第5話 警察署にて。

 大連という土地にロシア人は「ダルニー」(Дальний; 「遠い」という名前をつけたと聞いた時は、なんの詩情もない素っ気なさに、あの国の人間はみんなそうなのだろうかとレイラは思ったりした。

 レイラはロシア語もある程度話せるし、もしかしたら自分の名前はロシア由来なのではないかと考えたこともある。

 そのあたりのことは未だによくわからないが、何処かの白人の血が混じっているのは確からしい。もしかしたらイギリスかフランスかもしれないが。

(いつか行ってみたいと、思っていたこともあるけど……)

 ソビエトのスパイとも随分とやりあったこともあるし、交流もある。

 一般人には夢のない話かもしれないが、案外と諜報員同士は現場では交流があるもので、壮絶な諜報戦の末に殺し合いだのが発生するということは、そう頻繁にあるわけではない。

 そういうこともないわけでもないが、縄張りが決まったら必然と棲み分けされるものである。

 このあたりは、犬もスパイもヤクザもさほど変わりない。

 丁度その頃にでてきた〝生物のすみわけ〟という考え方を、レイラも他の諜報員たちも知らなかったが、なんとなく経験則でそのようなものがあると理解していた。

 当然、そこに至るまでは複雑なやりとりがあり、血も流れた。なんなら、今も流れている。

 ただでさえ政治的に複雑な経緯で成立したというのに、大連は日本帝国から膨大な資産が投入され、開発されている最中であり、それはつまりは利権も大量に湧いて出ているということでもある。多数の国、企業、人間にとって、ここは現代の亜細亜で最も政治的にも経済的にもホットな街であった。

 そんな事情があって、今のロシア――つまりはソビエトについても、レイラはソビエトの工作員たちを通じて、それなりに知っている。オルグもされたことがある。スパイが接触した同業他社に対して、自分たちの陣営のことを喧伝することはままあるが、ソ連は特にその傾向が強かった。

(けど)

 共産主義というものに対しての憧れは、レイラも当時の人間として平均的に持っていたが、あまり自分の住みよい環境であるとも思えなかった。

 どの道、嘱託であるとはいえ、長年関わった仲間を裏切るというのも気が引けたということもある。

『一緒に、赤の広場に行ける日がやってくることを祈っているよ』

 処刑以外でね――という言葉を、大連駅にくるたびに彼女は思い出すのだ。

 あの男は、本気で言っていたのかもしれない。

 今はどうしているのだろうか。

 シベリア送りにでもされてなければ、そのうちに再会する可能性もあるだろうが。

「……………どうした?」

「いえ、なんでもありません」

 隣りを歩く『死人の王』に聞かれ、そう応える。

「ふうん」とつまらなさそうに言う『死人の王』。

 夜が明けて朝になって、二人は大連駅まで来ていた。それはレイラの都合であったが、どうしてか、この『死人の王』と言われる男は、何も文句も言わなかった。

(というより、この王様は、何か目安がついているの?)

 と思う。

 相手の組織、目的もよく解らない。ただ「鬼」を使う。その鬼退治の専門家であるということで派遣されたのならば、鬼は倒すことはできていても、諜報戦などは素人であると考えた方がいいかもしれない。

 身体的に優れているとか、武術に長けているとか、知識があるとか、そのようなことだけが諜報員の資質ではない。

 ないよりある方がよいに決まっているが、第一に目立たさないことが大切だ。

 その点でいうと、この『死人の王』は及第点かもしれない。

 どうして着ているのかはよく解らないが、憲兵というのは内地でも大連でも腐るほどいるし、その顔立ちは整ってはいるものの、何か特徴的なところをあげろと言われると、上手くいえない。

(とりあえず、一緒についてきてくださるのは、ありがたいけども)

 嫌だとごねられるのも面倒くさいし、それで別行動などをするのも躊躇われる。今日は比較的に晴れた日なので真昼から鬼はでないだろうが、あの仙人を名乗る女……あれば本物の仙人ならば、自分では対処はできないだろう。

