第8話 特急あじあ号。

「新京まで行くのは、初めてです」

 特急あじあ号の食堂列車の車窓から外を眺めながら、レイラはそんなことを言った。

 二人は今朝になって大連からこの列車に飛び乗って、寝台列車で休憩をとった後、先程まで遅めの昼食を食べていた。

 ここ数日の披露も相俟って、すっかり疲れ切っていたレイラは寝台で泥のように眠っていた。王様はというと、別にどうということもなさげであったが、彼女に付き合ってくれていたようだ。一人にさせたくなかったのかもしれない。

「ずっと、大連の周辺で仕事をしていたので」

 窓から見える景色は背中の方へと流れていく。ずっと緑が広がるだけであったが、それを眺めているレイラの顔は穏やかであった。

「そうなのか?」

 と、何処か意外そうに王様は聞いた。

「『別室』の仕事をするようになってからは、大連周辺からは、離れたことがなくて。私は『別室』預かりというのもあるけど、よその街にいけばよその街で煩いし、満鉄そのものがまた面倒くさいのですけど……」

 と言ってから、釈迦に説法の類だなと思い直す。

 本土の内務省から派遣されてきていた人が、ここらの事情を知らないはずがない。

「ふむ。鉄道に乗れば、すぐ新京にいけると思っていたのだがな」

「いや、それは……」

 新京まで701キロもの距離がある。これをこの特急あじあ号は時速130キロで走るが、それでも八時間三十分もの時間がかかる。大日本帝国における蒸気機関車としては最高水準の機関車であっても、そうなのである。

「到底、日帰りなんかできないですし」

「遠いな」

 感慨深そうにいうが、レイラは奇妙に思った。

 どうにもこの『しびとの王』には、基礎的な知識が欠けているような気がした。こんなことは内務省務めの人間なら基礎知識のことなのだ。

(あまり、気にしても仕方ないか)

 どうにもこの王様については解らないことが多すぎるし、分析は自分の仕事ではないと自分に改めて言い聞かせる。

 現場の諜報員が、妙な先入観で状況を見誤ってはいけない。

 この王様については、自分の仕事はあくまでもサポートだけだ。

 しかし何も知らないというのなら、自分は改めてこの鉄道について説明しないといけない。

「まず、大連から新京までの路線は満鉄連京線と言いまして……」

 これを運営する南満州鉄道株式会社は、設立から今に至るまで色々と満州にとって重要な役割を担っていたのであるが、ただの鉄道会社と違い、この会社にはやや特異な部分がある。

 レイラがいう「面倒なこと」というのはそれだ。

「特異?」

「ここには、調査部……みたいなものがあるんです」

 みたいなもの、というのはこの会社の内部でもはっきりと決まったものではないらしいからで、話を余計にややこしくさせていた。

「満州鉄道は満州帝国を縦断し、最終的にはハルビンまでつづく大交通機関ですが、それは同時に、各地に人員を配置し、連絡をとりあっている大組織であるということです」

「ほう」

 それだけの組織は、満州において関東軍以外では他にない。

 そんな組織にある調査部は、それだけにまた特殊な組織でもあった。


「そこから先は、私の方からした方がいいかな」


 と声がした。

 振り向くと、中肉中背といったふうなメガネの男がたっていた。身なりもいい。それなりの身分であることは知れるが――

「あなたは?」

「先程説明されていた、満鉄調査部の人間ですよ」

「……聞き耳をたてていたの?」

「いえ。まあ、そういう仕事ですからね。これは、お互い様でしょう。李麗蘭」

「…………」

 その名前は、一時期使用していた別名だ。あの時も満州鉄道を利用して移動していたが、その時に自分の名前は調査され、把握されたということだろうか。

 あるいは、『別室』の方からあらかじめ連絡が行っていたのかもしれない。

「まあ、立ち話もなんです。客室を用意しています。今回の件、内務省から連絡が入っておりますので。未曾有の大事件となりうるので、全てにおいて支援を願うとのことでしたから」



   ◆ ◆ ◆



「えーと、あなた一人旅かな?」

 テリー・マーベリックは、食堂室で一人食事している美女にそう話しかけた。

(おお、なんてこった。真正面から見たら、こんな美女は初めてみた)

 手慣れたようにテーブルの真正面に座り、そこらに立つ給仕に酒を頼む。こんな東洋の端の食堂列車に出る酒なんて期待していないが、この美女を前にして、話しながら飲むというのなら話しは別だ。

(完璧なテーブルマナーだ)

