第3話 東方の鬼打。

「死人の、王――!?」

 レイラは耳にして、そして自ら口にした言葉に、驚く。

 そうだ。

 何故気づかなかった。

(しびとのおうなんて、そうとしか読めないじゃないの……)

 勿論、諜報員として、入ってきた情報を先入観で色付けしないように訓練していたというのはある。情報の分析は別の人間の仕事だ。諜報員がすることではない。そのための訓練も積んではいるが、そうでない時は意識して情報の解釈はしないようにしていた。

 だが、違う。

 これは違う。

 何か意識の底から、それを理解するのを彼女自身が拒んでいた。

 あれは、

 これはだ。

 

「――――怖いか?」


 と、『死人の王』を名乗った男が、そう言った。

 静かな声だった。

「怖い、けど」

 レイラは素直にそう答える。この男に、抗ってはいけない。そう本能が訴えかけている。人間ごときが否やを問える存在ではない。

 だが。

「けど?」

 何処か揶揄を含んだ声だった。

「けど――その、貴方は、私の味方なのでしょう?」

「ああ、まあ……そうだな」

 刀を持ったまま、『死人の王』はとん、と軽く跳躍した。そして月の光から夜の闇の中に消えたかと思うと、するりとレイラの頭を撫でる手があった。

「――――!?」

「いつまでかは、解らんが」

 そう言って、笑った。

 そしてまた駆け出し――


 蹂躙が始まった。


 周囲に集まっていた死者たちが何なのか、姿通りの死者なのか、それともそのうな姿をしているだけなのか、それはレイラには解らなかった。ただ、その動きは、彼女の知る「鬼」たちと同様であった。あるいは同じ存在であったのかもしれない。人間を遥かに超えた速度と力と。でたらめな動き。おおよそヒトという動物が戦闘に際して行うような行為とも思えない、獣じみた、予測困難な跳躍、攻撃。

 それらは全て、この『死人の王』にとっては、なんの意味もなかった。

 むしろ、男の振る刃に吸い込まれていくような、自ら切られようとしているかのようにさえ見えた。尽くが首を飛ばされ、胸を突かれた。

(凄い……まるで妖術でも視ているかのような……)

 それらが、男の超絶の技倆によるものだとも、レイラには解っていた。

 今まで修羅場を何度となくくぐりぬけ、自身幾種もの武術を習得しているのだ。

 男の技の原理は説明をすれば単純極まりない――相手の動きを先読みして、最適の軌道で刃を走らせているだけである。

 だが、言うは易し。

 それは剣術家の理想の境地の一つであり、到達、実行できることは生半なことではない。有史以来、達人と呼ばれた者は数多あれど、どれだけがこれを、しかも鬼相手に、これだけの他数を相手に可能にできたのか。

『死人の王』の刃は月光を跳ね返し、閃くたびに煌めきを生み、死を撒き散らした。

 いや、この鬼たちを倒すことを「殺す」と呼んでいいものなのかも解らないけれど。 

 それは美しくも恐ろしい、光と死の舞踏であった。

「…………こんな、こと………」

 いつしか、レイラは言葉もなく、声もなく、何も想うことさえもなく、その剣舞を見るだけの置物となっていた。

 普段のレイラなら、そんなことでは諜報員失格だとでも嘯いていただろうが、間諜防諜、愛国、そんな俗世現世の言葉などは、この時のこの空間において、なんの意味も持つまい。

 これは、そんな、それほどのものであった。

 だが、そんな時間は、さほど長くは続かない。

 あまりにも鮮やかな剣舞は、それ故に留まることなく最後にまで辿り着く。

 すっと、刃が止まって。


 死者――鬼たちは、その全てが地に伏していた。


『死人の王』は彼らを睥睨していたが、やがて息を吐き。

 レイラへと向いて。

 笑った。


「――堪能したか?」


「それは――――ええ、はい」

 何をふざけたことを、と一瞬思ったが、あまりにも無邪気な問いかけに、そのように応えるのが相応しいと咄嗟に考えてそう返した。

 どのみち、自分をも遥かに超えた隔絶した力の持ち主を怒らせるわけにもいかないし、堪能というのははばかられるが、見とれてしまったというのは間違いではない。

 むしろ魂を奪われるかと想うほど、見入ってしまったのは確かだった。

 レイナの言葉に納得したのか、『死人の王』は満足そうに頷いてから、何処ともしれない闇へと視線を向けて。

 言った。


「さて。今日の演目はこれでだ。役のない演者がいる舞台など、何処にもないぞ」


 その言葉は。

(誰かいる――――?)