 最低限、この王様には同行してもらわないと、話にならないわけである。

「警察署に向います」

 と、レイラも上司、上官を案内するつもりで行き先を説明しながら移動する。

「駅から、何処かに行くつもりではなかったのか?」

 と案の定聞かれた。

「いえ、別室と警察署への通り道であるということと、あと、いつもならここらに知っている顔がいるので、いれば繋ぎをとろうかと思っていましたが……」

 いなかった。

 よほどのことがない限りはこのあたりをウロウロとしていたら、向こうから接触してくるはずである。

 それは別室に自分を近づけさせたくないという意志のあらわれでもあった――と、レイラは理解していた。

 自分の如き嘱託工作員などという存在を、できるだけ自分たちの本拠地に近づけさせたくないというのは、当然の感情だ。

(むしろ、私のような者に本当の本拠地の場所が知らされているというのが驚きなのかもしれないけど)

 もっとも、スパイの本拠地などというものはだいたい何処の組織の人間にも筒抜けになっているのが常だ。隠そうとして隠しきれるわけではない。人間はその痕跡を完全に隠すことなど不可能なことだ。生きている限り、食事もとらなければならないし、排泄もする。隠れ通すなどできることではない。

「ああそうか。生きている人間を探すつもりだったから、鬼たちについての情報が集まらなかったわけか……」

 今更だが、そんなことに気づく。

 あの鬼たちが文字通りの鬼であるのが本当なら、探すのは諜報員ではなく、占い師か拝み屋がするのが適当なのだろうと思う。もっとも、あの電話の内容が全くの事実であるのならば陰陽師の類もいたわけで、その彼らをして見つけられなかったのだから、実際はどうするのが一番よかったのだろうか。。

「死人だろうと、まったく無になることはできんぞ」

 と王様が答えた。

「! それは、その――そうですね」

 まさか自分の独り言に返されるとは思ってなかったので、レイラはびくりと大きく反応してしまった。

(驚いた……まさか、こちらの言っていることに感心を示されるだなんて……というか、なんでこんなに驚いてるの私)

 なんだか、感情の動きがおかしい。何年も積み重ねてきた諜報員としての精神の厚化粧が、昨日一日でほとんど剥げ落ちているような気がする。衝撃的なことがありすぎたからだろうか。

 とりあえず、自分の考えもそえて相槌を打つ。

「今は何処かの地下か、納屋にでも隠れているかもしれないのですね」

「さて。それは解らんが、仙人なり術者がいるとなると、人避けの術なりでみつからぬように偽装しているのかもな」

 どうでもいいことのように言うが、それはレイラにすれば由々しきことだ。

「あの、その仙人について、私には解らないのでお聞きしたいのですけど」

「仙人くらい、知っているだろう」

「それは知っていますけど、あくまでも志怪小説だとか、伝説だとかの話で」

 昨晩もしつこく聞いたのであるが、疲れただのなんだのと言って答えてくれなかったのだ。

 そして目を閉じて、壁に背をもたれたままで無言になってしまって――

 あれは、寝ていたのだろうか?

 レイラ自身が疲労も溜まっていたということもあって、朝になって改めて今このようにして聞いてみたのだった。

「現実に仙人なんているとは、思ってもいなかった」

「現実の仙人か――」

『死人の王』は、歩きながら目を細める。

「俺も、大陸の仙人に会うのは初めてだな」

「そうなのですか?」

 ちょっと意外な気がした。

「大陸に来るのも、久しぶりだ。―――本邦の仙人は、何人か殺したが」

「殺した!?」

 叫ぶ声に、道行く者たちの何人かがぎょっとした顔でこちらを向く。日本語での会話であるが、意味が解る者はいる。当然である。

 レイラは口を抑えてから。

「殺したって、仙人を?」

「そう言ったぞ。奴らは基本、死なない。だが

 まったく自慢するでもなく言い放つ。

「……それは、殺し方があるということ?」

 特別な道具を使うだとか、技があるとか。

「そのようなものだな」

 とあっさりと認めた。「とはいえ、大方はの問題だが」

「…………殺せる人と、殺せない人とがいると、そういうことですか?」

「そうなるか」

 それ以上は答えるつもりはないといわかばかりに、口を閉ざす。

(またか)

