第6話 猪谷流、相馬市郎。
内務省別室随一の剣の使い手と言われた男が、声もなく彼女たちを見た。
「相馬さん」
と言ったレイラは、相馬の様子がおかしいのに気づいて駆け寄るのを辞めた。
元より、仲間を皆殺しにされておいて普段と同じ態度でいられるはずなどないのであるが。
「レイラ」
「……相馬さんは、無事だったんですか?」
「無事に見えるのか?」
それは、と言いかけて、やめた。
相馬という男について、レイラはよく知らない。色々とやりとりしたことは確かであるし、世間話程度ならば何時間もした。いつも待ち合わせの場所で頼むのはキャラメル入の珈琲で、砂糖菓子を好んで食べていた。しかし自分は甘党ではないとも主張していた。なのに甘いもの以外を食べているのを彼女は目にしたことがなかった。もしかしたら食べ物の好みさえも外部嘱託の人間には知られたくなかったのかもしれない。
二十代半ばほどの若さに見えるが、もしかしたらもっと年配かもしれないし、もっと若いかもしれない。
ここ二年ほどの付き合いであるが、剣術の達人であるということは知っている。共闘したことも三度だけある。その時はステッキの一本でアメリカの屈強な工作員五人を瞬く内に制圧していた。
『別室』きっての使い手であるとは顔なしが言っていたが、それは恐らく事実なのだろう。
「…………無事では、ないのですか?」
「見たとおりだ」
ネクタイを外して、髪はぼさぼさ、目は血走っている。
推論するに、昨晩は『別室』にはいなくて、よそにいたのだろう。仮にも諜報員ならばセーフハウスは複数持っていて当たり前で、アジトに全員がいるとは限らない。
『別室』が壊滅したとは言っても、生き残りのメンバーはまだ複数いるはずだ。
その内の一人で最強の剣士である相馬さんならば、申し分ない。
はずであるが。
何故か。
「ここに、誰かきたのですか?」
自分たちの前に。
どうしてか。そんなことを聞いた。
「勘がいいな」
ゆうるりとした動作で、相馬は立ち上がる。
「ふうん」
と王様が、何処か感心したように声をあげ、前に出た。レイラをかばうような位置だった。
「……あの、」
「下がれ」
その言葉に何も言わず、レイラは後ろに引いた。
相馬は眉をひそめる。
「レイラ、彼は?」
「俺のことは、俺に聞いたほうがはやかろう」
王様は不機嫌そうに言い、相馬は「それもそうか」と頷く。
「失礼を。僕は内務省大連別室の相馬です」
と丁寧に挨拶した。
王様は、しかしそれを無視するようにして。
「あの女が先に来ていたのか」
とだけ言った。
「あの女!?」
それはあの、昨日の仙人を名乗っていた女のことか。
「それが誰のことだか、僕には解らない」
相馬は視線を床に落とす。
「だけど、女には出会った」
「それって」
「僕が『別室』が壊滅したのを知ったのは夜が明けたばかりの頃だ。僕はこの三日ほど、『ぐ案件』で難儀している日本の諜報組織の会合のためにでかけていた。君も知っているだろうけど、この大連には僕たちを含めて『満鉄調査部』、『関東軍調査室』の他に、『海軍防諜』だとか複数の組織が支部を作って人員を派遣してる。それで互いに協力できてればいいのだけど、同じ日本人なのに足並みが揃わない。揃えようともしない。馬鹿みたいだよね? いっそアメリカやソ連の諜報員の方が話が解るってものだよ。まあ、ソビエトも中国共産党とアメリカ共産党、フランス共産党で同じ思想のはずなのに対立しあっているが。イデオロギィなんて嘘っぱちだと思うよ。あるのは利益とそれの取り分……どういう分配をするかってことで組んでいるだけだ」
「相馬さん!」
レイラは声を上ずらせて叫ぶ。思想なんて信じていない。彼女もそうだ。自分がこの街で諜報員などをしているのも、惰性のまま、他にできることがないからそうしているだけでしかない。
だが、そんな言葉をここで聞きたいとは思ってなかった。彼女は思想を信じていないが、思想を信じて闘っている者たちには、ある種の敬意と憧憬のようなものを抱いていたのだ。
相馬は鋭い目でレイラを見てから、薄く笑った。
「ごめん。ごめんな。レイラ。君が自分の居場所を探していたのは知っていたよ。君が五族協和みたいなスローガンを信じていたのは、『別室』の人間はみんな知っていたよ。あんな夢物語を信じているなんて、馬鹿みたいだなって、それはみんな知っていたんだ」
「……何を、」
