生首トイレ
夜は深まり、静寂が街を包んでいた。街灯の光はぼんやりと路面を照らし、夜風が冷たく吹き抜けるたびに、影がゆらりと揺れる。藤原亮は、ようやく長時間の運転を終え、トラックをコンビニの駐車場に停めた。エンジンを切ると、車内は一瞬で沈黙に包まれ、耳鳴りのような無音が広がった。
亮は運転席でしばし目を閉じ、肩から力を抜いた。疲労は体の隅々まで染み込み、腕も重く感じる。時計は午前1時を示しており、数時間ひたすら道路を走り続けてきたことを改めて感じさせる。コンビニの明るい看板が無表情な光を放ち、その白さが瞼の裏側にちらついた。
「休憩が必要だな……」
亮はハンドルを握った手をゆっくりと解放した。座席から腰を上げると、筋肉が緊張していたのか、鈍い痛みが肩甲骨に走った。窓越しに見える夜空は暗く、雲が薄く広がって星一つ見えなかった。亮は深呼吸をして、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
コンビニの入り口に向かいながら、亮は周囲を見渡した。駐車場には彼のトラック以外には何もない。人影もなく、風が吹く音だけが聞こえる。店内の蛍光灯が店全体を白く照らし、遠くからでも商品の並ぶ棚が整然としているのが見えた。どこか無機質で、生気のない雰囲気に包まれているようだった。
自動ドアの前に立つと、機械的な音を立ててドアが開く。冷たい空気が足元から這い上がり、亮の体を一瞬硬直させた。彼はそのまま店内に入り、足音が床に吸い込まれるように響いた。店員はカウンターでうつむき、スマートフォンをいじっている。その顔は白い蛍光灯に照らされ、やけに青白く見えた。彼の存在はこの場所に一抹の温かみを加えているはずだったが、その姿はどこか影のように感じられた。
亮は店員に軽く会釈し、商品の棚を横目に奥のトイレへと歩みを進めた。長時間の運転で鈍った感覚が、少しずつ戻りつつあった。歩くたびに靴底が床に当たり、小さな音を立てる。トイレに近づくにつれ、心の中で何かがざわつくような違和感を覚えた。まるで背後に視線を感じるような不快感に襲われたが、亮は振り返ることをしなかった。足を進めるたびに、その感覚は強まっていく。
廊下の奥にあるトイレの扉は半開きになっていた。亮は一瞬、周囲の静けさを確かめるように立ち止まり、耳を澄ませた。しかし、何も聞こえない。ただ、店内に流れる陽気な音楽が遠くに響いているだけだった。
「気のせいか……」
亮は自分にそう言い聞かせ、ゆっくりとトイレのドアを押し開けた。冷たい空気が顔に触れ、彼は思わず息を詰めた。
亮はトイレのドアを閉め、錠をかけた。その音が静寂の中に響いた。空間はひんやりと湿り気を帯び、壁に染みついた古い汚れが何とも言えない不快感を醸し出していた。疲れた体を軽く伸ばし、ひと息つこうとしたが、妙な緊張感が肌を這うように感じられた。
蛍光灯の白い光が空間を照らし、天井の格子状の通風孔が目に入る。視線を移したその瞬間、亮は僅かに目を細めた。天井に浮かぶ暗い影の奥に、確かに何かがいる。空気がじわりと重くなり、鼓動の音が自分の耳に響き渡った。
「……なんだ?」
亮は喉を鳴らしながら口元で呟いた。体中の筋肉が緊張で硬直する中、目は勝手に動かずに通風孔を見つめ続けた。影が少しずつその姿を明らかにするにつれ、亮は体温が急激に奪われる感覚に襲われた。青白い肌に包まれた人間の顔──だが、その顔は生気を持ちながらも異常な静けさをたたえていた。
冷たい汗が背中を流れ、亮は硬直したまま後退しようと試みたが、足は床に釘付けにされたかのように動かない。通風孔の隙間から垂れた血混じりの唾液が、ゆっくりとタイルに滴り、そこに赤黒い斑点を生んでいく。心臓が喉元で激しく脈打つ音が、耳の奥で反響した。
