鬼哭戦線 

奇水

第1話 極東のレイラ

「お通さん、この武蔵とのすれ違い方はさすがにひどくないです?」

 真面目くさった顔で新聞小説を読んでいる少女であるが、その対面に座る男の視線は、少女ではなく新聞記事の一つに向けられていた。


 ×××区○○で瓦斯爆発事故。

 行方不明者多数?

 原因を当局は調査中。


「――――ご苦労だったな、レイラ」

 その言葉に新聞を下げて、憤りも何もなかったかのような表情の少女の顔を目の前の少女――レイラは見せた。

「ご苦労さまは、サラリーに反映していただきたいですけど?」

「業突く張りめ。いや、今回はそれだけの価値がある仕事だったよ。上に報告する時に、特別に言い添えておく」

 レイラは眼を細め。

「おやすみも欲しいですけども」

「それは、難しいな。腕っこきほど忙しいのは何処の業界も変わらん。特にうちでは、君のような娘は引っ張りだこだ」

(純粋に能力だけというのなら、もうちょっとうれしいのだけど)

 レイラは新聞を再び立てて、そんなことをぼやく。

 他の業界の事情はよく知らないが、彼女の今身を置いている諜報・工作機関では、レイラのような何処の人種ともつかない顔立ちの十代にしか見えない娘というのは、なかなかに重宝する。特に『国際都市』とも言える存在になりつつある大連では、化粧次第でコーカソイドにも亜細亜人にも変装できるというのは、何処にでも潜り込めるし、少女の姿というだけで熟練の工作員ですらも無意識に侮ってくれる傾向がある。そのおかげで潜入任務も破壊工作も今のところ失敗していない。万々歳だ。

 

 ここは大連のとあるカフェー。


 大日本帝国が大陸への橋頭堡としている町であり、現代の亜細亜の最先端の技術が費やされているところだ。ここに並ぶのは、同じく大日本帝国の力が注がれている満州帝国の首都、新京くらいではないか。

 当然、そんな町であるから、工作員、諜報員たちの最前線でもある。

 レイラはその中で、内務省付の嘱託職員として日々職務を邁進していた。

「――とは言っても、昨日みたいなのはなるべく勘弁してほしいんですけども」

「『ぐ案件』に対処できる職員も、限られている」

「それは承知していますけども……」

 再び新聞を下げて相手の顔を伺うが、向こうも表情を読まれたくないものか、顔を片手で広げた本で見えなくしていた。タイトルは紙カバーをつけているので解らない。

 大日本帝国内務省の大連出張工作員たちの頭目であるこの男について、レイラは詳しいことを知らない。知る必要もないことだし、知る気もない。

 ただ、それなりの長い付き合いであり、互いにそれなり以上の信頼はある関係だった。

 レイラは心の中で「顔なし男」と呼んでいる。自分の顔が何処の人間とも思えるものならば、この男の顔はまったき記憶に残らないものだ。

 そんな馬鹿なことがあるのかと思っていたが、もの付き合いで、本当に全然記憶に残っていない。さすがにその時その瞬間の感情、表情は解るのだが、気がついた時にはそれも記憶から抜けてしまっている。

(あるいは、こいつも『ぐ案件』の適任者なのかもね)

 これぐらいのことができなければ、アレに対処はできまい。

 何せ――


「メニューの追加はありますか?」


 給仕が立っていた。

 かつて本国の方ではカフェ―の給仕といえば、うら若き少女たちの過激なサアビスを売り物にしていた時代があったというが、今は昔の話である。当たり前のように街角にカフェ―はあるし、その多くでは給仕はそこらの普通の女の子だ。

 その娘も、十代の若い女の子のように見えた。

 なのに。

 レイラは微かに鼻をひくつかせると、新聞紙を折り畳みながら溜息を吐く。

「……すみません。昨日の仕事、しくじったようです」

「珍しいこともあるものだ。ああ、次の仕事については、後で使いを寄越す。あとそれと――」

 言葉を遮るように、給仕の少女の腕が男の顔を本の上から叩き、切り裂いた。

 武器でも装着した腕でもなければ、そんなことができるはずもない。

 だからつまり、それを素手でやった少女は人間ではないということだ。

 