 ともくもくと食事をする美女を眺めて思う。

 この人は容姿だけではなく、所作の何もかもが美しい。

 テリーはアメリカ人である。

 ニューヨークから大連にきたのは商談のためであるが、それはまずまずの成果をあげた。

 新しい国、新しい街には勢いがある。

 それを見越して東洋の商習慣を学んだ上でやってきたが、なかなかに手応えがあって満足していた。

 しかし予定外の速さで仕事も終わると、今度は暇になる。大連はそれなりに豊かで猥雑な街でニューヨークに近しいところはあるが、やはり寒いし、故郷ほどではないと思う。早めに帰ろうか、と思ったが、ふと思い立って新京にまでいくことにした。

 商売が大連で上手くいったのなら、新京でも上手くいくだろうと、ひどく楽観的になっていた。

 人間、調子がいい時は、調子が悪くなるということを考えないものである。

 大連で雇った通訳は、突然の予定変更に難色を示したので、そこで一旦別れることになってしまった。

 新京でまた新しい通訳を雇う手続きをして、鉄道には一人で乗ることにした。

 テリーもこちににくる前に多少の勉強をしてきたし、身振り手振りである程度の意思疎通はできるという手応えも持っていた。

 そうしてのった「あじあ号」の食堂車に、一人黙々と食事をとる美女をみつけ、思わず口笛を吹いた。

 今まで色んな美女、美少女を見たが、その人は別格だと思った。東洋人にとってはわからないが、と心のなかで注をつけておく。自分と東洋人の感覚が同じではないという、そのくらいのことは心得ている。

 実際に、東洋人の云う美女というのは何人か見てもぴんとこなかったが、しかしこの人は違う。

 なんというか……顔立ちが整っているというのもあるが、所作が違う。なんというか、雰囲気からして違う。

(まるで、) 

 ああ畜生、学校で詩についてもっと勉強すればよかった、などと思う。詩は世界も時代も超えて相手に伝わる、といったのは誰であったか。祖母であったと記憶しているが、その言葉が確かなら、自分が英語だろうと切々と詩を語れば、きっと彼女にも伝わるに違いない。

 とはいえ、彼女は英語を理解してくれているらしく、彼の話にいちいち頷き、て笑ってくれていた。

 適当な相槌を打っているのではない、ということは解った。

 ちゃんとこちらの意図が解っている人間の所作だ。

 商売で多くの人間を見てきていた彼には解る。

 名前についてはなかなか聞き出せなかったが、それは東洋人の習慣なのだろうと思う。東洋では女性は基本的に自分を押し出さない。見も知らない西洋人と話すことなど、本来なら躊躇われる行為に違いない。

 しかしそれをおくびにも顔にださず微笑んでくれている。

(素晴らしい女性だ)

 勝手にどんどん解釈して、どんどん気持ちが高ぶっている。

 それでも名前は出さなかった彼女が、ついに諦めたように。

「十四妹」 

 と言った。

「変わったお名前ですね」

 あんまり東洋人の名前に詳しいわけではないが、自分がこちらで出会ったなかでは不思議な響きだった。

「まあ、そうでありますね」

 十四妹はそう言って微笑むと、テーブルに両肘をついてテリーの顔を覗き込んだ。

「少し、興味もでてきました。テリーさんのことを、こちらからお聞きしてよろしいです?」

「ええ! それは勿論、いくらでも聞いてください!」

 今の今までにも随分と話していたが、まだまだ話せる。新京につくまで八時間かかるというが、その間だってずっと語り続けることができるだろう。

 テリーは初恋の女の子と初めてデートした時のように浮かれていた。

 だからというわけではないが、給仕同士が側で日本語で話していたのが耳に届かなかった。仮に届いていたとしても、内容は解らなかっただろう。

「なあ、なんであの二人、言葉が全然違うのに話しが伝わっているんだ?」

「さあ?」

 給仕たちもそんなに気にすることでもないので、すぐにそのことは忘れた。


 

  ◆ ◆ ◆



「伊藤寛といいます」

 満鉄調査部の男は改めて名乗った。

 二人が通されたのは鉄道の内部とは思えない、まるで何処かの会社の社長室であるかのような、デスクと赤い絨毯の敷かれた部屋だった。

 ここは「あじあ号」の、調査部側の管理者の部屋だという話だった。

 王様は眉根を寄せた。

「調査部側?」

 レイラは補足した。

「セクト間の色々があるんですよ。きっと。それは、何処にでもあるでしょ」

「そういうことです」

 と伊藤。

 満州鉄道くらいの大組織になると、やはり色々があるらしい。

 内務省の『別室』も、街が変われば対立があったくらいだ。

 伊藤は軽く満鉄の組織について話すが、大方はレイラには既知のことではあった。

 関東軍を除いて、満州鉄道は満州帝国最大の組織である。それは同時に多くの人間を動員できるということであり、多くの人間がいるということは、おかしな人間が紛れ込みやすいということだった。

