冥き(くらき)道

秤 理

霊の通る道

彼は、ただ目を閉じていた。暗い車窓に映る自分の顔は、街灯に照らされた瞬間、疲れ切った誰かの姿のようにも思えた。

田中俊夫。会社では営業職を任される、四十代に差し掛かる中年の男。出張を重ね、忙しなく働き続けることで生活が成り立っている。気が付けば、酒や煙草で緊張を誤魔化し、休息を諦めることが日常となっていた。結婚はしていた。だが妻との間にはすれ違いばかりが積み重なり、離婚してしまった。今は働くことが心の拠り所になりつつあった。


「次は静安(せいあん)町、静安町です。お降りの方は……」


列車の車内放送が響く。車窓から見えるのは、点在するわずかな明かりと、ゆらめく木々の影。彼はため息をつき、小さなスーツケースを握り直した。長期の出張は慣れっこだが、山奥の古びた旅館に泊まるというのは珍しい。名前を「霧見館」というそうだ。一種の不安を抱えつつも、珍しさからくる期待もあった。


降り立った静安町の駅はひどく寒く、空気が薄いように感じられた。十一月も半ばを過ぎ、紅葉も色褪せ始めた山間の町は、寂れた空気に包まれている。小さな駅舎には人影はなく、駅舎の灯りも控えめで、どこか暗い雰囲気が漂っていた。そんな中、駅前で待っていた一台のタクシーが、夜の静けさをかき乱すようにヘッドライトを点ける。


「田中さん、かい?」


無精髭を蓄えた運転手が確認の声をかけ、田中は軽く頷いた。車内に滑り込むと、運転手は何も言わずにアクセルを踏み込む。山間の小道を登りながら、運転手はぼそりと呟いた。


「ここは、あんまり人が来るような場所じゃないんだがね。どうしてまた。」


「ええ、まぁ。仕事でして。」


田中が軽く笑って返すと、運転手はそれ以上何も聞かず、再び無言で車を走らせた。助手席の窓から外を眺めると、夜の森が奥深く広がり、時折、冷たい月の光が木々の隙間を抜けて照らしていた。その静寂には、どこか非現実的な感覚があった。

タクシーは緩やかな坂を登り続け、山の中腹にぽつんと建つ旅館に到着した。「霧見館」の看板は煤け、古びた趣がある。周囲は森に囲まれ、近隣には他の建物も見当たらない。まるでこの旅館だけが時間から切り離され、取り残されたかのような佇まいだった。


「今夜はここでお休みですかい。」

運転手がつぶやくように言った。田中は軽くうなずくと、荷物を手に取り、地面に足を付けた。車は静かに暗闇の中に消え、目の前にある旅館の灯りだけが田中に影を作っていた。


旅館の門をくぐる。寒々しい玄関には鈴の音が響き、奥から女将が出迎えに現れる。


「いらっしゃいませ、田中様。お疲れ様でございます。どうぞお入りください。」


女将は小柄で、年の割には痩せた顔つきをしている。目は鋭く冷たい光を帯びており、彼女が口にする挨拶の言葉にはどこか張り詰めたものがあった。彼は無言で頭を下げ、案内されるままに旅館の奥へと進んだ。

館内の廊下は、薄暗い照明と湿気が漂い、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。床が古いせいか、彼が歩くたびに微かに軋む音が響き、その音が耳に残る。彼は、次第に自分が何か異質な場所に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。


「こちらが本日のお部屋、『霧の間』でございます。」


襖を開けると、広々とした和室が広がった。窓の向こうには、山と木々の影が暗闇に溶け込むように見える。わずかな月明かりが障子に差し込み、静けさと冷気が一層際立っていた。


