第7話 彼女は選択する。
「カトー、『別室』が壊滅したって本当?」
「本当らしいですよ」
「マイガッ あそこの室長は、話がわかるオジサマだったのに……」
「そうでしたっけ? 俺には食えないおっさんにしか思えませんでしたが」
「あれくらいは、この業界では標準よ。むしろあなたくらい間抜けなお人好しは珍しいわ」
「ですかね? 希少価値を認めてくれたっていいですよ?
「カトー、世界でただ一匹の蛆虫がいたとして、その蛆虫に価値がでると思う?」
「あー、言わなくていいですよ。了解了解。我らが可愛い小さな娘。地獄に堕ちろ」
「そこは宿泊先も予約済みよ。それにまあ、この業界、みんな、あなたも行く先は一緒でしょ」
「ちぇっ。可愛いこといってくれますね」
「あちらでも顔を合わせたくないから、できるだけ後までこないでくれる?」
「ははは。照れていますねえ。ツンツンってきて、デレっとする。これは受けます。きっと十年先には大流行しますよ。むしろ自分の中では最新最高のモードです」
「こないわよ、そんなの」
「でしょうかね? 少佐ほどではないですが、小官のインスピレイションもなかなかのものですよ」
「そう?」
「いやまあ、『別室』のあの人の顔も解らない程度でしたが」
「そうね。彼がちゃんと見えた人間、この街に何人いたのかしらね」
「その人が、為す術もなく殺されてしまうとは、つくづく恐ろしいですな」
「本当に。もう、逃げちゃいたいくらい」
「その時は、小官もお供しましょう。刑務所には差し入れをします。少佐は甘いものは苦手ではなかったですよね?」
「――――今のはブリティッシュジョークよ」
「少佐の国は、もう合衆国では?」
「そうだったかしら。まあ、そうかもしれないけど」
「お、実はダブルスパイだったとか?」
「冗談はよしこさん」
「そりゃあ、どういう意味ですか?」
「さあ。多分、何十年かしたら流行るんじゃないの?」
「ははあ」
「だけど、『別室』がいきなり壊滅とは、思ってもいなかったわねー」
「見えませんでしたか?」
「全然。――というわけでもないけど、こんなに急だとは思ってなかったよ」
「目撃情報によると、例の死者たちの群れの襲撃を受けたそうですよ。何十人、ことによると何百人といたという話です。恐ろしいものですな」
「そう」
「恐ろしく、ないですか?」
「恐ろしいわ。けど、もっと恐ろしいものがこの街にいるはずよ……」
「ははあ。それは剣呑」
「さて、どうしましょうか。正直、命を張るだけの給料はもらってないし」
「いっそ、二人で逃避行といきますか? 小官、地獄の底まで同行する所存ですぞ」
「――――ああ、それもいいわね」
「え。」
◆ ◆ ◆
『…………おねむりなさい、わたしのかわいいむすめ』
『ゆきのやんでるそのあいだ、せめてしずかにしておいで』
『とおいおひさまがでてるあいだ、せめてしずかにしておくれ』
『つめたいゆきがとけないあいだ、せめてはずかにしておくれ』
……夢を視ている。
これはいつもその時に聞こえる声だ。
これはいつもその時に聞こえる歌だ。
誰の声なのか解らない。少女の声のような気がするが、もっと年老いた女性のような気もする。年齢の解らない声だ。
そもそも、女なのかすらはっきりとしない。
誰なのだろうか、と気にならなくもないが、調べようのないことだった。
自分の中にある記憶が作り出しているのかも、よくわからない。
夢占いなどを調べたこともあるが、子守唄の聞こえる夢というのをどう判じたものなのか、その見当がつかなかった。
それともこれは、本当にあったことを夢に視ているだけなのかもしれないが。
(せめて、この言葉が何語か解れば)
なんとなく、意味は通じるが、何語なのかも解らない。
(ねえ、あなたはわたしのお母さんなの?)