その瞬間、トイレ全体が薄い靄に包まれるように揺れた。亮の視界がぐにゃりと歪み、まるで現実がその場から引き剥がされるかのように感じられた。蛍光灯の白い光がくすみ、壁に映る影が奇妙に長く引き伸ばされていく。亮は恐怖に駆られながらも、目の前の光景に動けず立ち尽くした。
視界が揺らぎ、空間全体が微かな振動を伴いながら、蛍光灯の光は薄れ、代わりに冷たい影が壁から滲み出すように広がっていく。何が起きているのか理解できないまま、亮は目の前で繰り広げられる異常な出来事に釘付けになっていた。
通風孔に浮かぶ顔は、一層くっきりとその姿を現し、亮を冷たく見下ろしていた。生気を持つその目は、ただ見つめているだけなのに亮の心を射抜くような力を持っていた。顔の皮膚は薄い青白さを帯び、唇から垂れる赤黒い液体が床に音を立てて滴る。空気がますます重くなり、まるでその場のすべてが彼に向けられているかのようだった。
亮は後ずさろうとしたが、足は床に縛りつけられているかのように動かなかった。体中を冷や汗が伝い落ち、指先は恐怖で震えていた。何も言えず、何もできないまま、ただ不安と恐怖の中に取り残されていた。
壁のタイルはゆっくりと変質し、ひび割れた隙間から黒い影が細い糸のように伸びていく。亮はそれを視界の隅で捉えながらも、恐怖で体を動かせずにいた。周囲の音は完全に消え、耳の奥で響いていた自分の呼吸音だけがやけに大きく感じられた。目の前の景色は、薄暗い靄に包まれ、現実とはかけ離れた異様なものに変わっていく。
瞬間、鏡に映る自分の姿に目を奪われた。鏡の中の自分は、その目が深い闇のように濁っており、顔に奇妙な笑みが浮かんでいた。自分自身が自分ではないような、理解を超えた恐怖に包まれた亮は、背後の冷たい影がゆっくりと近づいてくるのを感じた。
生首は、ゆっくりと通風孔から滑り出してきた。冷たい空気が彼の体を這い、鋭く刺すような感触が肌に伝わる。亮の心臓は胸の奥で暴れ回り、呼吸が乱れていく。生首の目はどこか優雅でありながら、凍りつくような冷たさを湛えていた。その口元が少しだけ開き、血混じりの液体が再び滴り落ちた。
体は動かず、視界は暗闇と光の間で揺れている。亮はただ立ち尽くし、意識が遠のいていく中、冷たい影が彼を飲み込もうとしている感覚に襲われた。
亮は、周囲がまるで生きているかのように歪み続けるトイレの中で、全身を硬直させたまま立ち尽くしていた。天井から滑り降りるように、あの生首がさらに姿を現す。光が失われていく中で、その瞳が輝きを放ち、まるで冷たい喜びを含んでいるかのようだった。皮膚はひび割れ、筋が露わになった箇所から血が滲み、唇は乾いた音を立ててわずかに動いた。
亮はその場から逃れたくても体が動かず、まるで時間が彼だけを取り残して流れているように感じた。生首はついに完全に通風孔から滑り出し、亮の目の前に降り立つと、地面に転がりながらも目を逸らすことなく彼を見つめていた。
部屋の空気はますます重苦しくなり、亮は自分の呼吸が浅く、速くなっていることに気づいた。心臓が痛いほど脈打ち、全身が恐怖で凍りついていた。視線を鏡に移すと、そこに映る自分の姿は異様に歪んでおり、肌は青ざめ、目が深く黒く沈んでいた。
鏡の中の亮が、ゆっくりと笑いを浮かべるように口角を上げた。その動きが現実で起きていることとは思えず、亮は思わず目を瞑った。しかし、瞑ったはずの目を開けた時、視界はさらに異様な光景へと変わっていた。
生首が這いずる音が、耳にこびりつくように響く。亮はそれを感じながらも動けず、ただその存在が彼を飲み込もうとするのを見ているしかなかった。冷たい影が足元を這い上がり、まるで囚われた獲物を掴むように彼の体を締め付けた。