「少々冷えますので、お風呂に湯をためておかれると部屋が温まりますよ。こちらは山間ですので、湿気を保つことでお部屋が少し暖かく感じられます。」


風呂の湯をためるよう勧められることなど、これまでの宿泊で経験したことがなかった。何か深い意味が込められているのだろうかと考えたが、結局は何も尋ねずに頷いた。

女将が静かに部屋を去ると、重い体を座布団に沈め、静かに息を吐き出した。都会の喧騒から離れ、静寂に包まれるのは確かに心地よい。しかし、その静けさの中に一抹の不安を感じるのも事実だった。


彼は、その不安をかき消すように、風呂場へと足を向けた。

風呂場の蛇口をひねると、温かい湯が出始めた。湯がたまる音が風呂場にこだまする中、田中はふと、鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。目の下には濃いクマが浮かび、やつれた顔が映っている。普段は気に留めないが、こうして静かな場所で自分の姿を眺めると、日々の疲れが思った以上に顔に現れているのが分かる。


「歳を取ったな……」


独り言をつぶやきながら、田中は鏡に手を伸ばし、映る自分の顔に触れた。冷たいガラスの感触が指先に伝わる。久しぶりにこうして自分と向き合っていると、時間の流れがどこか他人事のように感じられた。

しばらくして、ふと湯船の方を振り返った。湯がたまっているはずなのに、湯気が立ち上る気配がない。不思議に思い、田中は湯船の縁に近づき、手を差し入れた。その瞬間、彼の表情が凍りついた。


「……冷たい?」


温かい湯が出ているはずだったが、湯船にたまった湯はまるで冷水のように冷たかった。手を引っ込め、もう一度蛇口を確かめたが、確かに温水が出ている。それなのに、湯船の中だけが異様に冷たかった。


田中は冷たい湯の感触が残る手を見つめながら、深いため息をついた。何とも言えない不安が胸の奥にじわじわと広がっていく。寒さを感じるせいか、体が小刻みに震え始めた。あの冷えた湯の感触がどうにも頭から離れない。だが、疲れのせいだと思い直し、ふと気を取り直して布団に潜り込むことにした。

部屋の明かりを消し、寝ようと目を閉じると、さっきまで感じていた冷たさは一層増したように思えた。布団に包まれているにもかかわらず、まるで冬の夜に氷点下の中にいるかのようだ。そして静寂の中、耳を澄ませていると、こつ、こつ、と妙な音が聞こえ始めた。


遠くから小さく、床を叩くような足音が響いてきた。その音は、誰かが旅館の廊下をゆっくりと歩いているようなものだった。普段なら宿泊客の足音だと気にも留めなかっただろう。しかし、この足音はどこか異様だった。規則正しく、間を空けて続く足音が、次第に自分の部屋に近づいてくるように感じられた。


息をひそめ、布団の中でじっとしていた。足音はやがて、彼の部屋の前でぴたりと止まり、そこで静寂が戻った。耳に響く冷たい空気の中で、一瞬だけ自分の心臓の音がやけに大きく感じられた。


しばらくして、再び足音が響き始め、今度は遠ざかっていく。彼は体を硬直させたまま布団の中で動けず、やがて足音が完全に消え去るまで待ち続けた。何分経ったか分からないが、静けさが戻ってきた頃、ようやく布団から顔を出した。


外には誰もいないと分かっていながらも、また同じ足音が響くのではないかと恐怖が押し寄せてきた。疲れを感じながらも、夜が明けるまで彼は一度も深い眠りにつくことができなかった。


  ***


翌朝、目覚めた田中は昨夜の出来事が夢であってほしいと願っていた。しかし、冷たい湯の感触や、足音が止まった瞬間の冷気は鮮明に記憶に残っており、それがただの幻覚でなかったことを確信させた。旅館での朝食の場に行くと、数名の宿泊客が静かに食事をとっていた。彼も朝食をとりながら、少しでも昨夜の恐怖を忘れようと努めた。


