第2話 しびとのおう。 

 レイラは大連にくる前の自分が、何処で何をしていたのかは正確には覚えていない。

 何処か遠くの寒い土地で長く暮らしていた気がするし、もしかすると日本本土にも行ったことがあるのかもしれない。

 はっきりと覚えているのは長い鉄道列車に載せられていたことで、それ以外はほとんどがぼんやりとしている。

 気がつけば上海のイギリス租界近くの阿片窟で諜報員の真似事をしていた。何処の国の人間とも知れない容姿と、何ヶ国語もが話せる語学力、ずば抜けた身体能力を発揮して、多分、アメリカに雇われていたのだと思う。今から思えばどうでもいいような情報とも呼べないような噂話の欠片を拾っては、それ相応な値段で売買していた。

 ちょっと上等な情報屋みたいなものだったと思う。

 それから大日本帝国の内務省の嘱託職員になるまでの経緯は、詳細に語ればそれこそ銀幕にて放映されて然るべき色々があったものであるが――

 面白いか面白くないかは別にして、それは今語るべきようなことでもない。

 とにかく色々があって、大連に来たのは何年前だったか、確か三年ほど前だったと彼女は記憶している。

「そう考えれば、あなたとも長い付き合いね」

『改まって、何を言っているのかね?』

 電話越しに聞こえる声に「別に」と言って、ペラペラと本をめくりながら、時折に字を拾い出して手書きしてまとめていくレイラ。

「たまには、昔のことを思いだしたくなる日もあるから……けどそれはそれとして、なんでこんな暗号にしたの」

 封筒に入っていたのは暗号だった。数字が何行か書かれていて、レイラはそれをしばらく眺めていたが、やがてそれが挟んであった本をパラパラと開き、該当ページの文字を拾い出して書いている。

『なんの加工もしていない情報の受け渡しなんぞ、するはずがないだろう』

「そうなんだけど……電話ですぐ聞けるのに、手間じゃないかなって」

『いい考えだが、却下だ。今私が話しているのがレイラの本物か偽物かの区別、つかないだろう』

「それは、そうだけど……」

『いずれ顔をみないで話し合い、声から相手が偽物か本物か、個人の判別がつく時代がやってくるかもしれない』

「だいぶん、先の話になりそうだけど……」

 そう言ってからあとも、レイラと顔なしはとりとめもないやり取りを続けた。カフェーの被害状況に及んだ時には、お互いに少し黙り込んでしまったが、それだけだ。

 その間に暗号はあらかた解き終わっていた。

(えーと、住所と、時間と、あとこれは名前――、)


