二話 猟師と鬼鹿と白狗ー2

 その時、雪を大飛沫のように蹴散らしながら前方から一頭の鹿が疾走してくる。その巨大さに、偲は絶句した。今しがた獲った鹿も雄の成獣で、立った場合一七八センチの身長の偲の胸元に頭が来るほどには大きい。だがその鹿は、それよりもさらに大きい――目の前にまで迫ったならば見上げねばならなくなるほどに。


 距離が近付くほど、その鹿の異質さへの気付きも増えた。その鹿には目が四つあり複眼で、前脚と後ろ脚の中間に、あと一対の脚があった。角は茨のように棘があり、その鋭さに殺傷力の高さを悟る。突進されれば串刺しは間違いないだろう。人間の腹など貫通できる。


 ――鬼鹿の特徴と一致している。


「アイツが鬼鹿か⁉」


 偲は咄嗟に猟銃を構えた。だが、無謀なのではないかという不安が過る。鬼鹿の筋肉質な体に、この猟銃が通用しそうにない。数々の獣に相対して培った猟師としての勘だった。


「くそっ!」


 逃げなければ、と踵を返す。だが、膝まで積もった雪を中を俊敏に動くことなどできない。そんな脚力、人間には備わっていない。常葉樹の陰に隠れる。足の裏から全身に伝わる地面の震動が徐々に大きくなり、常葉樹の表に雪が叩きつけられる音が走った。ゴウ、ゴウ、と荒く低い鼻息が響き――餌に歓喜する咆哮が轟いた。呼気が白煙のように天へと昇っていく。


 何だよアイツ、凄まじくデカいじゃないか! 


 話には聞いていたが、まさかここまでとは誰が思おうか。想像をはるかに凌駕する巨体と異相に、偲は息を殺しながら内心で怒鳴った。


 常葉樹から顔を覗かせ、鬼鹿の行動を確認する。木が倒れるように、鬼鹿は頭を倒して牡鹿を捕食し始めた。牡鹿の胴体を銜えた鬼鹿は、草花を嚙み千切るように肉を喰い千切り、普通の草食動物が植物を食べる時と同じく磨り潰すように口を動かし咀嚼している。


 ただの化け物! 鹿の突然変異なんかじゃない!


 百年前ほどから、森の生物たちに異変が訪れたのだと村の老人が言っていた。彼らも自分の両親や祖父母に訊いたらしい。単眼に四腕の猿や、二対の翼を持つ梟など、これまでに見なかった突然変異たちが増加していったのだという。だが習性は通常の生物と変わらず、単純に突然変異同士が番い合って繁殖した結果の、変異の遺伝だという考察で終わった。


 鬼鹿に関しても、突然変異だろうという意見だった。だが、至近距離で鬼鹿を観察している偲は、突然変異ではないという確信した――別の生き物だ。形状が似ているだけの、まったく別の生き物。


 ガリガリと角の棘が常葉樹の幹を削っている。


 なるほど、前に見た羆の遺骸周辺の傷は、こうやってできたものだったのか。


 一つの謎が解けても、偲の内心はすっきりしない。今は解明を喜んでいる暇も余裕もない。鬼鹿がさっさと牡鹿を食べ終わり、偲に気付かず姿を消してくれるのを待った。


 骨を噛み砕く音が鳴り止み、牡鹿はブルルと口を震わせた。血の付いた鼻頭を、長い舌が舐める。複眼の瞳孔が蛙の卵の中のお玉杓子のように動き出し、偲はそのうちのいくつかと目が合った。


「はい最悪だ!」


 戦闘への突入は一瞬だった。鬼鹿は興奮したように嘶き、牡鹿の食べ残しを踏み潰しながら常緑樹を回り込もうと走り出した。偲は、猟銃の照準を鬼鹿の眉間に定め、すかさず発砲する――鬼鹿の頭が跳ねるように逸れた。フッと血飛沫が噴き上がる。無防備に晒された太い首に向けてもう一度発砲すると、銃創ができ、そこからたらたらと血が垂れる。だがその傷は、鬼鹿の巨体からすると小さな傷だ。


 鬼鹿は不気味なまでにゆっくりと逸れた首を戻した。創傷し、流血も確認できるが――


「効いてねえよな、明らかに!」


 四つの目、何十もの複眼の瞳孔のすべてが自分に向けられているという悍ましさ。冬の寒さよりも悪質に冷たい悪寒が背筋を吹雪く。表皮は柔いが、筋肉と骨が頑丈過ぎて猟銃では敵わない。かといって、有効的な武器を所持していない。鬼鹿を仕留めるとなると、どこか高所――崖から落とすくらいしか方法が見つからないが、膝まで積もった雪原を鬼鹿に追いつかれないよう走ることも不可能である。


