レース開幕

 季節外れの陽気が少し続いた。レースの運営本部は慌ただしく動き出し、あれよあれよと週末のレース開催が確定した。絶対に雨だけは論外だった。ぼくは数十年ぶりにテルテル坊主を作って、宿坊の軒下につるした。


 また、順延はぼくには有利にならないが、ベインには有利になる。告知から開催まで時間的な猶予があると、この一番弟子が自転車の乗り方のコツや中距離走のペース配分を掴みかねない。


 事実、ある日の朝にぼくとベインは折り返しのとうげの茶屋でばったり鉢合わせた。こちらはドライジーネで、あちらはペダル付きだった。しかも、やつは上り坂のところどころで立ち漕ぎという新技を披露した! おい、勝手に上達するな! 


 以上の経緯から近日の開催は不可避だった。ついでに年末のきわきわのイベントはレデル工房や後援の皆さまの商売に響いた。ということで、十二月の第一週目の週末が第一回ナグジェ自転車レースの開催日と相成った。


 当日は快晴だった。ゴールの広場には屋台やテントやのぼりが出て、朝から人が集まった。協賛の商工会の偉い人のありがたいお言葉、青年団のパフォーマンス、参加車両や物品の展示、後援者の炊き出しなどはまさにちょっとしたお祭りだった。


「大成功だな」


 ぼくは関係者のテントの下から会場の賑わいを見て、わざとらしく呟いた。


「ああ、皆のおかげだね」

 

 ベインは殊勝に言った。


「馬の人に勝てるか?」


「あー、勝てると思うよー」


 ベインは上の空で言って、メモ用紙をぺらぺらめくった。ぼくが進呈したボールペンと薄い紙は友情のあかしだった。また、これはレデル工房の自転車部門の図面作成を大いにサポートした。


「やけに気楽だな?」


 ぼくは怪訝に言った。


「うーん・・・もう何台が注文が入ってさ」


 社長は神経質にペンを走らせた。


「まじか? 何台?」


「五台。つまり、今の段階ではタロさんの取り分は三十スーンになる」


 これはぼくのロイヤリティの話だった。


「どっちが売れた?」


「これが意外にドライジーネだ」


 ベインはメモを閉まった。


「やっぱりか」


「なんで?」


「チャリの乗り方を知らない人はチャリにすっと乗れない。ドライジーネの方が直感的だ」


「ほんとにそうさ。普通の人は足を地面から離して、ペダルを漕いで、バランスを取って、ハンドルを切って、ということを一遍に出来ない。一度覚えれば何も考えずに感覚で出来るのにな」


「逆上がりや息継ぎと一緒だよ」


「サッカーガリィてなに?」


「ズィーパンの古代の奥義だ。ドライジーネの購入者は将来的なチャリの見込み客だ。商売的にはチャリよりドライジーネが売れる方が儲かる。作るのも楽だし」


「作るのはうちだけどな。でも、おれの力作がぜんぜん売れないのはちょっと残念だ」


 ベインはブースの展示車両と人だかりをぼんやり眺めた。

 

 ぼくは時間にルーズだが、ナグジェの人々はそれ以上だ。集合のドラがべんべん鳴っても、呼び出しが始まっても、参加者がなかなか揃わない。ことさらに金持ちのドラ息子のような人種はマイペースだ。


 案の定、この出走者は最後にやってきて、悪びれずに名乗りを上げ、周囲の観衆をあおった。この乗り手はなかなか小憎らしい若者だったが、乗馬は可愛い栗毛だった。


 ロバの農民とラバの旅人は寡黙だった。二輪馬車の御者は仏頂面である。これは彼が某貴族の代走だからだ。使用人は大変だ。また、この御者の主人がベインのチャリの最初の発注者だった。


 一同はスタート地点のデル橋へぞろぞろ移動した。当然のごとくぼんぼんの馬が先頭に陣取った。ぼくとベインは横に並んで、御者が最後尾に着き、にぎやかしの徒歩勢はばらばらに入り乱れて、ラバとロバはひたすらに沈黙した。


 時計台の鐘がスタートの合図だった。十二名の走者がごーんごーんという響きと観客の声援に押し出された。ぼくとベインは互いの動向を注視しつつ、ぼちぼちの出足で動き出した。


 ところが、この慎重な読み合いはドラ息子の猛烈なスタートダッシュでぶち壊された。乗り手が張り切ったか、周囲の声援が効いたか、可愛い栗毛は後続をあっという間にぶっち切って、一気に十馬身先行した。


「あれは最後まで持つか?」


 ぼくは茫然と言った。


「ダメだ。おれらが遅く見える」


 ベインは焦りを見せて、ペダルを力強く踏んだ。ぼくも釣られて、キックを強めた。

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