「しびとのおう?」


 声に出ていた。

『ふむ』

 と電話の向こうから、顔なしの相槌が聞こえた。今のは同意なのだろうか。それとも、間違いなのだろうか。

 そのことに意識がもっていかれたのは、数秒だけだった。

「えーと、この『しびとのおう』って、どういう意味?」

 直接聞いた。

 当然、答えなどは期待していなかったのであるが。

『専門家だそうだ』

 何処か憮然とした声だった。この男に、こんな感情が入った声が出せるだなんて、初めて知った気がする。

「専門家? 何の?」

『それは、当人から語られるだろう。私も詳細は知らない。内務省の上の上から、特別に推薦されたのだそうだが』

「上の上?」

 さっぱり解らない。

 そんな部署が存在するのだろうか。

 というか、こんなことを説明していいのだろうか。先刻に、ここで話しているのが本物か偽物かが解らないと、そう言っていたばかりなのではないか。

 顔なしはそれを指摘されると、どうしてかしばし沈黙した。

 そして。



 と言った。

「命じられた?」

『ああ』

「――誰に?」

『それは言えない』

 こいつとは、本当に長い付き合いだった。それなのに、今までの数分だけで初めて聞いたような声と言葉ばかりが聞こえてくる。

 何故か、背中がぞくりと震えた。

『もう、そろそろ時間だろう』

 そういえば、打ち合わせの時間まであと一時間。ここから徒歩でいっても十分間に合う場所であるが、容易は今からするに越したことはな。

「了解。――ああ、あと聞こうと思って忘れていたんだけど……あのカフェーから出たあとで、あの子……あの鬼を始末してくれた人、誰? あなたのところの人?」

 それとも、まったく無関係の誰かなのか。

 まともな答えが帰ってくるとは思っていなかったが。


『それは言えない』


 ガチャリ、と向こうから電話は切れた。



 ◆ ◆ ◆



 いつの間にか夜もふけていたが、諜報員にとっては今からの時間が本番だ。

 電気の光が世にあふれるようになってから、世の中には昼型と夜型がいるなどという言説が出てきだしたが、レイラは自分を夜型だとはっきりと明言できる。

 身体の細胞が夜になると活性化してくるような、そんな気がしてくるのだ。

(まあ、だからって、私のなまえがレイラってわけじゃないんでしょうけど)

 夜道を足早に進みながら、思う。 

 彼女は自分がいつからレイラと名乗っていたのかも、覚えていない。

 あるいはその名前の何処かに出自につながる何かがあるのかと調べたこともあったが、「レイラ」という名前は日本人にもありえるし、他の国にもある名前だった。ただ、西洋人も東洋人の血も入っているのは確かだから、多分、何処かの国で母は娼婦などをしていたのだろうと――それはただの想像である。

 もしかしたら、ロシアの貴族だったのかもしれない。娼婦の娘が何ヶ国語も話せるというよりかは、まだありそうな気がするが、ロシア貴族の娘というのがそもそもありえない設定だ。革命なんて一体何年前の話しだか。

 まだ日本の華族が外国人の妾に産ませたというのがありそうも気もする。

 レイラは夜道を歩いていると、いつも心が浮き立つ。

 どうしてか楽しくなる。

 だから、自分の出自についてどうでもいいような想像をしてしまう。

 それだって調べても解らないことだ。

 もしかしたら、今日顔なしが言っていたように、いつか声で人の判別ができる日がくる頃には、血か何かで人種か、それとも親を特定できるようなこともできるかもしれない。到底ありえないような、夢物語の世界だけど

 だけど、と思う。

 だけど、そんな日がくるのなら、そんな日がくるまで自分が生きられるのなら、自分の出自を探すたびに出るというのもいいかもしれないと思う。

 昼間はそんなことは微塵もみ考えないのに、夜はどうしてかそんな夢みたいなことをかんが得てしまうのだ。

 夜道の中でレイラは夢を見る。

 例えばロシアの貴族の娘だったり、アメリカ人の娼婦の娘だったり、日本人の華族の妾の娘だったり、中国人の誰かがイギリス人の家庭教師に産ませた娘だったり。

 どれもありそうでないし、あるかもしれない妄想だった。


「さて――」


 夜道を走る車の流れが少なくなる。

 ここから待ち合わせの場所までは、どんどん人気も少なくなるし、そもそも人もあまり住んでいないような地域とちなる。

 こんな場所で待ち合わせなどというのはどうなんだろうか、とレイラは思う。木の葉を隠すなら森の中というくらいだから、人混みの中で会う方が、まだ幾分かスパイらしい。

 人気のないところでなんて、それはまるでギャングの取り引きだ。

(そうか。女ギャングも、ありかもね)

 大西部をまたにかけた拳銃使いの孫、というのはどうだろうか。あれはガンマンだったか。ギャングは銀行強盗だったか。

 そんなふうに妄想を広げていたところで。


 声がした。


 声ではなかったかもしれない。


 世界の、夜の、その果ての果てまでも届きそうな、それは「声」だった。

「声」だと、レイラは認識した。

 こんな「声」なんかありえないのは解っている。ただ、それはそうとしか思えなかったのだ。 

(なに、これ…こんなの、生物が出せるものなの……!?)