「よくお休みいただけましたか?」


女将が近づき、声をかけてきた。田中は躊躇しつつも、昨夜の足音について尋ねてみた。


「ええ、まぁ、でも夜中に廊下で足音がしたような気がしたんですが、他の宿泊客ですか?」


女将は少しの間言葉を選んでいるように見えたが、やがて笑顔を浮かべた。


「足音ですか……この旅館は古い建物ですので、木が鳴ることがよくあるんです。」


彼女の答えに疑念を抱いたが、それ以上深く追及することは止めた。女将の表情には何か含みがあり、この先のことを聞く気にはなれなかった。知りたくなかった。朝食を終えた彼は、足早に食堂を後にし、準備を整えて仕事に向かう準備を始めた。


***


田中が訪問先の会社に到着すると、担当者である寺内(てらうち)がすぐに応対してくれた。打ち合わせは順調に進み、事業の段取りや物流の手配に関する話が次々に決まっていった。

昼過ぎ、用意された会議室で寺内との会話が一区切りついた頃、田中は何気なく昨夜の旅館での体験について軽く話してみることにした。山間の旅館に泊まったという話題から、昨夜の奇妙な出来事について触れると、寺内の表情がわずかに変わった。


「霧見館にご宿泊ですか……」


寺内の声には、微妙な緊張感が含まれていた。


「ええ、ただの偶然だと思いますが、夜中に妙な足音が聞こえてきて、それが……妙に不気味でして。」


話を続けると、寺内は一瞬、何かを言いかけて口をつぐんだ。彼は再び田中をじっと見つめ、少し声を低くして言った。


「田中さん、あそこには……『霊道』というものがあるんです。」


「霊道……?」聞き返すと、寺内はゆっくりと話を続けた。


「霊道というのは、霊がこの世とあの世を行き来するための“通り道”のようなもので、特に古い土地や歴史のある場所に存在すると言われています。霧見館が建てられているあの場所も、もともと霊道の上にあったとされています。何も知らずにそこに泊まると、霊道に触れ、影響を受けることがあると……」


寺内の言葉には、どこかぞっとする響きがあった。

話を聞きながら、田中は霧見館での異様な冷気や足音が脳裏に鮮明に蘇るのを感じた。冷たい湯、そして廊下で聞こえた足音——それらがすべて「霊道」と関係しているのだろうか。寺内の声は低く、真剣そのものだった。


「田中さん、静安町は自然豊かな土地ですが、古くからいろいろな噂が絶えない場所でもあるんです。特に霧見館が建つその一帯は、“霊道”が通っているらしく、時折、霊が道を行き交うのが感じられると言われています。人から聞いた話ですから、本当のことはどうかは分かりませんが……」


寺内は一瞬言葉を切り、田中の様子を伺うようにしてから、再び続けた。


「霧見館では、泊まる人が夜中に霊の気配を感じたり、冷たい空気に包まれたりすることがよくあると聞きます。特に霊道は、人を惹きつけると同時に、場合によっては“向こう側”に連れて行ってしまうこともあるとか……」


田中は言葉を失った。彼が一晩の宿泊で感じた恐怖が、単なる気のせいではなかったということなのだろうか。寺内の言葉には、背筋が凍るような響きがあり、その話を遮ることができなかった。


「では……私も、何か影響を受けてしまったと?」


寺内は短く頷き、少し躊躇するような素振りを見せた後、はっきりとこう告げた。


「田中さん、もしかしたら……あなたは“霊道”に触れてしまったのかもしれません。霊道に触れると、何かしらの“しるし”が残ることがあるんです。そのしるしが何を意味するのかは分かりませんが、どうかご注意ください」


「しるし、ですか……?」


田中の口元から疑問が漏れたが、寺内は視線を外し、軽くため息をついた。


「すべては『気のせい』かもしれません。何かあっても気にしない方が良いです。でも、しばらくは何か異変を感じることがあれば、すぐにご連絡をください。私はここの人たちと繋がりがありますから、なにか手伝えることがあるかもしれません。」