 そして次の瞬間に少女の視界を新聞紙が塞ぐ。

「―――――!?」

 人間とも思えない形相をした少女は、しかしすぐさま新聞紙を取り払い、そこで硬直する。

 いない。

 レイラも、本ごと顔を切り裂いたはずの男も。

 そして。

 突然の衝撃が少女の背中を打ち、吹っ飛び、いくつものテーブルと客を巻き込みながら転がっていく。まともな人間ならこれで立ち上がれるはずはない、そんな飛び方だ。

 掌底を突き出していた姿勢のレイラは、それでも油断せずに観ていたが、起き上がった少女を見てちらりと自分がさっきまで座っていたテーブルを一瞥する。

 ご丁寧に新しい紙カバーをつけた、茶封筒が挟まった本が置かれていた。

 そしてメモ書きが一枚。


『後始末はやっておく』


「――――気前のいいことで!」

 叫びつつ本を手に取り、カフェ―の裏口へと駆け出す。

 少女もそれに反応してレイラに襲いかかろうとしたが、間一髪、扉の外に出られたのは彼女の方だった。

 煉瓦で舗装された裏通りを、こなれた様子でレイラは走る。

 扉はすぐ開くかと思われていたが、バタバタと音が聞こえた。カフェ―の人間が今更事態に反応し、あの少女を取り押さえようとしていのかもしれない。

 だけど五分持つかどうか、と歯を食いしばりながらレイラは思う。逃げて。

 あんなの、まともな人間が対処できるはずがない。


「これだから、グイ案件は!」


 鬼――日本では角の生えた異形の怪物だが、大陸では死者の総称だ。

 そして彼女らが今直面している、直接的な脅威でもある。

 いつの頃からか、大連の夜の闇を鬼が歩き回るようになっていた――

 最初はただの噂話に過ぎなかったが、ほどなく被害が出た。それも一般人にではなく、関東軍諜報科、満鉄調査室、内務省大連別室……日本帝国の関係する諜報関係機関の人間たちが襲撃を受けるという事件が頻発したのだ。その中には彼女、レイラもいたが、無傷でどうにかできた。今までに合計で五回、襲われている。

 鬼たちの正体は不明だ。

 あるいは、レイラには知らされていない。もしかしたら組織の上の方ではすでに調査済みで認知されているのかもしれない。だが、そうだとしてもレイラが知らないのならば、それを現場が知らされてもいいことはないという判断があってのことだろうし、そうでなくて何も解らないとすれば、それはもうどうしようもない。

(本当に、あいつら何なのよ)

 かの孔子様は君子は鬼神を語らずと言ったというが、彼女らは君子でもないし、語ろうと語るまいと、襲いかかってくるのだからどうにか現実的な対処が必要な存在だった。

 奴らの特徴は、大雑把に解っていることは三つ。

 襲ってくる直前まで、他の普通の人間と変わらないということ。

 突然、理性を失ったように凶暴化すること。

 そして――――


「シィィィハアアアアァァッ」


(やばい)

 叫び声と共に自分に被さる影に気づき、咄嗟に後ろに飛び退く。

 と、次の刹那に彼女が走り続けていたら到達していただろう位置に、少女は着地している。あのまま走っていたら、背中から人間大の質量が落ちて大怪我では済まなかったに違いない。

「こおのぉっ――!」

 行く道を塞がれた、と見るやレイラは、低く跳躍するかのように縦拳を前にだしながら突撃する。大連にくる以前に学んだ八極拳の突きだ。彼女の体重でも急所に当たれば西洋角力の巨漢だろうと打ち倒せる自信がある。実際にやってもいる。そしてこの突きではどうにもならないということも解っていた。

 少女給仕の姿をした鬼は、たん、と軽く煉瓦の床を蹴って二メートル近く縦に跳んだ。飛びつつ前蹴りを放った。

(ちっ)

 伏せるようにしてそれを回避できたのは、鬼との対峙が初めてではなかったからであるが。

「やりにくいッ」

 足の下からとはいえ、今度はレイラが少女を追い越した側になった。

 すぐさま回れ右してその場で構え、膝を微かに弛めた。

 このまま逃げ切るという選択肢はない。それは不可能だったからだ。背中を見せた瞬間に組み付かれる。鬼との単純に直線の追いかけっこになって、生き延びた者などまだ未確認であり、多分、未来永劫でないだろうというのが、レイラを含めた大連裏社会の総意だ。


 鬼は、人間を遥かに超えた身体能力を発揮する。


(足は遅いって話だったのに)

 しかしそれを承知の上で、あまりにも理不尽なことだとレイラは現状を呪った。駆けっこはいつもビリだったというのは、先月に目の前の少女から直接聞いたことだった。来年に新京にできるという映画会社のニュースを知って、自分も銀幕のスタァになれるかもしれないと言っていた。無理だと思ったが、そうは言えなかった。難しいよとは言った。お客さんは意地悪ですね、と下手な北京官話で返されたのを覚えている。はにかんだ顔に浮かんだえくぼが、とてもかわいらしいと思ったのを覚えている。

