序章 猟士
白狗が突出した岩石に身体を打ち付けながら崖下へと落下していく。岩と岩がぶつかり合っているかのような重く硬い衝突音が、深々とした夜の中で大きく聞こえている。ドボン、と水面に物体が叩きつけられる音を最後に、崖下は沈黙した。
猟士の哀れみは、嘘偽りなく本心だった。白痴へ捧げた謝罪も、間違いなく。崖下へと撃ち落としてしまったことへの罪悪感がさらに募る。まだ若い化者だった。振り返った時に見えた火傷の痕が痛々しくて、そして真冬だというのに薄いボロ布を着ていた。女物の柄と継ぎ接ぎになっていたので、きっと、殺した母親……二人、一人と一頭で暮らしていた山奥の小屋で喰い殺されていた女の古着で賄ったのだろう。全体的に細く痩せ、頬もこけていた――こびり付いたような微笑みは、まるでこちらに取り入ろうと取り繕われたものだった。白痴と呼ばれていたことからも、どんな生活を送って来たのか、想像に容易い。生まれた瞬間から不幸なまま生き、初対面の他人に撃たれて崖から落ち、氷のように冷たい水に叩きつけられて……その先で迎える死がどれほど無念なものかは、男にはわからないが。
「
追走してきた騎走号から降りた男が、ゴーグルを上げながら駆け寄ってきた。猟士――
「死にましたかね?」
「命中したぜ、一応、ちゃんとな。水に落ちた音がした。多分、川だな」
耳だったのでまったくの致命傷にもならないが、嘘は言っていない。青年は「一応?」と訝し気に眉を顰めたものの、すぐに表情を和らげた。
「積雪が衝撃を和らげたとしても、この崖から落ちて無事では済まないでしょう」
「それはどうかなあ。無事ではないだろうが、奴は化者だ。結構しぶといもんだぞ」
吐く息が煙草のように白い。零はとてつもなく煙草が吸いたくて堪らなくなった。だが、化者を取り逃がした手前、依頼人たる村人たちの前でそんな不真面目な姿を晒すことはできない。煙草の真似事のように、息を吐く。しない方がよかった。近付いてくる松明の光に溶ける白い息が、さらに喫煙欲求を増幅させるだけだった。
「猟士さん! 白痴はどうなりましたか⁉」
「撃たれて崖から落ちた」
村人たちの表情に安堵が広がる。松岡晋三が人の群れを掻き分けながら出てきた。
「で、では、死んだということですか⁉ イサナの仇は獲れたということですよね⁉」
「化者はしぶとい。この崖から落ちても生きてる可能性がある」
順序を入れ替えただけの先ほどと同じ説明をすると、村人たちは一様に青ざめた。零は首だけをもう一人の猟士に向けた。
「
零が言ったように、崖の真下には川が流れていた。傾斜になっており、流れも速い。今は雪が深く積もっているが、昨日は朝から豪雨に見舞われていた。その雨は夕方には大振りの雪に変わった。その結果が今の雪景色である。水量は多少減ったものの、恐らく脱力した鹿や猪の成獣でさえも押し流されてしまうだろう。そこに巨大な白狼の死体は無い。かといって、人間の死体も無い。川から上がって雪の大地を這いずったような形跡も、また同様だった。
村人たちは篠原が素手で何をしているのか見当がつかないと眉を顰め合っていたが、一人が「異能力者か?」と呟いたことで息を呑んだ。彼らは内心で意気投合していた――ここにも、化け物がもう一人。
不躾な視線を浴びながら、もう少し観察したのち、篠原は口を開いた。
「あの化者の死体は見当たりません。さらに先を視たかったのですが、私の異能の強さでは落下地点までしか見えませんでした。申し訳ありません」
「まあ、謝るな。でもそうか、死体は見当たらねえのね」
「はい。川に流されたようです。生き延びてどこかに漂着しても、じきに動けなくなって飢えて死ぬか、凍えて死ぬでしょうね」
「ってことだ。別に失敗じゃない」
あの化者の生命力が俺らの想像を凌駕するほどじゃなければな、という考察は、文句を言われそうだったので黙っておいた。村人たちは懐疑的な表情を浮かべていた。異能力者の言を信じるのは憚られるものの、専門家がそう言っているのだから、間違いないだろうと無理矢理納得しようとしているのがわかる。
「はい、じゃあ、村人のみなさん、もう夜も遅いし、村に帰ってください。あとのことは、俺たち猟士組合に任せてくださいねえ」
わざとらしい敬語で村人たちを追い払う。村人たちはがやがやと話しながら、言われたとおりに踵を返した。口から出たのは白狼の化者や篠原への侮言だ。「黙って帰れよ」と文句を言ってやろうかとしたその時、振り返った前方から一粒の光がこちらへ向かって来ているのに気付いた。
騎走号の排気音が近付いてくる。三人目の猟士の登場だ。
「
なぜ彼までここに? 現場で待っていればよかったのに。
「零さん、篠原、あの女性の死体ですが……」
