化者 ーケジャー 〜開闢の絆〜

綾川八須

序章 白狗

 走る、走る――雪に隠れた小石が足の裏を切り裂いても、小枝が突き刺さって食い込んでいても、木の根や蔦が足元を阻んでも、二手に分かれた母親のにおいの片方を追って白髪の少年は夜闇の中を駆けた。母のにおいのもう片方は、すでに後方に遠い。その後方から、大勢の人間と松明の火のにおいが追いかけて来る。


「待て! 白痴はくち!」

化者ケジャめ、本性を現しやがったな!」


 石礫いしつぶてが背中と頭を強打する。その衝撃で、青い両目から涙がボロリと零れた――左目と頬に、薄い火傷の痕が広がっている。口元は取り繕うように弧を描いて笑っており、切るような呼吸が繰り返されていた。背中を細く生温かい感触が流れ落ち、一張羅のボロ衣にじんわりと染み込んでいく。血だ。


「おかあさん、おかあさん。怖いよ」


 遠き母のにおい――血と獣のにおいを追って、白痴はがむしゃらに走った。


「この化け物め! イサナを喰い殺しやがって!」


 あの声は、松岡まつおか晋三しんぞうの声だ。白痴はいつもその男の罵声を浴びていたので、すぐにわかった。いつも怒気と軽蔑に汚れた声をしていたが、今は殺意まで加えられている。


 違う。ぼくじゃない。みんな、勘違いしてる。ぼくは殺してない。誰も食べてなんかない。


 声には出なかった。喉がすくんでいた。諦めもあった。きっと、誰も自分のことなんか信じてくれない。今までそうだった。狐が養鶏を喰い殺した時も、食人衝動の兆候だと言って殴られ、やってもいない罪の罰だとして顔の右半分を焼かれた。痕になった火傷は、今も寒気に引き攣っている。


「鶏が喰われた時に殺しておけばよかったんだ!」

「顔を焼いたから怯えて喰わねえと思ったんだよ!」

「くそっ! 猟士りょうしはどこだ⁉」


 村人たちが惜しみ声で怒鳴り合う中、聞き慣れない騒音が響き渡った。


ブゥウゥウウゥン――アメリカ合衆国から輸入されてきたオートバイの排気音。だが、村人たちはそれを別の獰猛な生き物の唸り声と勘違いして、次々と足を止めた。松明が照らす光を横切って、セピア色のオートバイが闇夜に飛び込んでいく。ヘッドライトの上から長い筒が伸びている――銃口だ。軽機関銃搭載狩猟二輪車【騎走号きそうごう】は、全速力を以てしても距離の縮まらない白痴の背中の真後ろに車体を並べ、銃口を定めた。


 ゴーグルの奥で、騎走号の操縦士は目を細めた。口元から首元に巻き付けた襟巻の中で唇を舐める。左側のグリップ、親指を伸ばせば届くボタンに触れた――そこが引き金だ。


 得体のしれない二輪の唸る鉄に背後を取られ、白痴は焦った。一瞬だけ振り返り、距離を測るつもりだった。だが光る大きな単眼を視認したその瞬間、恐怖に竦む足が絡まり、前のめりに体勢を崩して二回転した。しかしすぐに走り出す――四つん這いになって。


 人が獣のように走る姿は不格好だ。種族に合った姿ではないので、違和感がある。けれども、白痴が走ったのはほんの数歩のことだった。


 視界がぐっと高くなり、地面に着く掌と足の裏の感触が変化した。同じ四つん這いのはずなのに、ずっと何倍も走行が楽になるし、速度も増す。この走り方が正しい。二足歩行よりもしっくりくる心地だった。自分は、二本足で走るよりも、四本足で走る方が好きだった。母との約束で、久しくこの姿にはならなかったが――人間のまま逃げていては殺されてしまう。


「白痴が化けたぞ! あれが正体だ! 人の姿に化けた獣だ!」


 一頭の巨大な白狗しろいぬが飛沫のように雪を蹴散らしながら闇を駆け抜ける。眼差しは青く、顔の左半分には、毛が生え整っていて判りづらいが火傷の痕があった――この白狗は正しく白痴だ。