寺内の言葉には、単なる慰め以上のものが込められているように感じられた。まるで、彼自身も何かしらの不安を抱えているかのように。それでも田中は、再び霊道の話題を切り上げ、仕事の話に戻ろうと努めた。


  ***


その日の夜、再び霧見館へと戻ってきた。旅館の入り口に立つと、あの冷たい空気が彼を出迎えるかのように感じられた。昼間の寺内との会話が頭をよぎり、彼はわずかに不安を覚えながらも、部屋へ向かうために足を踏み入れた。


「今日は、何も起きないでくれ……」


そうつぶやきながら、布団に潜り込んだ。しかし、部屋に漂う冷気は彼を包み込み、寝つきを妨げる。まるで何か見えない存在が彼の周りを徘徊しているような感覚が続く。

再び、耳元で足音が響き始めた。

静寂の中、廊下から聞こえてくるこつ、こつ、という足音が、ゆっくりと近づいてくる。その音は、昨夜よりもさらに鮮明で、耳に突き刺さるような感覚を伴っていた。布団の中で身を縮め、鼓動が高鳴るのを抑えきれずにいた。


「気のせいだ……」


そう言い聞かせようとするものの、足音は確実に彼の部屋の前で止まり、そこでしばらく留まっているようだった。彼は息をひそめ、布団の中でじっとしていたが、耐えきれずに布団から顔を出した。

だが、部屋には相変わらず冷たい空気が漂うだけで、誰もいない。ただ、静かなはずの空間がどこか異様で、空気の重たさがひしひしと伝わってくる。彼はゆっくりと襖に向かい、恐る恐る耳を傾けたが、足音はぴたりと止まったままだった。


やがて、静寂が戻り、彼は襖を開けることもできないまま布団に戻るしかなかった。だが、その静寂の中にも、なぜか部屋全体が冷たい「気」に包まれているように感じられた。冷気が体に染み込み、まるで自分自身が霧に包まれているかのようだった。


***


疲れ切った顔で目を覚ました。昨夜もまともに眠れず、彼の体は重たく、頭痛さえ感じる。すべては霧見館に来てから始まったことだ。ここで感じる異常な冷気、そして足音の謎……。寺内が話していた「霊道」が頭から離れなかった。


朝食を取ろうと食堂に向かうと、女将が微笑みを浮かべて近づいてきた。彼女の表情はどこか曖昧で、まるで彼が何を感じているのか察しているかのようにも見える。


「田中様、昨晩はよくお休みいただけましたか?」


女将の問いかけに、言葉を詰まらせてしまったが、正直に昨夜の出来事について軽く話してみることにした。


「ええ、でも、夜中にまた廊下で足音が聞こえて……それに、妙に寒くて……」


女将は表情を変えず、静かに話を聞いていたが、やがてわずかに頷くと低い声で言った。


「霧見館は古くからここに建っており、周囲には様々な話が伝えられています。夜中に何かを感じることがあるかもしれませんが……あまり気にしない方がよろしいかと。」


寺内と同じようなことを言っていた。だがその言葉には、何か含みがあり、彼女が詳しく話すことを避けているように思えた。それ以上は何も聞くまいと朝食を済ませて部屋に戻ったが、女将の態度が一層彼の不安を掻き立てていた。


***


仕事を終えて夜に再び霧見館に戻ると、彼はふと自分の影がどこか薄れているように感じた。館内の薄暗い廊下を歩きながら、壁に映る自分の影がどこかぼやけている。足元の影もまた、微かに揺らぎ、まるで霧に包まれているかのようだ。

彼は軽く首を振り、気のせいだと自分に言い聞かせながら部屋に戻った。ふと風呂場の鏡に映る自分の姿を確認したとき、再び異様な感覚に襲われた。


「影が……」


鏡に映る自分の影が、不確かな輪郭を持っている。明るい照明の下でも影はどこか薄れて見え、まるで自分自身が消えかけているような錯覚を覚えた。恐怖が込み上げ、思わず後ずさりしたが、その瞬間、何事もなかったかのように影は元の形を取り戻していた。


