ナグジェにて
「先生、ナグジェ語の性変化と格変化はニホン語にはありません。これはほんとに難しすぎる。ぼくはしょっちゅう間違えてしまいます」
ぼくは大げさに嘆いた。
「大丈夫ですよ、タロさん。日常の会話は試験ではありません。あなたのナグジェ語は上手です。私にはあなたのニホン語の漢字が謎々に見える」
先生は頭を振った。
「先生、漢字はニホン語ではありません。チャイナ語です。チャイナ語のニホン形です」
「そうでした。ニホン人はこの漢字をたくさん覚えます。千? 二千? これは格変化より多くありませんか?」
「たしかに・・・」
あれから三か月が経った。要塞のようだった言語の壁はベニヤ板くらいになった。しかし、ドイツ語風の性変化と格変化は依然として強固なハードルだった。
しかしながら、漢字、平仮名、カタカナ、アルファベット、英数字、半角、全角、絵文字顔文字うんぬんかんぬんが混在するニホン語よりこのナグジェ語は圧倒的にシンプルだ。いや、正確にはアミカル語のナグジェ訛りだが。
現在のぼくの立場は保護観察付きの特例的外国人滞在者だ。住所はナグジェ市十三区タンタン通りバスラ神殿付属宿舎の五号室のタロッケス・ヤダムである・・・この発音の方が現地に馴染む。
ナグジェの初日を安宿で過ごしたこのタロッケスさんは即座に金策に行き詰って、ホームレス生活を試みた。しかし、この微妙にこぎれいな身なりと珍妙の神器のせいで訝しがられて、現地の生え抜きのプロに全く太刀打ちできなかった。結果、駆け込み寺への逃走が現実となった。
ナグジェの一般的な宗教は多神教である。つまり、宗教施設の妥当な表記は『寺』や『教会』ではなく、『神社』か『神殿』だ。バスラのような神殿はさしずめ『婆衆羅大社』だ。境内は禁欲的な堅苦しい場でなく、開放的で雑多な空間だ。そんなところも日本の都市部の神社にそっくりである。
物乞い合戦に惨敗したタロッケスは神社の無料の炊き出しを巡回したり、たまに社務所の軒先を借りたり、旅人のキャンプに便乗したり、そのへんのベンチで寝たり、あんなこんなの過程を経て、最終的にこのバスラ神殿の宿坊に落ち着いた。
放浪中のぴりっとした場面は当局の拘束だけだった。一度、ぼくは衛兵にしょっ引かれた。異質な風体と未知の機械が逮捕の理由のようだった。
しかし、それは別に犯罪でない。この人物は不審者ではあるが、それだけである。地元の貧民や難民にはさらさら見えない。この顔形と風体は『遠い異国からの旅人』に準じる。で、旅人は外国人であるから、不用意な扱いは禁物である。拷問? 刑罰? 仮にこの珍妙な風情の外国人が学者や商人や役人や巡礼や貴族及びその関係者であれば、うかつな処分は外交問題に発展しかねない。まず、立場と目的をはっきりさせよう。
と、このような見解で進行するのが当局の思考というものだ。お上はやぶ蛇を突かない。事実、ぼくをしょっ引いた衛兵や調査官はこの不審者の扱いに困惑した。
条件の打破に貢献したのは意外なアイテムだった。メモとペンと紙幣だ。ぼくは読み書きのアピールのために筆記用具を出して、前のページを見せたり、にわか仕込みのナグジェ語の文字を書いたりした。相手は筆記の技量にはとくに驚かなかったが、メモ用紙のページの薄さとボールペンにいたく感心した。そして、千円札の肖像画の精密さと紙質のクオリティが答えを出した。
「おお、こちらはえらい学者さんだ!」
そんなニュアンスの発言があったか、なかったか。その後で少々のたらい回しがあって、解放という名の厄介払いが決定した。結果、ぼくはバスラ神殿の加護にあずかり、先生・・・神主さんとの簡単な面談を得て、巡礼者用の宿坊の一室を貸し与えられた。
現地の言葉や常識を学ぶのにこのバスラ神殿は理想的な場所だった。なぜならバスラは知恵と学問の神さまだから。学業成就のお守りは人気ナンバーワンの売れ筋だ。境内には町民向けの寺子屋があり、希望者は自由に参加できる。ぼくはここの初等科に参加して、ナグジェ語の読み書きを一から習った。
宿と飯のお礼は主に掃除、雑用、庶務、学童の世話だった。この延長でぼくは自転車教室を開催して、ちびっ子や巫女さんたちの人気を集めた。これで数名の自転車乗りがこの街に誕生した。ナグジェ市サイクリング倶楽部の夜明けである。
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