就寝前のルーティーン

「今日は濃い一日だった。いや、今日も濃い一日だった。走馬灯タイムが日課じゃないか。身が持たない。しかし、あの男・・・そう、あんな人型の害獣こそが生まれ変わって、神さまに正しい心と体を貰えよ。でも、まあ、ここに泊れるのはあの悪党のおかげだけどな」


 ぼくは珍しく辛辣な悪態をついて、巾着の小銭をじゃらじゃらさせた。物的証拠の完全隠滅は目前だった。何がしかの金策は必須である。荷受けや工事現場が妥当だろうか。日雇い仕事は久々だ。


 しかし、本業の物書きの能力がこの世界では全くこれっぽっちも役立たない。現地のテキストを読み書きできないライターはもはやただのおっさんだ。そもそも、この中世風の異世界にテキストワークの需要があるか? 庶民の識字率、教育水準、公序良俗はどうだ? 文明世界にあんな暴漢が出るか?


 ぼくは暗い気分になって、スマホを取り出した。このデバイスも持ち主と同じく真の力を奪われて、カメラ付き計算機付きレコーダー付きの『ぶんちん』の体たらくから浮上できなかった。残り三パーセントのバッテリーが哀愁を誘った。


 ぼくは少し考えて、このスマートぶんちんをゼロ丸のアシストパネルのポートに繋いで、給電機能をオンにした。USBケーブルが所持品のなかにあったのは不幸中の幸いだった。スマホの充電は問題ない。ただし、バッテリーの総合的な残量はもう増えない。これは単なる電気の移し替えでしかない。おおよその目安で電動アシストの二パーセントがスマホの百パーセントになる。で、ゼロ丸のバッテリーのグラフは七十七パーセントだ。スマホかチャリか・・・電池の配分と節約は今後の課題だ。


 電動製品の命は儚いものだが、アナログパーツの寿命も無限ではない。マウンバイクはタフな自転車だが、本質的にはぜいたく品、スポーツ用品、専用機材だ。定期的なメンテナンスを受けないと、性能を維持できない。酷使、野ざらし、ノーメンテでゾンビのようにしぶとく生き永らえるママチャリとは違う。


 ということで、ライド後のパーツの目視と触診は自転車乗りのたしなみだ。ぼくは車体の汚れを拭きながら、各部を逐一にチェックした。


 フレーム

 タイヤ

 チェーン

 ブレーキ

 シフター

 サスペンション

 ケーブル 

 

 これらのパーツは正常だった。ゼロ丸くんは健康だった。


「あの大ジャンプとハードランディングで良くぶっ壊れなかったな? えらい子だ」


 先述のように細かい傷は数に入らない。走行や性能に差し障るような大ダメージ以外は漢の勲章だ。むしろ、遊び方の特性的に無傷のぴかぴかのマウンテンバイクは丘サーファーのような微妙な存在である。乗ってなんぼ、走ってなんぼ。


 この日のチェックはややシビアになった。充電と同様にパーツの入手は絶望的だ。自転車で真っ先に消耗するのはタイヤとチェーンだが、この二つは近代以降の産物だ。この世界にはおそらくない。少なくとも、サイズ二十六インチ、ワイズ二・四インチのアグレッシブトレイル系のチューブレスタイヤなどはそのへんの納屋からひょいと出てこない。


 心の支えは携帯空気入れと二個の予備チューブだ。これまでの自転車遊びの経験から無茶苦茶な機材トラブルがなければ、一年間の運用は充分に可能である。


「一年? 一年もここにいるの? タイヤが擦り切れんでも、観光ビザが切れるよ、全くさ」


 ぼくはゼロ丸をすっかりきれいにしてから、おのれの身体をごしごし拭って、晩飯前にこざっぱりした。


 店主は非常に親切だった。夕飯時にわざわざ部屋までやって来て、身振りで『来い』とか『座れ』とか『食え』とか教えてくれた。食事は民宿風のシンプルかつボリューミーなものだった。すなわち、パン、スープ、肉、酒である。


 現地の一般的な食事は都会っ子の舌にはちとワイルドで一癖だが、納豆や漬物よりぜんぜん行ける。エールの味が昼の茶屋のものとまた微妙に違った。この店のやつはナッツみたいなフレーバーだった。


 食事の後にはお決まりのお喋りないしジェスチャータイムが始まった。ランプの明かりのもとで流暢な会話と片言と身振り手振りと笑いが飛び交った。


 ぼくは聞き役に徹して、ヒアリングに励んだ。そちらはイタリア語ぽいフランス語のように思え、こちらは英語みたいなドイツ語然と響き、あちらは中国語らしき韓国語風に聞こえた。つまり、ちんぷんかんぷんである。


「だれか日本語を話せませんか?」


 この日本語の問いかけは満場一致の怪訝な表情と数秒の沈黙を得た。


 ぼくは食堂の皆におやすみを言って、部屋にそそくさと退散し、スマホでこっそり録音した雑談をスロー再生で流しながら、ベッドでごろごろしつつ、深夜まで異世界語の一夜漬けを続けた。

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