布団に横になっても、彼の体は緊張で強張り、冷気が体の芯に染み込んでいくのを感じる。その冷たさは、まるで霊道から這い上がってきた霊の手が彼に触れているかのようだった。


***


翌日、再び訪問先の会社に向かった田中は、寺内に昨夜のことを話すべきか迷ったが、どうしても話したい気持ちが募り、彼を見つけて声をかけた。


「寺内さん、実は……昨夜もまた妙な冷気と影の薄れを感じてしまって。」


寺内は彼の表情をじっと見つめ、少し沈黙した後、思い詰めたように口を開いた。


「田中さん、霧見館に泊まって以来、影が薄れていると感じるようになったとすれば……それは霊道の影響かもしれません。」


彼の言葉にさらに不安を感じ、冷たい汗が背中を伝った。


「影が薄れることが、霊道にどう関係するんですか?」


寺内はわずかに顔を曇らせ、さらに低い声で続けた。


「霊道は現世と異界をつなぐ“通り道”です。霊道に触れることで、その“しるし”が残るとされているのですが……影が薄れるのも、そのしるしの一つと言われています。」


田中は息を詰め、言葉を失った。

寺内の説明に深く考え込んでしまった。自分の影が薄れるという異常な現象が、ただの気のせいではなく、霊道に触れたことの「しるし」だとしたら。彼の中で、不安と恐怖が渦を巻き始めた。


「田中さん……」


寺内の声が、どこか遠くから響くように感じた。田中が顔を上げると、寺内の表情には、驚くほどの憂いが漂っていた。


「霊道に触れることは、単なる接触だけでは済まされないことがあるんです。一度霊道の気配を感じてしまうと、それがしるしとなり、人を徐々に異界へ引き寄せてしまうといわれています。」


「引き寄せられる……?」


声はかすれ、冷や汗が額に滲んだ。寺内は軽くうなずき、さらに続けた。


「影が薄れていく感覚があるなら、今すぐにでも対策を講じるべきかもしれません。霊道に触れた人々の中には、その後、徐々に現実から遠ざかり、最終的に……消えてしまったと言われる話もあります。」


消えてしまう、という言葉が頭の中に残響した。その恐ろしい運命が自分のものになりかけているのではないかと、背筋が凍るような気持ちを抱えたまま、寺内の話を聞き続けた。


「田中さん、霧見館を出てできるだけ早くここを去った方が良いかもしれません。しるしが薄れるのを願うしかありません。」


寺内の提案に従うかどうか迷いながらも、田中は静かに頷いた。そしてその夜、彼は今後の出張の予定を変更し、急いでこの町を離れる準備を整えることにした。


***


その夜、旅館に戻り、何とか眠ろうと努めた。しかし、部屋に取りつく冷気は一層強く、全身に染み込むように感じられた。何度も寝返りを打ちながら、彼は気持ちを落ち着ける方法を模索していたが、頭の中では寺内の言葉が渦を巻いて離れなかった。


午前二時を過ぎた頃、彼は再び廊下で聞こえる足音に目を覚ました。

昨夜まで聞いた足音よりも重々しく響き、まるで誰かが部屋の中へと入ってくるかのようだった。息を潜め、恐怖に体が硬直してしまう。布団に包まったまま、一切動けずにいたが、次第に影が自分の体の輪郭をぼんやりと覆っているように感じられた。


その瞬間、襖の向こうに微かな囁き声が聞こえた。彼の耳元で響くように感じられる不気味な囁きだった。鼓動が速まり、恐怖で全身が強張ったが、何とか気を取り直し布団を蹴り飛ばして立ち上がった。

恐る恐る襖を開けると、そこにはただ冷たい空気が漂うのみで、誰の姿も見えない。しかし、その場には得体の知れない冷気が漂っており、まるで霊道の気配そのものが部屋に充満しているかのようだった。

