ライター対ライダー
そのとき、意外なキャッチコピーが脳裏にぱっと閃いた。
『しずかにしてね。オウマさんがびっくりするよ!』
この一文が一字一句、びっくりマークまではっきり浮かんだ。ぼくのオリジナルではない。これは近所の公園の乗馬センターの看板の注意書きだ。そう、馬は物音にはとても敏感な動物である。野良馬は草を食べながら、つねに耳であたりを警戒し、突然の大きい高い音にはほぼ本能的に反応する。ゆえにこの獣の近くで大騒ぎするのはご法度だ。
直後、敵の手が剣に伸びたように、ぼくの手がベルに伸びた。甲高い金属音がちゃりんちゃりんと盛大に響く。文字どおりに目と鼻の先で騒音の不意打ちを受けた馬は反射的にぶるんといななき、頭を上下に振り乱した。あの注意書きはうそでなかった。
「今だ! わー!」
ぼくは馬に少し同情しつつ、精一杯の音波攻撃で追撃を加え、アシストと人力のフルパワーの全速前進でスタートダッシュを掛けた。速度メーターが一気に三十キロまでアップして、距離がぐんぐん広がった。
ごろつきは体勢を整えて、馬を落ち着かせると、剣を完全に抜いて、鬼の形相でギャロップを掛けた。素行は最悪だが、技術はたしかだ。
かくして、白熱の追走劇が始まった。ぼくは逃げ、あいつは差しだ。チャリの人と馬の人、相棒の違いはあれど、両者はともに騎手、乗り手、ライダーだ。自転車と乗馬の速度域はかなり肉薄する。激戦必須だ。
こちらの先行のアドバンテージは時間にして約十五秒、距離にして百メートルだ。競馬競輪ではこの差はもうひっくり返されないが、この勝負の行方は分からない。
差しの全力疾走はあきらかにこちらより上だった。背後の蹄の爆音が徐々に大きくなって、ごろつきの怒号が聞こえた。
「片手で良く走れるな?!」
ぼくは後ろをちら見しながら感心して、がむしゃらに漕いだ。しかし、石畳やダートではこれ以上の速度が出ない。速度ゲージは三十から三十三くらいで行ったり来たりして、四十キロメートルには達しなかった。そして、ゼロ丸のアシストユニットの最大速度は国内仕様で二十四キロジャストだ。この速度域ではすでにモーターの補助は掛からない。ぼくの足が悲鳴を上げた。
しかも、この全力疾走は短時間しか続かない。あちらの全力が時速五十キロであれば、数十秒でアドバンテージが消える。早くバテろ! バテてくれ!
ごろつきはぼくの希望を無視して、武器を収めて、頭を低くし、拍車を入れて、本気の全力疾走に掛かった。この再加速で差がさらに詰まった。馬の鼻息が首筋に伝わり、地響きで足がピリピリした。そして、二度目のベル攻撃は効かなかった。
ここでぼくは一か八かの賭けに出た。後続の進路を遮るようにわざと正面に入り、背中を無防備に晒した。
後ろからちゃきんと金属音が聞こえた。直後、ゼロ丸の車体がぎゅんと傾いた。道端の看板がハンドルの端をかすめる。一瞬、車体がぐらぐらしたが、ぎりぎり耐えた。後ろはどうだ?!
ごろつきはぎょっと手綱を引いたが、正面の死角から現れた障害物をかわし切れず、看板の角で脛を激烈に強打し、ぎゃっと悶絶しながら転げ落ちた。
逃げのライダーは慣性で大きく回遊して、安全圏に逃れつつ、相手の様子をうかがった。死傷者が出るのは本意ではない。やまだたろすけは平和を愛する騎士だ。
まもなく、ぼくはほかの野次馬たちと一緒になって、ごろつきのもとへそろそろ近づいた。検証の結果、馬は無傷で、乗り手は重傷だった。地べたにくの字で倒れた悪党は呼びかけに答えなかったが、ちゃんと息をしたし、ときおり身もだえした。
現地の人々はしたたかでリアリストだった。一人はかたわらの剣を拾ってさっさと逃げ、別の一人は身ぐるみをはぎに掛かり、もう一人は馬の荷を荒らし始めた。
ぼくはこれらの活動には目をつぶり、見よう見まねで馬を引いて、野原の方に逃がした。そして、そのままその場を離れかけたが、野次馬の一人に呼び止められた。
さいわい新たなトラブルの合図ではなかった。男の手から巾着袋が飛んできた。餞別だ。目配せで分かる。出所を問うのは野暮だ。はい、ありがたく頂きます。
ぼくは草原の黒馬を横目にしつつ、多大な達成感と少々の罪悪感を抱えながら、駆け足で現場から離脱した。
街道は平穏を取り戻した。しかし、気楽な観光気分は完全に霧散した。二日目の午前にこのチェイスはちょっと刺激的に過ぎた。頭と胸ががんがんするし、嫌な汗がだらだら流れる。
しかし、小心者の足は止まらず、二つの村と集落を通り抜けて、休みなしで昼下がりまでペダルを漕いだ。
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