「くそ、せめて森の中だったら!」


 状況を恨んでも好転はしない。鬼鹿は猛進し、角を突き出した。落ちるようにその場に伏せた。常葉樹の太い幹が一撃で軋んだ。バサバサと雪と白い葉が降り注ぐ。鬼鹿は何度も激しく幹に突進を繰り返した。


「やめろ化け物が!」


 装填し、一瞬で照準を鼻に定め発砲する――鬼鹿は絶叫しながら雪原を転がり後退した。頭をブンブン振って、鼻に空いた銃創から血を撒き散らす。鬼鹿が痛みに苦悶している間に、偲は角と猟銃をソリに投げ入れて北へと走り出した。北側は傾斜になっている。その先は普通の樹木が群生した森だ。ソリに飛び乗って、速度を活かして逃げるつもりだった。


「巧くいくかはわからんが!」


 全力で雪を蹴り、脚を上げて進む。鬼鹿はビイ、ビイと甲高くも濁った悲鳴を上げて、自分の痛みで精一杯だ。


 冷たい冷気が肺を痛めつけ、偲は咳き込んだ。剥き出しになった肌は冷たいが、体内は熱い。


「羆を喰うくらいなんだ、人間だって捕食対象になるよな!」


 巨大な羆に競り勝つ存在。今までこの鬼鹿の被害者が現れなかったのが幸運だっただが、今自分が最初の被害者になろうとしていることが不運である。


「死ぬつもりもねえけどッ!」


 白い地平線が途絶え、雪を被った樹冠が見えてくる。偲は安堵した心地になったが――背後から重く力強い足音が接近してきたことによって、すぐに気は引き締まった。ちらりと振り返ると、鬼鹿が雪飛沫を高々と上げながら目を充血させて猛突進してくる。


 ソリを押し、走る。徐々に速度が着いてきて、偲は慌ててソリに飛び乗った。刹那、鬼鹿の蹄が背後スレスレを叩き潰す。


「あっぶねッ!」


 ブルル! と鬼鹿は鳴いた。


 ソリはどんどん加速し、鬼鹿との距離を離していく。だが、鬼鹿も諦めない。すぐに追いかけてきた。せっかく離れた距離も、徐々に追い詰められていく。


「いい加減諦めろやクソ野郎!」


 腹の底からの怒号に怯んでどこかへ行ってくれ。そう都合の良いことなど起きないとしっているが、もうそう願うしかない。


 だが、不運は続く。ソリが失速し始めたのだ。傾斜徐々に平行になり、けれどもまだ奥の森までは距離がある。


「嘘だろ嘘だろ嘘だろ‼」


 切迫しながらソリから飛び降りようと足を下ろした瞬間、鬼鹿がソリに突進した。鋭く尖った角の棘が右の二の腕と左脚の太腿を斬り裂き、痛みと冷気が混ざり合う。鬼鹿は頭を激しく上げてソリを天高く投げ飛ばす。偲の身体も吹っ飛んだ。風圧に煽られながら、ソリは積雪に落下した。雪が緩和剤となって体への衝撃は抑えられたが、傷口に響いたし尻もちを着いた。痛みで体が竦む。


 鬼鹿は振り返った。そして、充血した四つの目と複眼で偲を見下ろす。鼻先の血も眉間から流れる血も、すでに凍り付いていた。


 猟銃は離れた場所で雪に突き刺さっている。「クソッ!」と罵り、鬼鹿を睨み上げた。


 生臭くて生温かい息が髪を揺らした。複眼がまたギョロギョロと動き回って、鬼鹿は竿立ちになり、前脚を高く上げる――立派な巨木のようだ。蹄で自分を踏み潰そうとしているのだと理解した。偲は不意に、膨らんだ腹を撫でる清子の笑顔を思い出した。


 蹄が迫る。


「あー……ごめん、姉貴」


 痛みを堪えるよう息を止め、目に見える死の接近から目を閉じた――その瞬間、ドドッ、と力強く雪が踏み締められる重い音と、雷雲の中で蠢く雷のような唸り声が突如として耳に飛び込んできた。鬼鹿の――草食動物の名残ある鳴き声ではなく、まるで肉食獣の……狼や犬の唸り声と酷似している。


 瞼の裏に差していた影が数段明るく光度を上げた。偲はバチっと目を開く。鬼鹿にも引けを取らない巨大で、雪のように純白な何者かが、鬼鹿の首に喰らい付いていた。


「――は?」


 それは、冬の化身の如き、一頭の巨大な白狗だった。


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