彼は震える体を抱え、決心した。この場所をすぐに離れようと。しかし、寺内の言葉がふと脳裏に浮かんだ。


『影が薄れ、最終的には消えてしまうこともある……』


この不気味なしるしが本当に消えるのか、霧見館を出ても、何も解決しないのではないかという不安は取り除けなかった。


***


翌朝、荷物をまとめて霧見館を後にした。女将に挨拶をし、彼女もいつもと変わらぬ表情で送り出したが、その目には何か悟っているような曖昧な微笑が浮かんでいた。霧見館から駅へと向かうタクシーの中で、彼はまだ冷気が体に纏わりついているような感覚から逃れられなかった。

静安町の駅で列車に乗り込み、都会へと向かう道中も、背後に誰かの視線が付き纏っているような気配が続く。車窓に映る自分の姿が、どこかぼんやりと、はっきりしないのを見て動揺した。冷や汗が止まらない。列車の中で、都会の生活に戻れば、何もかもが元に戻れるようにと祈り続けていた。


***


都会に戻った彼の生活は、以前と同じように見えた。彼の中にはあの霧見館での体験が常に引っかかっていた。会社に出勤し、通常の業務をこなす中で、ふとした瞬間に感じる冷気や、曖昧になった影の存在が彼を苦しめる。周囲から見えない何かが、彼の生活に忍び寄っているかのようだった。


ある夜、彼は自宅でふと鏡を覗き込んだ。そこに映る自分の姿は、以前よりも影が薄く、そしてどこか現実味を欠いているように見えた。自分という存在が無くなってしまうのではないかという恐怖が再び彼の胸を締め付けた。

あの町で寺内が警告した「異界に引き寄せられる」という運命が、徐々に自分のものになりつつあるのではないか。彼は自分の影がいつ消えるとも知れない恐怖に苛まれ続けるのだった。


それから彼の日常は徐々に狂い始める。静安町から戻った直後は、あの出来事を忘れようと仕事に打ち込んだが、ふとした瞬間に感じる冷気と、曖昧になった自分の影が、彼を現実から引き離そうとするようだった。出勤するたび、周囲の同僚から「最近、顔色が悪い」「ちゃんと休んでいるのか?」と心配されるが、笑ってごまかし、誰にも打ち明けることができなかった。


ある晩の寝室。不安と恐怖が頭から離れず、どうしても眠れなかった。霧見館の足音が記憶の奥底からよみがえり、寒気が背筋を走る。そのとき、ふと目を開けると、視界の隅にぼんやりとした影が映った。


「誰か、いるのか?」


思わず声を上げて部屋の電気を点けるが、部屋の中には何も異常はなかった。ただ、冷たい空気だけが漂っており、息を吐くと白く見えるほどだった。ふらつく足で鏡の前に立つと、再び自分の影が薄れているのを確認した。

「しるしか……?」静かに囁いた言葉は、自らの胸に不安を増幅させるだけだった。何度も鏡を覗き込んでは、薄れる影が再び元に戻っているかを確かめようとするが、何も変わらない。むしろ、日に日に影が薄れていくようにすら感じられた。


***


数日後、会社のデスクで業務をこなしていると、寺内から電話がかかってきた。寺内はしばらく話をしてから、最後にこう告げた。

「あれから何か異変はありませんか? もし影の薄れが続いているのなら、少し心配です。」

「ええ……少し、不安を感じています。自宅にいても影が曖昧になるようで、背後に冷たい気配を感じることがあるんです。」


寺内は沈黙を保った後、ゆっくりとこう言った。


「そうですか……霊道に触れた影響は、一度だけでは収まらないこともあります。私に知り合いの専門家がいるので、相談してみてはどうでしょうか? 霊道の影響を除去する方法があるかもしれません。」


