キック対ペダル

 騎馬の無茶なスタートダッシュはイレギュラーだったが、棚ぼた式にぼくの位置取りは理想の形になった。前がベイン、ぼくが後ろだ。先行車両の背中にぴったりと付いて、心理的なプレッシャーを与えつつ、空気抵抗を減らす定番のスタイルである。ベインのライン取りは的確で、石畳にはついぞ入らず、ドライなダートをきっちり捉える。おかげでぼくはキックに専念できる。


 序盤の展開はここから大きく乱れなかった。先行の馬がさすがにへばったか、すこしペースを落としたが、後続の追随を許さず、道の果ての点となった。これと同じくらいの間隔でぼくの後ろにランナーがちらほら見えた。ぱっと見で徒歩の先頭集団の速度は時速十キロ強だ。この古風な路面とあの鈍重な履物でそのペースはもはやアスリートのレベルである。ロバとラバはどっちがどっちだ? 最後尾の馬車はとうに見えない。


 二人きりの第二先頭集団が中盤に差し掛かったとき、ベインの動きがやにわに乱れた。何とこの若大将は目印を間違えて、脇道にぎこぎこ突っ込んでしまった。予習不足の凡ミスだ。


 ぼくは彼の背中を尻目にしつつ、正しい目印を見つけて、カーブを曲がった。数十秒後、後方から「あっ!」という叫び声が聞こえて、がしゃがしゃという慌ただしい物音と猛追撃のプレッシャーが背後から迫った。その差は約百メートルだ。 


「勝手に行くなよ! 卑怯だぞ! おらー! どけー! おらー!」


 ベインの怒声とペダルの軋みがはっきり聞こえた。ぼくは若社長の理不尽な難癖とスピード狂的な気迫にひるんで、ペースを乱された。道中の野次馬はこの小競り合いに沸いた。


 ふとペダルの気配が穏やかになった。ぼくが振り向いた目と鼻の先にベインの不適な顔があった。楽ちんなポジショングがバレたか!


「ああ、ここは楽だな。やっぱ、卑怯じゃないか。人の陰でこそこそしてさ」


「作戦と言え。あ、後ろの走りの人が来るぞ!」


「え?」


 もちろん、出まかせだった。ぼくは瞬間的に加速して、ライバルのプレッシャーから逃れた。


 このコースのクライマックスは往路の終盤だ。茶屋への坂道が唯一の上り区間である。距離一キロ、高低差プラス五十メートル、これは変速付きや電動アシストにはイージーだが、キックバイクやシングルギアにはハードだ。


 先頭の栗毛はすでに登り坂の半ばにいた。ペースはがたっと落ちて、躍動感はなかったが、その差はまだ歴然だった。


 ぼくはそれを遠目に見上げて、一時的に車体から降りた。


「行けよ」


 ベインの声が後ろから聞こえた。


「休憩」


「年だな」


「あー、馬が勝っちまうぞー」


「勝つのはおれだ!」


 ベインはぼくを追い抜き、立ち漕ぎで上り坂に突進した。身体の振り方や体重の乗せ方は練習の成果を感じさせた。


 ぼくはハンドルを取り直すと、車体にまたがらず、手押しでとことこ駆け出した。これは別に悪ふざけでない。むしろ、効率的な走法だ。理由は簡単、車上のキックより手押しの小走りの方がステップのテンポが短くなるからだ。まんまストライド走法とピッチ走法の差である。上り坂で足の接地の間隔が開くと、勢いが指数的に減衰して、つぎの一歩の負担が大きくなる。結果、実際の速度が乗り手の印象より弱くなり、「ぜんぜん進まんぞー!」と体感のしんどさが増す。手押し小走りではこのギャップはあまりない。


 が、この合理的なピッチ走法は先行のライバルには不評だった。坂の半ばで振り向いた鍛冶屋は怒声を発して、がっしがしペダルを踏んだ。


 ベインはド根性の立ち漕ぎで上り切って、ぼくの視界から消えた。しかし、差はせいぜい二百だ。射程範囲である。気掛かりは別のことだった。


「来ないな?」


 ぼくは首を傾げた。いち早く坂の上に消えた先頭のお馬さんとドラ息子がなかなか戻って来なかった。なんか事故ったか? 出走者的には吉兆だが、運営者的には不穏な兆候だ。


 心配性の三番手は一分遅れで茶屋に着いた。折り返しポイントの空き地は観衆と出店で活況だった。ここで蜂蜜入りの牛乳を一気飲みするのが出走者のノルマだ。これはレース監修者の独断と偏見ではない。糖分、水分、カルシウム、タンパク質を一気に補給できる完全なエイドだ。


 寸前でこれを飲み終えたベインの視線がぼくを捉えた。彼の指が無言で茶屋の脇を指さした。栗毛と道楽息子がそこにいた。順路の絶対勝者に何が起こったか? 落馬か?!


 勝者が道を踏み外したのは季節の産物、色とりどりのりんごの山のせいだった。前半の激走でくたびれたお馬さんはこの旬の果物にばりばり食らいついて、そこから微動だにしなかった。しかも、やんちゃな子供のグループがおもしろがって、いろんな食べ物を持ち寄って、妨害工作に加わった。


「旦那さん、ちゃんとお代を払ってくださいよ!」


 ぼくはドラ息子に牽制を加えて、牛乳をがぶ飲みし、悪ガキどもの猛追を振り切って、後半戦に突入した。

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