 それは例えば青幇の息がかかった現地調達の事務員だったり、共産党にシンパシィを持つかもしれない転向者だったり。

「そういう連中は、内務省からも問題にされているようですが、当然、私どもも懸念しております」

「なるほど……」

 相互監視というほどのものではないが、内部にどういう人間が紛れ込んでいるかわからないという都合上、満鉄調査部は内部査察も同時にこなさなくてはならなくなる、というわけだ。

 そういうわけで、内務省や関東軍などとも協調路線で情報収集と提供を行い、現状の満鉄調査部は、この国でもっとも優れた情報機関の一つといえるわけだった。

 とはいえ。

「いわゆる工作員は、ほとんどいません」

 まったくいないわけでもなく、現状ではトラブルに対処するのに十分ではあるが、将来的には解らない。

「もしも何事かあって、他の機関を敵に回せば、私どもでは対処できませんからね」

 そのようなわけで、『別室』からの依頼もあり、緊急事態という報告を受けて二人を全力で応援するのにやぶさかではない、ということだった。

 大連の支部は壊滅して、本部その他の支部からの応援というのも時間がかかる……ということもあって、満鉄調査部が二人を全面的に協力してくれることになったそうだ。そのことについては、あらかじめ、レイラも一応聞いてはいたのだ。ただ、満鉄としか聞いてなかったので、満鉄の何処の部署が、何処で接触してくるのかの説明は受けていなかった。

「今回の、八時間の短い旅ですが、全力で私たちが補助します」

「ありがとうございます」

「しかし――」

 伊藤は王様を見る。

 表情は変わらなかったが、何故か解った。

(驚いているのね)

 スパイであるから、レイラの表情に対する洞察はそれなり以上のものがある。同業者相手にはあてにならないが、それでも王様を見た彼が驚いているのが、なんとなく伝わった。

「えー、あの、この方が、内務省から通達があった方ですね」

「……どういう風にきました?」

「いや、全面的な協力支援要請というだけで」

 それもそうか、と思う。

「ぐ案件」ついて満鉄がどれだけのことを知っているのかは解らないが、恐らくはかなりのことを把握しているだろうけども、それでも「しびとのおう」というのは理解を超えた存在であろう。

 きっと色々と想像をしてきたに違いないが。

 王様は、見た感じは普通に、端正な顔立ちではあるが憲兵の一人にしか見えない。

 近寄れば、独特の雰囲気があるのだが。

 レイラは一息吐き。

「全面的な協力をいただけるということでしたら、あの、そちらが掴んでいる情報をこちらが知ることはできるのでしょうか?」

「それは、やぶさかではありませんが」

 吝かではない――――つまりは、伝えても問題はない程度に教えてくれる、ということだった。

 自分たちが困るようなことまでは教えないということでもある。

「私の名前をご存知でしたら、私が『別室』の嘱託であることはご存知ですね?」

「ええ」

「だからか、『別室』では今回の案件、私にはさほどの情報が下りてないのです。あるいは、漸次くる予定だったのかもしれませんが、襲撃を受けて『別室』は壊滅してしまいました」

「解っています」

「敵――敵でいいんでしょうか。恐らく目標と思しき女が新京に向かっているということは伝えられましたが、それ以上のことはまったくわかりません」

 それは本来、彼女の立場では知る必要がないことだった。

 ただ、彼女は決めたのだ。自分で選択すると。自分で選択して、この任務をまっとうすると。

 それは諜報員として今まで自制してきていたようなことから、自らを開放することでもあるとレイラは考えていた。

(どっちみち、『別室』の協力を得られるわけではないだろうし)

 自分で集めた情報を、分析官ではない自分自身で解析し、判断しなければならない。

 それはこの王様に同道する上でも必要なことではあると思えた。

 どうもこの王様、戦闘力は並外れているが、それはそれとして、諜報員としての知識をまるでもっていない。そのサポートのために自分がつけられたのだろうというところまで見当はつくのだが、『別室』がなくなった以上は自分がその分をどうにか補わなくてはならないわけで。

「今回の事件……ぐ号案件について、満鉄は何処まで掴んでいるのですか?」

 と聞いた。

「そうですね」

 と伊藤はデスクに腰をもたれさせた。

「少し、長くなりますので、私も楽な姿勢をとらせていただきます」

「はい」

「何処から話したものでしょうかね……正直、私も全容がはっきりしているわけではないのですが……」

 

「レイラさん、あなたは神の存在を信じますか?」

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