 どういうルールかは不明であるが、どうにもこの王様気取り、何を話すにしてもするにしても、自分のやりたいこと、言いたいこと以上のことは絶対にしたくないらしい。

 それは普通の人間が普通の生活をしているならば通るのだろうが、こういう緊急時には、勘弁していただきたいことだった。

「しかし、殺せるということは、仙人と言っても、おとぎ話みたいに袖のなかに天地を隠したり、壺のなかに世界を作ったり……そんな、天に昇って地に潜ったりなんてことは、できないんですね?」

 もしもそのようなことができるのならば、この王様でも殺せるとは思えなかった。それともこの人は、そういうことをされてもどうにでもできるのだろうか。

「さて、な。あるいはそのような者もいるかもしれんが、できるのならば、この街などすぐにも掌握できる」

「それは、そうですね」

 言われるまでもなく解っていたことであるが、それは言葉にしないで、同意する。

「そもそも目的も解りませんし……その、陰陽寮からの託宣というのも、意味がよく解りませんから……」

「―――託宣か」

 そう言ってから、王様は「ふん」と吐き捨てた。


「俺にはどうでもいいことだ」


 そう言っているうちに、警察署についた。



   ◆ ◆ ◆



 レイラが警察署にきたのは、内務省別室の人間の生死を確認するためであった。

 アジトが襲われたことについて、疑っていない。昨晩の内からいくつかのルートで確認している。多数の鬼の襲撃を受け、アジトにいた人間は誰一人として生き残っていないということは解っていた。

「こちらです」

 手続きに手間取るかと思っていたが、『死人の王』がちらつかせる印章で警察署の人間はおとなしく言葉少なに従ってくれた。

 警察と内務省の関係者の仲は決して良くないが、同じく日本人の同胞であることには違いなく、朝になって衝撃を受けたアジトの屍体は、警察署の霊安室に運び込まれていた。

 薄暗い部屋に入り、一人ひとりの顔を確認する。誰も彼もがひどい顔をしていた。苦痛に歪んでいたし、絶望を宿している。

『死人の王』をちらりと横目にすると、特に表情は変わっていなかったが、何処か興味深そうにこちらを眺めていた。

「………何か?」

「いや。つらそうな顔をしていると思ってな」

「それは、」

 そんな顔をしていたのか。

 どうにも表情というか、感情の制御がおかしくなっている。今はそんなに顔は変わっていないつもりだが。

「まあ、同僚でしたし」

「お前は雇われだと聞いたが?」

「……長く付き合っていたら、それなりに」

 実際に、そんなに辛くなっている気はしなかったのだが。

 一人ひとり確認していくと、どうしてか、かつて交わした言葉が思い出された。どうなっているのだ、と思った。今まで仲間が死ぬなんてことは何度もあった。頻繁でこそなかったが、そんなに珍しいことではなかったのに。こんなことで自分が辛くなっているだなんて、信じ難い事実だった。

 ――――と。

 レイナはその屍体の顔を見て、硬直した。

 穏やかな顔をしていた。

 他の屍体にない、何処か爽やかなものが感じられた。何も悔いも残さず、やりきったという確信に満ちたものが、そこにはあった。

「ふうん」

 と、レイナは何事もないように言った。漏れだそうとする自分の感情を噛み潰しているのに、精一杯だった。

「――この人、こんな顔をしていたんだ?」

 想像していたより、ずっと若かった。もっと年寄りくさい、皺の多いものを想像していたのだけれど。

『死人の王』は。

「いい顔だ」

 と、どうしてか笑った。

「そう思われます?」

「ああ」

 ――では、そういうことなのだろう。

 この人の『死人の王』という呼び名が何に由来する、どういう意味のものなのかはよく解らないのであるが、死を司る何かではあるのだろう。そのような人が見ていい顔というからには、この人はやはり、悔いなく逝けたのに違いない。真実は解らないが、そういうことに、決めた。

 

「眠っているみたいだろ?」


 と、声がした。

 レイナはその声に顔をあげ、そちらを見た。

 壁際の椅子に座っている男が、いた。

 見覚えがある男だった。

「相馬さん」

 名前を呼ぶと、その男は力なく顔をあげた。

 内務省別室随一の剣の使い手と言われた男が、声もなく彼女たちを見た。

 

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