 あの子はそういえば、何処の国の生まれだったのだろうかと、ふと思った。日本人でもなかった気がするし、もっと南の方の人間だった気もする。

 気にしても仕方がないことではあった。今からすることには、それは関係がないことだった。

(心臓を壊さないと)

 手持ちの武器はスカートの下に隠した小刀が二本、あとはハンドバッグに入れてある、海外で開発と設計がされ、日本陸軍で試作されたという大口径拳銃が一つ。その弾丸が二つ。

 殺傷能力に申し分ないが、どれも扱いは難しい。

 特に拳銃は大の大人でも扱いかねるということで、特別なルートで彼女に回されたという曰く付きだ。耐久力テストがされているかどうかも怪しい。そもそもこんな狭いところで、至近距離で使うものでもない。

「けど、」

 レイラの手の中に、魔法のように拳銃にありえざる大口径の拳銃が現れた。

「――――ッ」

 少女がそれに怯んだのは、それが到底拳銃に見え難いものであったからかもしれない。あるいは何か本能のようなものを刺激したのか。

(今までの鬼にはない反応!)

 さすがは大日本帝国の友邦国であるナチスドイツで開発されたという、化け物ピストルだ。

 照準を胸に合わせる。引き金に指が力がかかる。少女の眼から涙が溢れる。

 レイラは。

 一瞬硬直して。


「そのまま動くな」


 と声がした。

 反応もできなかった。ただ、声が聞こえた。それだけが解った。意味が伝わるのに、どういうわけか数瞬のタイムラグがあった。


 三度跳躍しようとした少女の胸の真ん中に、何処からか刀が突き刺さっていた。

 

「――――――ッ」

 驚きに、ようやく硬直が解ける。何度か瞼をしばたたかせて、レイナは まず背後を見た。

「憲兵……?」

 そのような者の姿が一瞬だが、あった――気がした。

 なかった。

 煉瓦の細い路地裏の道の、視線の先には何もない。そんなに離れていないのにカフェーの勝手口からくる者もいないということは、全員が死んだのか、それとも、生き延びた者がいたとして、追ってこようなどという気概がある者は残っていなかったのかもしれない。

 それに、これを彼らは何だと判断したのだろう。

 音がした。

 振り向くと、少女が膝から崩れそのまま前のめりに倒れた音だった。

 背中から生えた白い刀身には、血の翳りはまったく見えない。

「誰が助けてくれたのかは知らないけれど……」

 倒れている少女は、目を開いたまま息絶えていた。さっきは涙が見えたと思ったが、屈んで見てもそれらしい跡はなかった。乾いてしまったのか、それとも錯覚だったのか。

 どちらもありそうな話だった。

「鬼となった者は、血も涙もなくなるか……」

 呟いたレイラは、そっと指を当てて少女の瞼を閉じさせた。

(この子も、あの店の者は全て調査済みだった) 

 嘱託職員とはいえ、諜報員が出入りする店なのだから当然に調査済みである。

 店員も店主も出入り業者も、その親戚までも調べたが、不審な人物というのはほとんどいなかった。それは少しはいたということであるが、数を調べれば膨大な人数が対象に入る。むしろ、まったくいない――というのがすでに「消毒済み」を匂わせることもある事態だ。

 とりあえずあのカフェーについては、その不審者を含めてもなお「白」で、つまりはこの少女は組織の構成員だったというわけではなく、突然に――ということだった。

 鬼が何者なのか、今も彼女には解っていない。

 最初、狂犬病の一種かと思われていた。人間が理性をなくしたかのように振る舞い、人を襲うというので疑うのはまずそれだ。

 それに彼らは一様に光を嫌っていた。今日のような曇り空の日ならまだしも、太陽の下には決してでようとしない。

 だが、そこまでは共通しているが、まったく共通しないことがいくつかある。それは特定の人物、組織だけを執拗に狙う傾向がでること――

 血を流さない。涙をこぼさない生き物となってしまうということだった。

 いや、もとより鬼とは死者のことだ。

 鬼となった時点で死んでいると見做していいのかもしれない。

(そして、鬼となった者は、首を切り離すか、心臓を貫かない限りは動き続ける)

 そんな、異常な生命力を示すようになるのだ。

「さっき助けてくれたのが誰かは知らないけれど……」

 少なくとも、そのような情報は伝わってる――この町の闇に住む住人の一人か、それに近しい存在なのだろう。

(それとも、通りがかりの剣豪でもいたのかしらね)

 立ち上がったレイラは、懐から軍票を取り出し、少女の前に落とす。

「最後のチップよ、受け取って――」

 そこで言葉を濁した。

 そういえば、あの子の名前はいちども聞いたことがなかったと、今気づいたのだった。


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