三話 猟師と鬼鹿と白狗ー3

 巨大な二頭は真っ平らな雪原を荒らしながら揉み合ったものの、白狗の腹に突き上げられた鬼鹿の一撃によって距離が出来た。「ギャンッ‼」と悲鳴を上げた白狗は偲の隣に倒れ、跳ね上がった雪が豪雪のように降りかかる。


 目元に降り注いだ雪を掌で払えば視界が明ける――円の形をした青空が、そこにはあった。中心には金環日食のような瞳孔があり、偲がそこに自分の顔が写っているのが見えた。


 ただ見るだけ、見られているだけ。一人と一頭が明確に互いを認識し合ったのは、ものの数秒だった。白狗はすぐさま立ち上がると、再び杭のように尖り細長い弧の形に羅列する牙を剥き出しにして飛びかかった。


 突如始まった二頭の闘い。偲はその大迫力に唖然として硬直した。だが傷口に触れる冷風がもたらした痛みによって、すぐに思考を取り戻した。


 何だよ、コレ。いや、考えてる暇は無い。今のうちに逃げないと!


 二頭は強風を起こしながらぶつかり合っている。ザンザンと雪が大波のように舞い上がって、視界が目まぐるしい。意識が互いに集中している今が好機だ。痛む体に鞭打って立ち上がると、猟銃を拾いに向かう。雪に突き刺さっていた相棒は氷のように冷えていた。


 せめて銃と角だけでも!


 ひっくり返ったソリの下敷きになっている鹿の角を回収しに向かう偲の背後で、鬼鹿が優位に立った。頭を激しく降って棘角で白狗を殴り飛ばしたのだ。棘が身体に突き刺さり、白狗は先程よりも大きな悲鳴をあげてドオッと倒れた。


 身体に空いたいくつもの穴。白い毛並に赤が広がっていく。毛束を作って流れ落ちた血は、雪を溶かしながら沈んでいく。 


 ガウッ‼ と白狗は吼えた。威勢を張っているのだと偲にはわかった。立ち上がろうと脚に力を込めているが、激痛に苛まれてすぐに倒れてしまう。グルル……と地鳴りのような唸り声で威嚇するも、鬼鹿は怯んだ様子もなく、白狗に突進しようと左前脚で足元を削っている。


 鬼鹿にもわかっているのだ。この白狗が立ち上がれないのだと。


 白狗の青い目がパッと偲を捉えた。逃げろ! 逃げろ! 遠くへ! 眼差しがそう吠え立てている。獣の内心など、鬼鹿の殺意以外、偲には今までわかったことはない。恐怖が都合よくそう感じさせているのだろうか? 


「お前……」


 呟きに被せるよう、白狗は偲に向かって吠えた。迫力に気圧され、一歩後退してしまう。そのまま、恐怖から逃げ出したいという本心のまま、踵を返そうと身体が半回転したその時、鬼鹿が満を持して大地を揺らしながら駆け出した――。


 バァンッ! 白狗の吠え声と同じくらいに、硬く激しい音が鳴り響き、指先から上半身にかけて大きな衝撃が走る。わんわんとした残響が耳に残った。


 感じ慣れた反動だ。いったい、何の? ――俺が構えている猟銃しかないだろう。

 偲は唖然としながらも逡巡し、自分が発砲したことに気付いた。銃口の先にいるのは鬼鹿である。銃弾は鬼鹿の角の根元に被弾し、罅を入れ欠片を雪にばら撒いていた。撃ち落とすにはあと五、六発ほどは命中させなければならない。だが、偲は角を撃ち落そうと打ったのではなかった。なぜか、撃っていたのである。


 感情的に何かを考えるより先に、なぜか体が精神から切り離されているくせに、勝手に動いたのだ。そこに意識が追い付き、自分の身体が何をしたいのかが脳に伝わる。


 目。


 たった一言、たった一文字。それだけの伝達だったが、何をすればいいのかは瞭然だった。


 鬼鹿は標的を偲に変え、勇みながら突進してきた。さほど距離が離れているわけではない。逃げても追い付かれる。しかし、偲の足は地面に張り付いたように動かなかった――逃げるつもりなど毛頭ないので、動かす必要もない。視界の端で、白狗が雪崩を起こしかねない咆哮を轟かせながら藻掻いたのがわかった。


 素早く腰の巾着袋から銃弾を取り出し、装填する。


 なぜだろう。俺に向かって猛進する鬼鹿の動きが、やけに緩慢に見える。あんなに薄ノロだったっけ?


 焦燥や恐怖が凪いで、意識が晴れやかになった――のは一瞬で、怒りが突沸する。


「調子乗ってんじゃねえぞ‼」


 引き金を引くと、引き金と逆鉤の噛み合いが外れ、撃鉄が起き、撃針を叩く。撃針は弾の雷管を叩き、その一瞬の過程を経て、銃弾が発射された。


 バァンッ‼ 


 偲の憤怒を宿した一発の銃弾は、鬼鹿の四つの目のうちの、左目上の眼球を撃ち抜いた。


 ぎぃいいぃいぃぃいぃぃいぃッ‼


 牡鹿は絶叫しながら、跳び上がるように後ろ脚のみで立ち上がった。痛みに嘆いて無防備になった首筋に、白狗が渾身の力で喰らい付く。鬼鹿は暴れ回った。生を渇望する命懸けの抵抗だ。今までで一番力強く、そして激しかった。


「あっ!」


 白狗が降り飛ばされ、力無く雪に落ちる。鬼鹿は戦意喪失しており、トドメをさすことなく奇木の森の中に逃げ込んだ。大量に出血している。どこかに逃げ込んでも、きっと血の臭いで肉食動物が寄って集り、弱っている所を捕食されるだろう。肉は獣たちの糧となる。死の過程に人間の干渉があれど、その命を終わらせるのは森の獣たちである。自然の摂理に従って散った命の骸は、そのまま自然のありのままに委ねる。それが、的場の猟師たちが先祖代々受け継いできた自然との共生の掟だった。


 偲は少し安堵した。もしも鬼鹿を討ったとしても、その肉や角、骨を活用することは憚れた。肉は毒となり、毛皮と骨と角はお守りの品ではなく呪いの品になりそうだと思ったのである。もしも鬼鹿の死骸をどこかで見つけても、その毛皮も骨も角も頂戴することはない。


 偲は振り返り、未だ横倒れになっている白狗にゆっくりと歩み寄った。


 俺は、あの白狗と共闘したってことなのか?