声は何も答えてくれない。
(お母さんでないのなら――――)
教えてくれない。
(知りたいの)
教えて欲しい。
「わたしは、何なの?」
◆ ◆ ◆
「――――起きたか」
起き抜けにそう言われて、レイラは瞼を閉じた。
もう一度眠るもりではない。
「えーと、あれから六時間?」
体内時計で判断する。
王様は椅子に腰掛けて本を読んでいたが、「ふうむ」と何処か感心したように言ってから、しかし視線は本へと目を落としたままだった。
(何の本を読んでいるのかな)
と思ってからよく見ると、覚えがある紙カバーだった。顔なしの、いや、内海がおいていった本だ。
「えーと、」
頭が上手く機能しないが、記憶が何処で途切れているのかの確認をする。
(私が相馬さんを撃って、それで)
意識が途切れた。
そこまでは覚えている。
「あれから、どうなったんです?」
「駆けつけた警官どもが、処分した」
「ああ……」
突撃拳銃など室内で撃ったら、慌てて見に来るだろう。
「……ここは?」
「駅前のホテルだ。あの後で『別室』の生き残りがここを手続きしたとかいっていてな。それで俺が担いできた」
「王様が?」
「他におらん」
呆れたような声だった。
(他に誰かに運ばせればいいのに)
レイラは思ったが口にしなかった。
「まあ、それはその……ありがとうございます――てッ」
とベッドから降りて丁寧に頭を下げようとして、自分が裸であることに気づき、咄嗟にシーツで身体を隠した。
別に今更男に裸を視られても恥ずかしいわけではない。ほとんど反射的な行動だった。あと、自分の中の箍がどうにも緩んでいるという自覚はある。
(何、私、今更こんな、小娘みたいなことして……)
裸にひん剥かれて動けないでは防諜員失格であるので、丸裸で男と一緒に行動できるくらいの心理訓練は受けているのだ。実際に裸で大立ち回りという経験もある。その時はちょうど夏だったので、凍え死ななくて済んだが、冬だったらどうなっていたことか。
それに。
何か王様のことを変に意識していると思われても、嫌だ。
(ええい)
ままよ、とばかりにシーツをベッドの上に放り捨て。
「着替えの用意はあります?」
と平静に聞こえるように言ってみた。
「風呂場に用意してある。それも『別室』の者が置いていった」
「そうですか」
「あと、風呂場で俺が脱がしたお前の血まみれの服、散らかってあるので捨てておけ」
ひどい言い草だった。
「……了解」
と感情を噛み潰した声で言う。
血まみれのままにホテルにつれてくるというのはどういう神経だと思ったが、この人がまともではないということは、すでに解っている。
(血に汚れた服を脱ぎ散らかしたということは、床も汚れているのかな。掃除くらいはしておいた方がいいのかも……)
などとスパイらしからぬことを考えつつ、意識して堂々たる歩き方をして浴室へと向いが。
ふと気づいて足を止めた。
「王様も着替えたのですか?」
「――――いや」
なのに、まったく汚れ一つとしてない。
どうやって自分を運んできたのだろうか。
冗談だったのか、それとも、元より血で汚れてしまうような存在ではないのか――
「まあ、いいですけど」
そう言ってから、もう少し聞くことがあったと思いだす。
「あ、それから、相馬さんはどうなりました?」
あの状態からはそんなに長くはもたなかったはずで、屍体安置室の屍体がもうひとつ増えただけなのだろうが。
一応、聞いてみた。
王様はようやく顔をあげた。
「覚えてないのか?」
そう、真顔で言われて、レイラは意味が解らず目を白黒させてしまう。
王様はそこでどういうわけか渋面になり、「ちっ」と舌打ちした。
「忘れているのなら、それでよい」
そう言って、手早く憲兵服の上着を脱いで投げつけた。
「あと、若い女が裸でうろつくな」
「え」
「なんだ、その反応は?」
本気の不機嫌な視線を向けられ、レイラは「いえいえ」と言って上着を羽織、浴場へと向かった。これだけでは心もとないにもほどがあるが、まったくの裸よりはずっとマシだ。
(もしかして、照れている?)
今更、裸の女の一人や二人、なんてこともないだろうに。
レイラは少し笑ってから、相馬の最期の顔を思い浮かべた。どうして、今思いだしたのか解らなかったけれど。
彼女はスパイで、数多の技術を持っている。唇の動きで何を話しているのかを読みとる読唇術も、その一つだ。
「ごめんなさいね、相馬さん。あと、ありがとう」
涙は流さなかった。
彼女はスパイだからだ。
浴場の扉を開けて入ったあたりで「行き先が決まったぞ」と声が聞こえた。
「行き先?」
顔だけ出して聞いた。
「『別室』の連中が、例の女が関わっているだろう組織の人間を拉致して、拷問をかけて聞き出したという話だ。新京とやらにいくらしいぞ」
「ブラフの可能性は?」
「さて、な」
王様はそれっきり、なんの関心もなくなったかのように黙り込んでしまった。
「ふうん」
レイラもそれだけ言ってから浴室の扉を閉め、憲兵服を投げ捨てた。
「新京か――――」
行くか、行かないかの選択は自分でして欲しいと、あの顔なしではなく、内海さんは言っていたが。
「上等じゃあない。このまま何も解らず、何も知らないまま、逃げてたまるものですか。仇なんか討つ義理はないけど、理由もないけど」
絶対に、あの女に一矢報いてやる、そう誓った。
スパイらしからぬ、だが、それは紛れもなく彼女自身の意志であり、選択であった。
◆ ◆ ◆
「そうなの」
と、その女はホテルの窓から外界を見下ろし、言った。