 騎走号の排気音が一気に激しくなり、速度が増した。村人は遠のき、白痴に追走しているのは騎走号一機のみ。一対一の狩りの状態が、一頭と一人の間で形成される。


 母と獣のにおいとは、いつの間にかはぐれてしまった。もはや、何を追って逃げればいいのかわからない。


「!」


 足元が濃い闇の海に差し掛かろうとしたのに気付くと、白痴は爪で地面を削りながら、ほとんど直角に右に曲がった。騎走号も倣って、こちらは余裕を持って曲がる。すぐ左隣には地面がない。崖の縁である。急斜面にから大小さまざまな岩が突出しており、万が一にも落下したら岩々に身体を打ち付けながら落ち続け、最終的には全身の骨が砕けて赤い犬型こんにゃくに成り果てるだろう。


 崖の縁スレスレを駆ける。積雪が足元を惑わしているかもしれないという恐怖心があるが、それでもすぐ右側に広がる森の中に逃げ込むことはできない。白狗の巨体では狭い木々の間に身体を飛び込ませるのは不可能だし、今人型に変わっても追い付かれてしまう。


 恐怖心と疑問が心を苛む。涙が溢れて、冬の冷気によって毛に凍り付いた。


 ぼくじゃないよ。ぼく、おかあさん大好き。ずっとお腹空いてたけど、だからって人を食べたりなんかしない。ぼくを追いかけないで――おかあさんを追いかけて!


 ガガン‼……銃声が鳴り、足元の地面が弾けた。白痴は勢いよく転倒し、雪を体で掻き上げながら地面を滑る。排気音が近付き、眩い光が目にかかる。騎走号に跨る男は、ゴーグルの奥で睨むでもなく、哀れむでもなく、至って標準的な眼差して白痴を見ていた。


 狩り慣れた目だ。


 白痴は、この男に殺されるのは自分が最初ではないと悟った。自分の前に、きっと何十人もの同類が――人と獣両方の姿と性質を持った者が、この男に殺されている。


 犬の口角で笑ってみせる。牙が剥き出しになった。


「ぼくじゃないよ。おかあさんを追いかけて」

「……何言ってやがる」


 低い声だった。怒っているわけではない、もともと低い声。


「ぼく、おかあさん食べてないよ。人間なんか食べないよ。だって、ぼくも人間だから。獣だけど、人間だから」


「お前、ずいぶんと喋り方が幼いな。村人の話では一七歳だと聞いていたが……本当はもっと下か?」

「ぼく、一七歳」


 猟士の眉間にしわが寄った。


「……虐待による幼児退行の一種か? 精神に負荷がかかると起きるとか何とか言ってたような……まあいいや。俺にはわかんねえし」


 肩にかけていた小銃を下ろし、銃口を白痴の頭部に定める。通常の小銃よりも口径が広く、対巨大生物用の武器だというのが一目瞭然だ。それを今、殺意と共に自分に向けられている。引き絞られるような甲高い獣の悲鳴が、喉元からか細くせり上がってきた。


「可哀想になあ。人が家畜を喰うように、お前ら化者だって人を喰っただけだってのに……次はまっさらな人間として生まれておいで」


 本気で哀れむ声だった。だというのに、白痴を憐れんでいるものの、容赦を与えてやろうという心積もりもないようだ。


 猟士は引き金に指を添え、力を込める。白痴は後退りした――後ろ足が虚空を踏み、がくんと視界が下がった。同時に、ガウン‼ と銃声が響き、左耳の先がカッと熱くなった。次いで痛みが駆け抜ける。身体の重さを白狗の前脚は支えきれず、何も掴めず、左耳の痛みの理由を理解できないまま、ついに体は宙に引き摺り下ろされた。


 星も月もない、夜の分厚い雪雲。一直線に伸びる騎走号のヘッドライトの光の中を、雪が降り落ちていく。猟士が、自分を見下ろすのが見えた。表情はわからなかったが、耳元でゴウゴウと鳴り止まぬ風に紛れて「すまねえな」と呟く声が聞こえた。

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