 大きいというのも違う、何か違う。高いというのも違う。低いとか高いとかではなかった。世界の果てまでもに呼びかける――

「ぐ、ぐ……これ、キツ……」

 両手を耳にあててうずくまると、側を歩いていた初老の人物が立ち止まって、心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫ですか? 突然、うずくまって……」

「え? あれ? そんな――」

 レイラはその時になって気づいた。 

 夜道を歩く者たちの中で、この「声」に反応しているのは自分だけだ。自分だけがこの「声」を聞いているのだ。

(そんなこと、ありえる……?)

 ありえる、はずがない。

 そして、「声」まてもやんでいた。

「あ、君、」

(ありがとう、おじさま)

 感謝の言葉は、しかし声には出さなかった。

 レイラはそのまま駆け出した。夜を走った。本能的に、今の「声」が何処から発せられていたか、の彼女は理解していた。

 あの「声」は。

 今の「声」は。

 この先の。

 待ち合わせ場所で――


 男が倒れていた。


 壊れた煉瓦の中、何かの建物であったろう場所に横たわっていた。

 まるで、その男がそこに落ちて、そのせいでそれが壊れたかのような、そんなふうに見えた。


「ふん。しまらんな」


 それは。

 その男の声には、聞き覚えが。

「あなたは……」

 今の「声」とは違う。それは確実だ。この男は、違う。

 だが、それとは別に聞き覚えがあった。

 夜の中で、男はこちらに気づいたようだったが。

「下がれ、半端者」

 と、声をかけた。

「半端者?」

「昼間の娘か。やはり、お前か。しかし、運が悪いな。」

「いえ、なんの話を――」

「待て」


「囲まれているぞ」


(――何、これ?)

 気づいた時には、周囲にはいっぱいの人影があった。

 いや、それを人の影と言ってよいものなのか。

 十数人ものそれらの姿は、確かに人だった。人以外の何者でもなかった。だが、それは到底、人などと呼べるものではなかった。

 

「鬼――――」


 彼ら、彼女らは、誰も彼もが死者の礼装をしていたのだから。

 そしてその顔色もまた、死者に相応しい青白さであった。

 気配もなく、二人を囲んでいる。

「今ので起きたか。まったく、近所迷惑なやつだな。アヤツも」

「アヤツって、今の、その、何が起きてて、これがどういうことなのか、あなたには解るの!?」

 思わずスパイらしからぬ感情を高ぶらせて、叫び声を出すレイラであったが、男はそれ無視して「よっこらしょ」などと年寄りくさい声をあげて立ち上がって。


 憲兵の姿をしていた。


 夜の闇の中で、どうしてかその男の姿がはっきりと見えた。

 いや、月が照らしていた。

 ありえないことだ。

 いつの間にか中点にある月が、その光が、男の姿を夜の中に照らし出している。

 まだ、こんな月がでている時間ではないはずなのに。

 こんな、光の強い月齢ではないはずなのに。

 男を照らしている。

「異郷とはいえ、月は月か。夜は夜か。さすがは儒教の国が根付いた土地だ。影から月に至るまで、俺に対する礼節が解っている。いや、ここはやや遠いか?」

(な、何を言っているの……?)

 男はこくりと首を鳴らすと、腰にある刀を抜いた。

 それは、長い長い日本刀だった。 

 憲兵がよく持つような、サーベルなどではない。

「さあ、起きてしまったものは仕方がない。起きてしまったものは、もう眠れまい。なれば、俺は俺の役目を果たすしかあるまい」

 その宣告に、周囲の死者たちはどうしてか嘆くような、喜ぶような声をあげた。

「さあ、こい。さあ、叫べ。さあ、喜べ。俺が、この俺が引導をわたしてやるというのだ。来よ、来よ、来よ!」


「俺こそがお前らに真実の死を与える者――」


「しびとの王だ」


 その時、初めて、レイラは見た。

 夜の中に見た。

 憲兵の姿をした。

 何処の国ともしれぬ姿をした男の顔を。


 死人の王を。


 そして、この時が、彼女の真実の、運命のレイラの始まりだった。

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