「だからさ。外部嘱託の君が裏切るなんて、信じている人間は誰もいなかったんだ。実は『別室』の人間は、そういう意味で君を信用していたのさ。まあ、哀れんでもいたけどね。いや、本当に。変なところが子どもだなあって。だから正式に職員とはしなかった。幻滅させたら、共産党とかに鞍替えされてしまうからかもしれないからもね。赤なんてとんでもない連中さ。思想教育されたら、君だって転んでしまうかもしれない。君は、何せ僕たちにとって一番使い勝手がいい道具だったんだから―――」
聞くに堪えなかった。
どうして今こんなことを言っているのか解らず、そしてその言葉にショックを受けているという自分の心情が信じられず、レイラは呆然と立ち尽くした。
「そうか」
と王様は言った。
「あの女、随分と働き者のようだな。―――何をされた?」
「………何って、」
相馬は少し視線を天井に巡らせて。
「何だったのかな。何をされたのかな。よく解らない。そうだ。僕は会合をしていてね。その最中に『別室』のアジトが襲撃を受けていると知って、それで援軍を連れて帰ろうとして、止められた。ものすごい数の鬼たちに襲われているって。会合には元羽黒修験と高野山の坊主がいてね、あの数ではどうにもできない、自分たちの半端な験ではどうにも対処しかねるって、ふざけたことをいうんだ。それでも確かにそうだとその時は納得したけど、納得はできなかった。納得なんてできるものか。自分たちの仲間だったんだ。尊敬できる上司だったんだ。事務に雇っていたユーファは、来月半島に帰る予定だったんだぞ。新開は故郷に婚約者がいるんだ。こんな土地でむざと殺されていいわけないじゃないか。それでも俺は我慢して、朝まで待って、警察にきた。警察に屍体が運びこまれているっていうからさ。俺以外はこなかったよ。俺以外の生き残りは、一般の警察官の前に姿をだしたくないって理由でこなかった。畜生。糞が。糞どもが。俺たちの仲間の屍体なんだ。せめて俺たちが手続きくらいしてやっても、いいじゃないか。そう思ってきたんだ。きたら、そうだ、そうだ、あの、あの、あの、あの、ああ、あの女がいた」
途中から感情が昂り、自分のことを「俺」と呼んでいることに、相馬当人は気づいていないようだった。
そいつは「あら、忠義の士は東夷にも一人はいたということね」と静かに笑った。
持ち込んだ二尺三寸の清麿の鯉口を切るのに、ためらいはなかった。
それが危険な存在だということは一瞥して知れたからだ。
神速を謳われた抜刀からの抜きつけの一撃、続けての連撃が、全て当たったのを知って愕然とした。
異様な感触があった。
硬くも柔らかくもなく――しかし刃が通らなかったのだ。
「刀を見たら、だけど刃こぼれの一つもなくて、」
「禁呪か」
王様はするりと腰の刀を抜いた。
「古い呪いだ。火を禁ずれば即ち火は消え、水を禁ずれば濡れることもなく、刃を禁ずれば、その身は決して金瘡を受けることもなくなるという」
その言葉を聞いて何を感じたのか、息を吐き、落ち着いた様子で相馬はいう。
「そういうものがあるのか。そういうものか。僕は知らなかった。知らないままに絶望した。逃げ出したかった。けど、逃げられなくて、逃げたくもなくて。だって、ここにいるのは仲間の屍体で、あの女は、それを鬼に変えるって―――」
「…………ッッ」
「そんなの、許せるはずがないじゃないか。だって、その人、内海さんを、あんな安らかな顔をしている、内海さんを、術者だから、一番強い鬼にしてやりましょうかって言って………」
(ああ、この人は内海というんだ)
名前を知った。
レイラの中で、顔なしは顔なしではなくなって、穏やかな顔で死んだ、おせっかい焼きの内海という男になった。
「俺は、後生だからやめてくれって、泣いて頼んで、泣いて、喚いて、そうしたら、あの女は、」
いいですよ、その代わり
と言った。
「ふむん。あの女、仙人と言う割には随分と俗っぽいな」
王様はそう言って。刀を下げたままに前へと進む。
「あなたは………?」
「抜け。いやしくも剣士ならば、最期は剣士として散れ」
「あ、ああ………そうか、そうなのか。あの女が言っていたのは………」
相馬はそこで口を閉じてうつむき。
何処からか清麿を取り出して、抜いた。
「猪谷流の、相馬―――相馬市郎だ」
「『しびとのおう』」
その言葉と共に、二人の剣士の刃は霊安室の薄闇の中で閃いた。
(何が始まったの……?)