「どうした」
「あの白い少年が喰い殺したものではありません。また別の存在です」
「別の化者?」
無実だった、ってことか。じゃあ、あの化者が言っていた「おかあさんを追いかけて」というのは、自分ではなく母親を喰い殺した真犯人を追いかけろということだったのか。
化者は嘘つきだ。人に化けて人の営みに紛れ込み、獣に化けて人を喰らう。存在自体が嘘塗れである。白痴の発言も、自分を欺くための方便だと思った。
「白狼の母親を喰った化者はの特定は?」
「形跡がありましたので、済んでいます……厄介な奴でした」
「厄介な存在?」
考えうる中で、厄介な化者の候補がいくつか挙がった。だがその中でも頭角を現す四体の化者がいる。
色欲島の
大食らいの
これらの化者は
零は逡巡した。色欲島の食人華はその名の通り、京東湾に浮かぶ遊郭島にしか出没しないし、願望姫の忠犬は江戸時代の言い伝えから伝聞が続いただけの実在しているかも不明確な存在だ。ともすれば、有力なのは、雨の夜に出現する雨夜の人猿か大食らいの紅熊。雨と厄介な化者を掛け合わせると、雨夜の人猿に辿り着くものの、雨が降ったのは昨日の日中だ。人猿が人を捕食する時間帯ではない。狩りの方法を変えたとも考えられるが、今回は犯人ではないだろうと確信する。なぜならば雨夜の人猿の直近の被害報告は、ここから五日ほど騎走号を走らせなければならないほど遠く離れた土地で挙がった。いくら化者でも、全速力を以てしても一日で距離を進めない。最短で三日が妥当だろう。騎走号のような乗り物に乗ったとしても、それでもやはり四日はかかるだろう。
除外を続けて、残されたのは大食らいの紅熊。秋頃に別の農村の村人五十六人を喰い殺したのち、出没報告がぱったりと途絶えたので、冬眠にでも入ったかと思っていたのだが……。
「紅熊か?」
零の予想は的中していた。田上は頷いて「血塗れの足跡が、現場の床に」と付け加える。篠原が血相を変えた。
「山狩りしても見つからねえわけだ。なんせ、奴は冬眠せずに起きてたんだからな」
「なぜ、奴は冬眠しなかったんでしょうか」
篠原が訪ねる。紅熊の捜索時、篠原の異能力――接触感応は重宝されると同時に酷使された。月月火水木金金を繰り返すこと七週。懸命な捜索にも関わらず、それでも何の成果も得られなかったので、上層部からは叱責された。結果を出さなければ努力など意味はなく、そして評価にもならない。四十九日間の疲労と理不尽な叱責への怒りを思い出すと、紅熊への殺意が雪を解かすような熱波となって滲み出た。
寝ていればすぐに見つけて殺してやったのに。
「獣であり人でもあるからな。獣の性に従って村を襲って食い溜めしたが、人間は冬眠しねえからただ喰っただけで終わった。一応、どこかで寝返りくらいはうってたんだろうよ。その期間が、出没報告が絶えた時期だ」
起きていると腹が減る。生きているならばみな同様だ。なので、紅熊はこれからも人を襲って喰い殺すだろう。
「奴の行方は?」
「獣の姿でイサナさんを襲ったあと、町の麓まで降りて人になり紛れたようです」
田上が答える。雪に巨大な熊の足跡から裸足の足跡に変わった形跡が発見されたのだ。
「うわ、嫌だなあ。人の歯型の捕食死体が出て来るかもしれねえぞ」
「そうなる前に、町を探しに行きましょう」
「私の異能が、今度こそ活躍するといんですけど……」
「でも、町も割と広いからなあ……憂鬱だ。今夜は眠れねえぞ」
零は騎走号に搭載されている無線機を手に取った。通話ボタンを押せば、すぐにノイズが走った。少ししてから男の声が応える。
「こちら、猟士組合
「こちら、
「本部の猟士が、何故こちらに?」
虚偽の通報だと思われたのだろうか。無線機越しの通信士の声が疑心しているのがわかった。
「んなもん、俺が訊きたい。いや待て、わかる。嫌がらせだよ。本部の奴らは性悪が多いんだ」
「はあ……」
「とにかく、猟士を寄越してくれ。これは冗談なんかじゃない。どれくらいかかりそうだ?」
「支部から石凪村までは、騎走号を走らせて一日ほどはかかります」※この世界線の地球は約2.5倍の大きさ。
「そうか……でもまあ、要至急で頼むぜ」
「了解しました」
無線機を切り、騎走号に跨る。これからのことが億劫で、溜め息が出た。やはり息は白く凍り付き、舞い落ちる雪に降りかかった。
煙草休憩はまだ先か。
胸元で温まる紙煙草がとてつもなく恋しい。
騎走号に跨った零を戦闘に、猟士たちは雪道を走り出す。夜闇に伸び三本の光が、右往左往と動いたのち、やがて整うようにまっすぐに向いた。
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