人馬一体シングル泊

 広大な野原が農地と牧場に変わり、道沿いの集落が大きくなり、家と家の間隔が密になり、行く手に大きな街並みが見えた。典型的な都市の郊外の光景だ。そして、道端で不意にボールの蹴り合いと相撲が始まった。ほほえましい牧歌的な光景だが、何できみらはそっちのだだっ広い原っぱで遊ばない? チャリンチャリンするぞ!


 ぼくとゼロ丸は都市の玄関口に付いた。もはや道端に空き地はない。二階建て、三階建ての家々がぎゅうぎゅうに立ち並ぶ。門の前や広場や十字路は大混雑の大渋滞だ。ごみごみしたカオスさは東京や大阪のスクランブル交差点以上だ。信号はないが、交通係のような人はいる。


 ぼくは建物の角にもたれて、この様子をしばらく観察したが、ふと道路の端の金属の丸い蓋に気付いて、両手を打ち鳴らした。大きさと形状からそれは明らかにマンホールだった。下水と水洗の可能性が現実的になった。

 

 市内の移動に特段の不自由はなかった。ぼくとゼロ丸は流れに押しやられて、小さな公園に辿り着いた。おやつはチョコ、水分補給は甘苦いオレンジみたいな果物だ。やはり、エールより果汁の方がぼくの口には合う。


 ゼロ丸のユニットの距離表示では今日のライドの走行距離は五十一キロだった。そのうちの五十キロはゆるゆるのんびりサイクリングだが、あとの一キロは決死のチェイスだ。あれで今日の気力の九十パーセントが消滅した。と、さっきの場面が脳裏にちらついて、笑いと身震いが同時に来た。


「あの状況でぼくに非はあったか? いや、なかった、絶対になかった。あれは自業自得だ。何で勝負するならライダーらしく正々堂々とレースで決めない? 素人さんに武器を向けるアホがあるか? あのごろつきはライダーとしても三流だし、ヤクザとしても三流だ」


 しかしながら、優しいたろすけさんは暴漢に多少の同情を覚えた。落馬は落車に通じる。あれはヤバい落ち方だった。しかも、ものの三分で身包みが引き剥がされた。自力救済できない輩の末路があれだ。


 ぼくは気を引き締めて、大通りの雑踏に舞い戻った。これまでの村や町は都会生まれの都会育ちには若干の物足りなさを感じさせたが、この都市はそんなシティボーイにすら正真の大都会だった。シンプルに建物の集積が密だったし、何より道幅の狭さがポイントだった。付近の一番の大通りで十メートル前後、その他の街路はおおむね三メートルから四メートルしかない。建物の外壁は道路のきわきわにある。セットバックはほぼない。これらの相乗効果で圧迫感がひとしおだった。


「カルカソンヌかシエナみたいだな」


 ヨーロッパの有名な古都が口に出た。気分はまさにお上りさんだ。実際、ヨーロッパの歴史街道サイクリングはぼくのバケツリストの一つだ。しかし、この物書き先生はめちゃくちゃ乗り物酔いするので、乗り物での長い移動には大いに尻込みする。旅費や日程や言語や体力はどうにかなるが、乗り物酔いだけはどうにもならない。深夜バスや長距離タクシーに乗るならば、一思いにぷちっと轢かれて楽になろう。その夢が長いフライトや自動車移動なしで叶った。こんなうまいことはない。


 日が少し傾いた。ぼくは疲れを感じて、宿探しを始めた。安宿のような店構えの建物はたくさんあったが、システムと価格が謎過ぎて、決断が鈍った。さらに自転車の置き場所の問題がある。この世界ではアラフォーのおっさんの命よりゼロ丸のパーツの方が貴重だ。ぼくはこの神器を屋外や厩舎や物置には置けない。


 結果的に一軒のお宿が現代人のお眼鏡にかなった。客の多さ、店の前の道の広さ、玄関と看板のきれいさが好印象だった。


 ぼくは手前の旅人の交渉の仕方を見て、自然な流れで店主にアプローチした。大将は外国人の扱いに慣れた様子で「一人?」や「飯付き?」を明快な手ぶりでスムーズに問うたが、最後にチャリを指さして、少し当惑した。


 ぼくは客あしらいのプロに師事して、「これを部屋に入れる」を渾身のパントマイムで表現した。これは即座に通じて、大将の了解が出た。


 宿の一階の右手は受付、左手は食堂で、奥が客室、突き当りが階段だった。食堂の人々は新手の客と奇妙な手押し車に困惑して、談笑を中断した。ぼくは会釈しながら足早に抜けた。狭い廊下にハブの音がかちかち良く響いた。


 部屋は二畳くらいのシングルだった。設備はベッドと机と椅子だ。鍵は内鍵タイプ。極小のフリースペースはゼロ丸の寝床にぴったりだった。百点。何より重い彼氏を階段で運び上げずに済むのは高ポイントだ。二百点の星三つだ。


 ぼくはリュックを机に投げ出して、靴と靴下を脱ぎ散らかし、ベルトをがちゃがちゃ緩めて、ベッドにだらんと寝転がった。

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