屍体安置室いっぱいにおかれた部屋の中で、二人の剣士が闘っていた。
――と、言葉にするだけでもありえない光景だった。
まだしも、鬼たちを一人の憲兵姿の男が殺しているというのが現実的にさえ思える。
だが、この悪夢的な光景は現実で、そして目の前で二つの刃を振るう者たちはこの上なく真剣だった。
(けど、なんて……)
恐ろしくも、美しい光景だった。
相馬という剣士が猪谷流というのを、初めて彼女は知った。
彼女は剣術を知悉しているわけではない。中国武術も日本剣術もそれなりにかじりはしたが、地方のマイナーな流派など知らない。剣術など一体、日本に何百あるというのか。
確か以前に会ってちょっと話したことがある藤田西湖という忍者がいうには、剣術1247流があるというが、胡散臭い男だったので事実かどうか解らない。
猪谷流――新陰流の名人と言われる柳生厳包の弟子であった猪谷和時が、師匠との不和があって別れ、宮本武蔵が創始したという円明流を学び、他に制剛流居合も入れて息子の代で大成されたという剣術流派だ。
長く尾張の地で栄えたという。
相馬はその剣術の継承者の一人として、長く大陸で戦い、多くの屍を築き上げてきたのだ。
しかしその刃の閃きは、今は内務省別室のために内地より派遣された「しびとのおう」に向けられている。
どれだけの時間が過ぎたのか、二つの刀は幾度も交差し、しかし互いの肌に触れることもなく離れた。
「あなたは、何者だ?」
と相馬は聞いた。
「俺のことは、聞いているはずだろう?」
「詳しくは、聞いてない。鬼退治の専門家がくるってだけしか聞いてない。素性なんかもまったく知らない。どういう理由かは知らないけど、レイラと組ませるという話しになっていたし、内海さんも何も言わないから、僕も気にしないでいたけど」
「ふむ」
「何流………いや、一体、いくつの流派を習得しているんだ?」
「ほう」
と、どうしてか、面白そうに言う王様。
「今のやりとりで繰り出した技が全部違う。一刀流から始まって、新陰流、馬庭念流、林崎流、東軍流、示現流………頭がおかしくなりそうだ。一人でいくつもの流派を習得することは、あることだ。僕も猪谷流以外に新陰流を別に学んだ。直心影流も学んだ。だが、僕がどれほど学んでいようと、使うのは僕一人だ。僕が使えば、僕流の技になる。だけど、あなたは、違う。
あなたは技を一つ一つを使うたびに別の流派になっている。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。頭がおかしくなりそうだ。
なあ―――本当に、あなたは何者なんだ?」
「さて、な」
王様は言ってから。
遊びすぎたか、と言った。
さすがに相馬もその言葉に怒り、眉をひくつかせる。
「遊び?」
「いや、少し気に入ったのでな。思い残すこともないように、全力をださせてやったと、そういうことだ」
「あなたは―――」
「誇れ、相馬市郎。貴様の剣、かつての剣聖剣豪たちの手前ほどの高みに至っていたぞ。あと一歩で、そこからさらに高い剣理を得て、むざと大陸の呪禁ごときに負かされるようなことはなかっただろうよ」
その言葉の意味をどう捉えたのかはレイラには解らなかったが。
相馬はしばし考えて。
「なんであなたにそんなことが解る?」
と言ってから。
「いや、―――そうなのか? そういうことなのか?」
何かを悟ったかのように。
それから、剣の切っ先を大上段に掲げた。
「雷刀からの一撃、僕の得意技だ。この技は、誰にも破られたことがない。内地の剣士たちにも、大陸で闘ったどんな剣士たちにも」
「そうか」