報告した男は、それっきり沈黙した女の背中を見つめていたが、やがて。
「………どのようにいたしますか? このままでは、新京は奴らの手に落ちます。いえ、すでに奴らの町ではありますが――」
「今のところ、流れるに任せましょう」
女の声は歌うようだった。
「今回の計画、成功したとしても失敗したとしても、私たちにとって損はないですし」
「それはそうですが………」
むざと東洋人どもに主導権を握らせ続けるというのは――とこぼすが、女は「あなたもしつこいわねえ」と何処か呆れるようだった。
「生前、東洋人に負けたのがそんなにショックだったの?」
「姫様、それは………」
「解っています。失言でした。お詫びします」
そう言って神妙に、丁寧に頭を下げる。
「おやめくださいませ」
「あなたの忠節がどれほどのものだったのか、死んでなおも仕え続けているあなたがどれほどの得難い存在なのか、今のわたしは身にしみて解っています」
「………ありがたいお言葉を」
「いつかあなた達に報いねばならないと思い続けて………もう四十年近くたちます」
女は再び窓へと向き直り、駅へと視線を注いだ。
「いずれ、またいずれ、いつの日にか、またいつの日にか、そんな日が続いて、夜を超えて、超え続けて、もう四十年近く。―――ですので、あなたたちに報いるためにも、このたびの計画は成功していただきたいところです」
「それは………」
「失敗すれば、その時は、私たちの出番ですが………まだ準備が足りません。まだ、足りません。その日がくるまでも、私は待てますが」
「私どもも」
東洋人たちにいいようにされるよりはマシですし、という言葉を彼は飲み込んだ。
彼は、彼が自ら仕える姫が東洋人たちをさほど悪く思っていないということも知っていたし、今回が失敗したとして、次に彼らの番が来るのがだいぶん先になるだろうことも理解していた。
それでもなお、過去の怒りと屈辱は、無念は、収まりようがない。
奴らの今回の計画が、自分たちにも大いに利益があることと知っていてなお、彼らが主導権を握って今回の計画が進むことについて、我慢するのが精一杯だった。
(姫様が俺たちに対する忠義を果たそうと考えているのは、ありがたいことだ。それは本当にそうだ。だが、そのために東洋人どもに頼るのは………)
この無念が、どうして解らないのだろうか。
そう思ってから、いや、と落ち着いた。
自分たちの無念などこの方が味わったそれらに比するものではない。
あの最期を知る者ならば、姫様と比してどちらがより不幸だなどと、考えるだにおこがましいと思う。
自分も、あのような最期をあの一家が迎えたのを知っているが故に、今もなお仕えているのである。
ふっと、姫様が、笑った。
口元の綻びに嫉妬を覚える。
その理由を彼は知っていたからだ。
「あの娘も、新京に行くのね。本当に、今回の計画はどうなっているのかしら、そして―――」
笑みを深めて、彼女は眼下の街で、自分を見上げる憲兵服の男の視線を直視して。
言った。
「『死人の王』とは、果たして………」
転章
相馬市郎は目を覚ました時、ここが地獄でないのにすぐ気づき、怪訝な顔をした。
見慣れた病院の一室だ。
殺風景な白い壁の染みにも、見覚えがある。
いや、まだその時は、ここがあの世かもしれないと疑い続けていたのであるが。
「ようやく、起きましたか」
目覚めてしばらくして入ったそう言ったのが『別室』の生き残りだったので、そこで自分は生き残ったのだと理解した。
理解はした。
だが、理解し難い現実だった。
「なんで俺は死んでない?」
「それは、わかりかねます」
そう言ったのは医者であったが、彼の様子を見て首を傾げている。
やはり、自分が今生き延びているのがおかしいということなのだろう。刀を心臓に刺され、胸の中心を照明弾で至近でふっとばされた。胸骨が根こそぎ砕けたのが解った。あれで生き伸びられたというのが奇跡の類だ。
「いや」
と医者は言った。
「生き延びられたかというと、少しまだ断定するのには早いかと」
「そんなに、身体はボロボロなのか」
長くは持たないのだろうな、と思った。
「そうでもありません」
「―――?」
「確認できる限り、あなたの身体で現在骨折している箇所はありません。疲労によるものが右手にありますが、これは古いものですね。あなたの証言どおりならば、胸骨が原型を保っていることは有りえませんが――全て、ひび一つはいっておりません」
どういうことだろうか。
あの女仙人が、何かしたのだろうか。
簡単には死なないような術かけていたとか、目を覚ましても仲間を殺すための暗示をかけ続けられているとか。
どれとも違うようではあるが。
「その代わり、心拍数、体温、全てが人間のそれの半分ほどに下がっています」
「―――は?」
「今、あなたは生きているはずがないのです」
それは。
一体。
「検査の結果、あなたの身体は生きていません」
死人になったということだろうか。
あの、鬼たちの同類になったと。
「目立った外傷も――一つだけ、左の首筋に、二つだけですが」
確かに、包帯が撒かれている。
「獣の牙のようなものが挿された後です。心当たりは?」
そんなものの記憶はないが。
指を包帯の上に当てると、不意に蘇った。
最後の、あの時、血の中に沈む寸前、レイラが顔をあげていたのだ。
妖しく笑い、彼を抱きしめるように腕を伸ばしていた
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