亮は恐怖に支配され、意識が薄れそうになる中で、生首がゆっくりと彼の足元にまで這い寄るのを見た。冷たい影が絡みつき、まるで生きているかのように彼の体を締め上げる感覚が襲ってきた。生首は微かに揺れ動き、その虚ろな瞳はまばたきもせずに亮を見つめていた。
空間全体が歪み、鏡の中の自分が狂ったように笑い出すのが見える。鏡越しに亮を見つめ返しているその顔は、自分自身のものではなく、今目の前にいる生首と同じ、異様な冷たさを持っていた。亮は息が詰まり、視線を逸らそうとするが、体は意識とは裏腹に動かない。
生首はそのまま亮の脚に触れ、その冷たさが骨の奥にまで浸透していくのを感じた。その瞬間、亮は全身に電撃のような震えを覚え、絶叫したい気持ちが湧き上がったが、喉はまるで凍りついたかのように声を出すことができなかった。視界がちらつき、意識がぼやけ始める中で、鏡の中の「亮」が突然言葉を発した。
「お前はもう、ここから出られない。」
その声は亮の頭の中に直接響き渡り、彼の心を砕くかのように響いた。絶望感が彼を覆い、全身が震えた。目の前の光景がゆっくりと暗転し、亮は体が引きずり込まれるように倒れ込んだ。
冷たいタイルの感触が体全体に染み込み、意識は遠のいていった。体は動かず、瞼は重く閉じられたまま、頭の中で異様な囁き声が響いていた。亮の中で何かが崩れ、視界が闇に包まれたまま、冷たい空気が体を包み込む。闇の中で亮は、自分の存在が徐々に薄れていくのを感じた。心臓の鼓動さえも遠くの音のように微かに聞こえ、体の感覚が失われていく。
突然、冷たい風が顔に当たり、亮の目が微かに開かれた。だが、目の前に見えるのは狭い通風孔の中から覗く視界だった。彼は自分が動けずにその場所に固定されていることに気づき、恐怖が再び全身を駆け巡った。亮の視点から見えるのは、トイレの床に散らばる汚れと、壁の影だけだった。
その時、亮の体が目の前を横切り、立ち上がっていることに気づいた。彼の体は、冷たく笑みを浮かべる別人の顔を持っていた。ゆっくりとトイレのドアを開け、外の世界へと消えていった。亮は声を上げようとしたが、口を動かすことができず、ただ視界が狭い空間に固定されたままだった。
時間がどれほど経ったのかも分からない。亮は冷たく狭い通風孔の中に閉じ込められたまま、自分が生首として存在していることを理解した。自分の体が別の存在に操られていくことを見送るしかないという恐怖と絶望が、彼を覆い尽くしていた。
冷たい空気の中で、次の訪問者を待つという奇妙な感情が、亮の中に芽生えていく。
亮は狭い通風孔の中で、意識を持ちながらも声も出せず動けもしないまま、自分の運命を受け入れざるを得なかった。体温が失われ、冷たさだけが支配する中で、亮の心は絶望と混乱に飲まれていった。外の音は遠く、かすかな風の音や人々の声が届くこともあったが、それはもう彼にとって何の意味も持たなかった。
周囲の冷たさが骨の奥まで浸透し、亮は自分が生首としてトイレの一部になってしまったことを感じ始めた。蛍光灯の光がかすかに揺れ動く中、その光が通風孔の中にも差し込んでくるたびに、彼の目は再び異様に開かれ、トイレの床を見つめていた。
時間の感覚が失われる中で、亮はやがて、自分の中に奇妙な感覚が芽生えるのを感じた。それは次の訪問者を待つという期待に似た感情だった。冷たい金属の中で、その思いは徐々に膨れ上がり、彼の意識を支配するようになった。
トイレの外から、自動ドアの開く音が微かに聞こえてきた。新たな足音が近づいてくるたびに、亮の目に冷たい光が宿り始めた。
冥き(くらき)道 秤 理 @Osamuthabalance
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