 白狗が山の神なのか、それとも妖の類なのかはわからない。ただの獣ではないのは明白だ。 


 助けてくれた、ってことでもいいのか?


 偲はゆっくりと、ぐったりとした白狗の顔の前に立った。今まで気付かなかったが、左目の周りに火傷の痕のようなものが広がり、毛は生え整っているものの、間近に見ると違和感があった。左耳の先端は歪に失われている。もともとは、右耳と同じようにピンと立っていたのだろう。


「お、おい、お前」


 白狗に人間の呼びかけが通じるかはわからないが、何か鳴いているということは認識できるはずだ。予想通り、白狗は、白く長い睫毛と共にゆっくりと瞼を上げた。そして、金環日食の如き瞳孔に情けなく怯えた表情の自分が写った――その瞬間、白狗は唸り出す。


「はっ⁉」


 慌てて距離を取り、猟銃を構えた。さらに白狗の唸り声が低く、重く、響く。

 急に敵対心を露わにした白狗の内情がわからない! 


「何だよ、急に唸って! 俺たち、一緒に鬼鹿を撃退した仲だろうが!」


 自分を救ってくれた、共闘したと自意識過剰に喜んでいたが、あれはただ鬼鹿を狩ろうとしていただけだったのだろうか。巨大な餌を重傷を負いながらも逃してしまい、一番近場で在り付ける餌と言えば、鬼鹿に比べてちっこい人間の雄。


 餌判定が早すぎる!


 だが、と考える。あの眼差しは――逃げろと言ってくれていたようだったのに。

 理由はどうであれ、救てもらったようなものだ。何もせずに、この場から逃げ出すが吉かもしれない。この白狗も、しばらくは動けないだろう。


 白毛に血が凍り付いている。だが、出血が続いている箇所は生温かい血の臭気を放ちながらしとしとと流れ落ちている。


 ……鹿の二、三頭くらいは獲って来てやるか。


 偲は銃口を下げようと猟銃を動かした――「撃たないで」


「……ぇ」


 声になり損ねたかのような、力の抜けた声が漏れ出た。人の声だった。まだ若い、少し高さのある、変声期に入り立てのような少年の、懇願する声。この白狗を知る人物が、自分を止めようと声をかけたのかと周囲を見渡してみるも、どこにも人の姿は無い。


「やめて」


 また、たしかに声が聞こえた。偲は恐るおそる、白狗へと向き直る。


 白狗は、偲をじっと見つめていた。耳が伏せられ、ずり、ずり、と激痛が駆け回る身体を必死に後退させている。唸り声を響かせている喉元。牙がずらりと並んだ大きな口が開いて、暗闇に満ちる喉の奥から、再び「やめて」と少年の声が弱々しく懇願した時、偲は呆気にとられ、その数秒後勢いよく銃口を向けた。


「何者だ、お前! 人語を解し話す獣なんて、今まで一度も……いや、そもそも獣なのか⁉」


 白狗はゆっくりと間を空けてから「ぼく」と言った。


「よくわからない。ごめんなさい」


 瞳孔が小刻みに揺れている。今にも気を失いそうなのだ。だが、相手が猟銃を向けているので懸命に意識を保っている。白狗は、この長い筒が自分を殺傷する武器だと理解しているらしい。獣以上に知能が高い獣だ。


「ぼく、わからない。ごめんなさい。何も悪いことしないよ。大丈夫だよ。だから……もう、撃たないで」

「もう……?」


 白狗の言葉に抱いた違和感。この白狗は、すでに撃たれる痛みを知っているらしい。


「……」


 偲は逡巡したのち、猟銃を雪原に落とした。すると、白狗は驚いたように瞳孔を広げて偲を凝視した――まるで、自分の懇願を聴き受けてくれるとは思ってもみなかったかのように。


「……ありがとう」


 白狗は脱力したように、頭を雪原に落とした。その瞬間、白狗の身体がしゅるしゅると縮小しながら姿を変えていく――人間の姿へと。


「え、あ、は? お、おい、お前……」


 偲は、自分も気を失いそうになった。獣が人に変わり、人が獣に成っていた?

 白狗の体毛と同じ髪色をした、骨と皮だけに痩せた、けれども身長は自分よりも少し低い程度の少年。自分とはあまり年齢も変わらないだろうと、生気のない顔立ちから推測される。左目と頬に薄い火傷の痕が見える。


「いったい、どういうことなんだ……」


 連れて帰るのは危険だ。けれども、命の恩人でもある。やはり、置いていくべきだろうか。しかしこのまま放っておいて、羆や狼の餌食になられては寝覚めが悪い。そんな遺体も見つけたくはない。人の血肉の味を覚えた肉食動物の対応だって大変だ。結局のところ、置いていくのは悪手だ。


 ソリを引っくり返し、少年を乗せた偲は、緩やかに続く傾斜を踏ん張りながら登り始めた。


「あーっ、くっそ!」

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