぐ様に体勢を立て直し剣を向けようとしたが、雷堂は身のこなし軽く身体を捻る。勢いを生かしたままの大刀が、再び蚩尤へと襲い掛かろうとしていた。今度ばかりは、蚩尤も間合いから出るしか無い。蚩尤はあっさりと後退し、そうしてまた、睨み合いである。

 

 剣呑として、気迫がぶつかり合うような空気。もう今日だけでも何度と剣を交えただろうか。まだ続ける気合いばかりの二人だった。が、突如、どう――と冷たい風が吹き抜けると、それも止まった。

 何故だか、風に邪魔をされたような。気を逸らされてしまったような。あまりの冷たい風がそうさせたのか、蚩尤は肩の力が抜けていた。


「今日はここまでにするか」

 

 それまでの気迫が嘘のように、蚩尤はあっさりと剣を鞘に納めた。細身で上背があるからか、剣を収めた姿勢良い立ち姿は、武人というよりは文官のよう。しかも、気迫が鳴りを顰めた顔は、感情を表すのが苦手を言った具合に無表情なのがまた、腹の中を暴かれないとすると文官のそれと重なった。よく見れば、濃紺の衣も上等な綿。地面の上で一度転がったものだから、上等なそれは土と染み込んだ雪で濡れているのだが、蚩尤にそれを気にする様子は無い。

 

「ああ、雪が酷くなりそうだ」


 丹省特有の寒さに慣れたが故の同意か、金の瞳を曇天の空へと向けながらも、大刀の刃を鞘に納めていた。


 動きを止めた身体は少しづつ高まった熱を奪っていく。吐く息が白く、冬が一段と濃くなったような気がして、蚩尤の双眸が冬の化身たる方へと向いていた。

 そう、北。蚩尤は十の頃に、丹省へとやってきた。その頃から変わらず、白仙山が聳え立つ。何も語らず、無口な姿は湧然とした姿だ。蚩尤もまた、その瞳が何か語る事もないが、幼い頃に宿した憧憬は今も忘れてはいなかった。


 しかしそうやって眺めていると、邪魔が入る。


。吹雪でも来そうだ」


 既に汗が冷え始めたのか、雷堂が口を出す。確かに白仙山の山頂に目をやれば、灰色の曇天よりも更に黒い雲が山頂を覆っていた。だからと言って、今直ぐに嵐が来るわけでもない。丹省の冬に慣れたとはいえ、用事も無いのに長居は無用と言いたいのだろう。蚩尤とて、寒さに慣れただけで到底に敵うものではない。雷堂の言葉通りに、ひと足先に歩き出せば、雷堂も続いて肩を並べた。二人の歩く姿は昔からの馴染みそのもの。雷堂の蚩尤に対する態度も、それだろう。単純に日課の鍛錬の相手として丁度良いとでも言うように、今の今していた手合わせの事など気にも留めていないようで、蚩尤から溢れた言葉は全く関係の無いものだった。


「そういえば、よう女士じょし(※女士は女性の尊称)からお許しは貰えたのか?」


 取り止めのない会話のようにも思えるが、何気なく問いかけた蚩尤に対して雷堂の金の目は明後日の方へと向かいながら、「なんとか」の一言だけだった。


「おい、大丈夫なんだろうな」


 蚩尤は呆れた口調で返す。しかし、雷堂の反応は今ひとつである。


「あー……軍部に入れって言われた」


 先程までの激闘が嘘のように、雷堂は現実から背けるかの如く、あらぬ方向を見つめたまま。とうに成人は超えた歳(※成人は十六歳)であるにも関わらず、現実逃避をする雷堂の口調は苦々しいものがある。

 そもそも落ちる――とは、科挙試験の話である。陽皇国において科挙試験とは、官僚採用試験と言っても過言ではないだろう。この試験に受からねば、どれだけ家柄が良かろうが、金を積もうが、官吏にはなれない。陽皇国で世襲は極一部であり、雷堂はそれに該当しない。その試験から、雷堂は逃げているわけではないのだが――既に、二度落ちた雷堂の心中は芳しくは無い筈だ。その上、武人としての師でもある叔母――楊女士とやらに苦言を呈され、楽観的にもいられない様子だった。


 そんな雷堂の姿を一目見て、蚩尤は励ますのかと思えば、普段から冷淡と言われるまでに冷めた表情を変えなかった。


「そうか、短い付き合いだったな」


 抑揚の無い声は、他人が聞けば突き放した冷たい言い草に聞こえるだろう。しかし、雷堂は蚩尤の口調に気分を害する様子も無く。

 

「おい、落ちる前提で言うな」


 と、慣れた調子で言い返していた。

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