 自分に向けられた言葉ではない、と気付き、レイラは咄嗟にハンドバッグに手を伸ばすが、闇の中には誰も姿も確認できない。なんの気配も感じられない。

 いや。


「――東方よりの客人を饗すには、ちと足りませんでしたか」


 突然に、現れた。

「え」

 そうとしか言えなかった。それの声と言葉と姿が出現するのは、まったく同時だった。闇から出たのではなく、レイラの知覚には、それは銀幕のコマ落としのように、いきなりそこにいたとしか思えなかったのだ。

「今、この人……――」

 レイラはそこまで言ってから、言葉を失う。

 現れたのは、あまりにも場に即していない、あるいはこれ以上なくこの異常な状況に合った姿をしていた。


 宮廷女官の姿をしていた。


「――――――」

 感情がついていかない。 

 レイラの知識では、それは後宮で働くような女官の姿のように見えた。そしてそれは、何重もの意味で場違いに過ぎた。まだ、ほんの十数年ほど前にあった清国風のものであったのならあるいはともかくとして、髪型も、服装も、それらとは違う。それの姿は。恐らくは宋代かその近辺の時代のものに見えた。

 そのような者が、こんな夜に、こんな町に、こんな場所で現れるなんて――

 驚きも、恐怖も、何もかもの感情がおいていかれている。

 ただ、残されたのは本能と訓練で得た技能だった。

 弾丸を装填しながら大口径拳銃をハンドバッグから取り出し、構えるまでにかかった時間は一秒もない。

「あら」 

 とその女は、ようやくこちらに気づいたように意識を向けた。静かな眼差しをしてこちらを見て、紅を差した唇を美しく歪めた。

 そしてひらひらの袖を口元に寄せた。

 それらの所作の全てが現実離れしていた。夢のようだった。あるいは、ここは夢の中かもしれないとレイラは思った。もしかしたら自分はあのカフェ―で新聞を読みながら寝てしまっていたのかもしれない。新聞連載小説の『宮本武蔵』を読み返しているうちに、昨晩の仕事の疲れで眠ってしまっていたのではないか。目を覚ませば、あのスタァ志望の少女が、少し困った顔で珈琲のおかわりをいれてくれるのではないか。

 女は、くつくつと笑い声を隠しているようだった。

 そして、しばらくしてから。

「夕刻の雲を望気すれば、妙な相があった――そなたですか」

「――――?」

 意味が、解らない。

 ただその言葉が、自分に向けられているということはだけは解っていたが。

「ふん。古臭い格好をしているだけあって、望気なんぞの古臭い雲占いの類をするか。あんなものをまだ現役で使われているのか」

 すっと刀の切っ先を向け、『死人の王』は言った。揶揄するような声だった。

 そしてレイラには、その言葉で女の言ったことが少し解った。

 望気――は、古代の中国の史書にしばしば見られる天の相を見る占いのことだ。彼女も詳細は知らない。とはいえ、雲で占うものではなかったと思うが、そのような感じのものではある。

「確かに。今は廃れて久しいですが」

 女の身体が、揺らいだ。 

 そしてその身体にまとわりついた領巾もそれに伴って動いたが、どうにもその動きからそのように動くとは、到底思えなかった。

 自然なほどに、不自然な動きであった。

「廃れた理由は、天の相から運命を読み取るのは、熟練以上に天稟を要するがゆえ」

 つまり、資質がないものには扱えない類のものということか。

 占いの講釈などを聞いている場合ではないと、レイナは自分に言い聞かせる。

 この話の流れなら、この女があの死者の群れを操った者であるのは確実だ。

 それなのに引き金にかけた指は動かず、どうしてか女の次の言葉を待っていた。

 女は告げた。

「そして妾は、その真伝を伝え継ぐ者なれば」

「ほう」

『死人の王』はそう言って、刀の切っ先を一度上に向けてから、右肩の上に峯を置いた。

「それで、俺が来るのも知ったということか」

「それは――――占うまでもなかった」

 女の声は、笑っているようだった。

「こう見えても、手足となる間諜を幾人と飼っておる。関東軍に潜らせた者からの報告があった――東方より鬼打の名人が来たると」

 鬼打――鬼を打つ、死霊祓いのことをさす言葉だ。

 レイラは、それで得心した。

「ああ、専門家ってそういう……」

 思わず、声にだしてしまった。

 内務省より派遣された専門家とは、鬼に苦戦する自分たちの応援要員であったということか。

 少し、安心して――すぐに訝る。

(それってどういうこと? 鬼は、本当に鬼だったってこと?)