もしかすると、この影の薄れや冷気は取り除けるかもしれない。しかし同時に、寺内の言葉には何か不穏な響きも含まれているように感じる。まるで、すでに自分が「向こう側」へ引き寄せられつつあることを暗示しているかのように。


***


数日後、寺内が紹介してくれた専門家が訪ねてきた。彼は神妙な面持ちで旅館での話を聞き、「霊道の影響に触れた者が持つ“しるし”は、通常の方法では完全には消えないことがある」と伝えた。その言葉に絶望を感じつつも、どうにか元に戻れる道はないかと必死に食い下がった。


「完全に消えない……ということは、ずっとこの影が薄れたままだと?」


専門家は申し訳なさそうに頷いた。あなたが見ている幻覚はもはや、施しようのない状態にまで達しているようだ、と。その言葉を聞いて心の中で沸き上がる不安を隠しきれなかった。彼の影は、以前のように戻ることはないかもしれない。


その後も彼の生活は何も変わらなかった。霊道に触れてしまった“しるし”は消せない。日常に戻ろうと努めても、彼の影はどこか薄れて見え、冷気が背後にまとわりつく感覚は日に日に強まっていった。


自宅でふと窓の外を見つめていた。街の明かりに照らされた自分の影がガラスに映っているが、どこかぼんやりとしている。背後には見えない何かが彼を見つめているような錯覚を感じ、慌てて視線をそらした。霧見館で過ごした夜以来、彼の生活には確実に異界の影がつきまとっていた。


家の中でも、静かな時ほど冷気が強く感じられるようになった。特に夜、部屋の隅に立つ影の気配が彼の心を苛んだ。自分の影が少しずつ薄れると同時に、得体の知れない何かが自分の中に入り込んでくるように感じられた。


日常の中で次第に自分の存在が消えかけているようだった。朝、鏡を見つめるたび、そこに映る自分の顔がどこかぼんやりとぼやけているように見える。会社でも同僚たちは彼に声をかける頻度が減り、まるで彼の存在に気づかないかのように素通りしていくことが増えていった。

自分が「ここにいる」という実感が薄れていく恐怖に、彼は次第に追い詰められていった。会社の帰りにふと街の明かりに目をやると、ガラスに映る自分の姿がどこか輪郭を失っているのを感じ、慌てて自分の体を抱きしめた。温かさを確かめることで、自分がまだ存在していることを確認しようとするかのように。


「……俺はまだ、ここにいる……」


自宅に帰り、眠りにつく。冷気に包まれながら、意識が遠のいていく。まるで自分の存在が霧散していくかのように。


***


翌朝。これまで自分を取り巻いていた不気味な出来事がすべて消え去っていることに気づいた。霧見館での冷たい足音、薄れる影、そして背中に感じた冷気。そういった異常な現象はすっかり影を潜め、生活は何事もなかったかのように静かで平穏になっていた。


「ようやく、普通の生活が戻ったんだな。」


そう呟き、鏡に映る自分の顔を見て微笑んだ。影は以前と変わらずはっきりと映り、鏡の中の自分もどこか落ち着きを取り戻しているように感じられた。深い息をつき、長い間の不安から解放された安堵感に包まれた。

会社でも、日常の仕事をこなし、会話を交わし、笑い合う日々が戻った。自分が少しばかり過敏になっていただけで、何もかもが元通りになったのだと、彼は確信していた。


夜、自宅で椅子に腰掛け、静かに本を読む。部屋の中は静寂に包まれていて、時計の針が規則正しく時を刻んでいる音が心地よかった。ふと窓の外を見ると、街灯の明かりに照らされた路地が見えた。夜風が木々を揺らし、その音がかすかに耳に届く。

もう不可解な出来事は起こらない──。






街を歩く人々は、わずかに寒気を感じて足を速めた。誰もその理由を知ることはなかった。すれ違いざまに彼から時折漂う冷たい空気が、通りを歩く人々の背筋を微かに震わせるのだった。

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