「それこそ、今新聞で大人気の宮本武蔵だって、防げやしないさ」
「―――そう、か」
そこで何の合意があったものか、二人は互いに無言になり。
王様は刃を下段に下げて。
するりと屍体の間を、歩み寄った。
それは駅前ですれ違う者同士のような、それぞれを意識していないかのような、自然な歩みだった。
互いが刀を持っていなければ、真昼の大通りを歩いているとでも思ったかもしれない。
ふっと。
王様の下段の太刀がゆるりと上がり、相馬の胸を突いた。
「え。」
と相馬の顔が驚きに歪んだ。
「惜しかったな。武蔵にはあと二歩というところだ」
「………ッ」
自分の胸に刺さる太刀を見つめた相馬は、そこから倒れるでもなく気合一閃に掲げた刃を打ち下ろした。
それが何もない空を切り裂いき、さらにその次の瞬間に踏み込み、両手突き、そして片手突き、と繰り出していく。
『死人の王』は、今度は刃を打ち合わせなかった。
するすると屍体の合間を滑るように後退してゆき、「どうした」と笑った。
「太刀筋が鈍っているぞ?」
「あ、あああ………畜生、なんて人だ………!
そんなことを悔しがりながらも、何処か笑うように言う。
その時に、レイラは少し頭が冷えた。
(王様の突きが浅かった?)
そのようには見えなかったが、しかし現に相馬は動き続けている。さすがに動きは鈍っているようであるが――
(意識があるから、鬼にされたわけではないと思うけど、あの仙人に何かされたのは確かで……多分、強力な催眠暗示のようなものをかけられた……?)
関東軍では阿片との併用で記憶を呼び覚ます研究が試みられていると聞くが、それも捗々しい成果があるとは聞いていない。
仙人が使う技がそれと同類なのか、あるいは似ているが別のものなのかは解らないが、鬼を操るなどということができるくらいならだから、きっと常人の想像を超えた催眠暗示が可能なのだろう。
それによって操られているだろう相馬は、つまりはまだ鬼にはされていない。
だから、心臓を突いたとしてもしばらくは動く……ということだろう。
人間の心臓は、場合にもよるが刃物で突かれたからと言ってすぐには動かなくなるというわけではないとも聞く。
しかしそれも時間の問題のようだ。
「相馬さん」
心の中で、記憶が浮かんでは消えた。
瞼を閉じた彼女は。
撃った。
ハンドバッグから関東軍複製の突撃拳銃を取り出して縦断を込めて構え、引き金を引くのに2秒かかからなかった。
凄まじい轟音と共に相馬の胸の真ん中に当たった。
「え。」
自分が出した間抜けな声を、相馬は耳にできなかった。
彼は壁に叩きつけられ、呆然と傷口から吹き出す血を見て、それから銃を撃ってから膝をついているレイラを見た。
「あ、ああ、そうか。照明弾だったのか、今のは」
本物だったら、自分の胸に穴が空くのは不可避であったろう。
少し前のめりになり、胸を押さえるようにしてもつれるような足でレイラの前にまでまろびでた。距離は五メートルと離れてなかった。
「済まないな。レイラ。本当は、あんなことをいうつもりはなくて、本当は、実は、僕は、君のこと、結構、気に入っていて、好きで、その、」
「ごめんなさい」
とレイラは顔をあげて言った。
「銃声で、今耳がダメになって、聞こえないの」
「―――は、しまらないな」
手から力が抜けた。
彼の身体から吹き出た血がレイラの顔を汚した。
あ、ごめんなさい、そう口にしようとして。
レイラの身体はふられと前のめりに倒れる。
そして、暗転する。
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