 死者だと。

 上の連中は気づいていたのか。

 そしてそれに対応できる人材がいたのか。

 いや、鬼退治の専門家であるということは、今まさに彼女の目の前で証明されたのであるが。

「東夷の鬼打がどの程度のものかと思い、かの王の棺の運搬に丁度いい場所でもあったのもあり、どれ味見のほどをと計ってみたが、まったくもって予想以上――よもや、王がなされたとは」

「ほう。欠伸か。なるほど」

「欠伸?」

 つい、聞いてしまった。

「お前にも聞こえただろう?」

 と『死人の王』は彼女に改めて目を向け、言った。

「私にはって――――あの、さっきの、あの、変な……」

「声」が。

 聞こえた。

 側にいた気の良い紳士には聞こえなかった。あるいは、あの場所で、あれを聞いたのは彼女だけだったのかもしれなかった。

 それがどういうことを意味するのかも解らず、しかしそれを問い糾していいのかも判断ができず、レイラは首を振る。

 諜報員としての頭脳と、分析者として受けた訓練が拾い出した情報から推論を組み立てようとしていくが、上手くいかない。

 そもそも、鬼が死者であるというのが、まだ理性の領分が理解を拒否している。死者は動かない。死者は話さない。死者は人を殺さない。しかしそれが紛れもなく真実だということも、本能が囁いていた。

 そして。

『死人の王』が。

 言った


「まさか、


 それは。

 どういう意味か。

「何処の何者か知らんが、さすがに大陸で王を名乗るだけある。スケールが大きい。危うく、消し飛ばされるところであったぞ」

「ふふ……それを言うのなら、貴方も相当なもの。かの方の眠りを妨げるほどのその力……鬼の群れをこともなく斃し尽くす剣の冴え。妾とてもあれほどのもの、長く生きてきたが初めて見た。

 ――――は、さぞかし聞こえた名人であったろうに。東夷にて王を僭称するのも無理からぬ」

(え?)

 レイラがその言葉の意味を上手く飲み込めなかった一瞬、「ちっ」と『死人の王』は舌打ちした。

「余計なことを。俺は長話をするのは嫌いではないが、余計なことを言われるのは好かん」

「何処の国でも、殿方は身勝手なこと――あまり長話をしても仕方ないのは、そう。こちらも読み誤った。王の眠りさえも妨げる者に、この程度の数では足止めにもならないなどということは、最初から解っていましたが……」

 そして女は、そろりと一瞥をレイラにくれると、また口元を袖で隠した。

「予想外のことは、良くも悪くも起きるもの。安心なさい。あなたの力を見た以上、これ以上は手をださぬ。そのお嬢さんも、あなたが守らなくてもよろしいのですよ」

(あ、そうか……私を守ってくれていたのか)

 そのことは、言われずとも解ることであったのだが、状況があまりにも異常すぎて脳みそが認識していなかった。

「ふん。よかろう。俺もそろそろ飽きてきたところだ。しかし、あんなものを連れてきて、貴様らはなんのつもりだ? この街に鬼の城でも建てるつもりか?」

言いながら、『死人の王』は刀を収める。

「さて」

 と女は笑った。

 今度は袖で隠さなかった。

 美しくも艷やかで、しかしあまりにも妖しい笑みであった。

『死人の王』は眉根を寄せ。

「まあ、答えずともよいさ。全てを叩き斬ればよいだけの話だ。しかし――」


「仮にも仙人が鬼を操るとは、世も末だな」


 その言葉に。

 女の表情が凍った。

 それも一瞬であったが。

「本当に……本当に、東方より来たりし鬼打の名人とは、油断ならぬ御方――」

 そう言い残すと、女の姿は消えた。

 現れたのと同じく、あまりにも唐突なものであった。

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