第1章:『目覚め』

第1話 「悪夢のカウンター」

母が死んだ日から、私は悪夢を数えている。

【悪夢カウンター:8721回目】

【バイタルデータ異常:心拍数上昇】

【NAIシステム:正常稼働中】

網膜に投影される文字が、また今朝も私を起こした。


「凛さん、お目覚めですか?」

半透明のアバターが、心配そうに浮かび上がる。

人工知能アシスタント《エコー》だ。藤堂教授が支給してくれた最新モデル。遠慮したのだが、「君の特殊性を考えれば」と言われ断れなかった。

「ええ」


私──瀬川凛は、ベッドから体を起こす。

夜明け前のワンルームに、消毒液の匂いが漂っていた。

ネオ・メディカルシティの医師官舎は、病院並みに清潔なのだ。


15年前、母は謎の爆発事故で命を落とした。

世界的な言語学者であり遺伝子工学者でもあった母は、最期に私へ「これを」と、ニューラルリンク・オーディオインターフェース──NAIを託した。

その直後、研究所は炎に包まれた。


「母の声が、また聞こえたの?」

エコーが尋ねる。その声には、人工知能らしからぬ温かみがあった。

「ええ。いつもの悲鳴」

側頭部に埋め込まれたNAIが、微かに震える。

従来の人工内耳とは次元の異なるこの装置は、時々奇妙な反応を示す。

通常の機器では検知できない"何か"を拾っているのかもしれない。


【警告:高周波ノイズ検知】

【神経同期率:異常上昇】

【脳波パターン:未知の信号】

「また始まった」

ノイズと共に、断片的な声が聞こえる。

『気をつけて...凛...プロジェクト...彼らが...』

母の声なのか、幻聴なのか。

確かめる術もない。


「そろそろ診察の時間です」

エコーの声に、現実に引き戻される。

「今日の最初の患者さんは...」

そこでエコーの声が途切れた。

異常事態だ。

人工知能が言葉を詰まらせるなど。


「エコー?」

「申し訳ありません。患者データの暗号化レベルが通常より高く...」

それも異常だ。

この病院で、一般患者のデータが特別な暗号化を必要とするなど。

「名前だけでも」

「加藤陽子さん。8歳。言語障害による初診とのことです」


その瞬間、NAIが鋭く反応した。

【警告:神経同期率200%】

【未知のプロトコル検出】

【遺伝子共鳴現象発生】

まるで、母が何かを伝えようとしているかのように。


中央病院小児言語障害科の診察室。

「どうぞ」

扉が開き、小柄な少女が入ってきた。

その姿を見た瞬間、私の背筋が凍る。


長い黒髪。

大きな瞳。

そして──。

(私に、似ている)

いや、それ以上の既視感。

まるで15年前の研究所で見た、あの子のよう。


「実験体823」

言葉が、勝手に口をついて出た。

母の研究。

神の声計画。

記憶の遺伝子操作。

すべて、この少女に繋がっているような。


「おはよう、陽子ちゃん」

声をかけると、少女は静かに首を傾げた。

そして、私のNAIを見つめる。

次の瞬間、陽子の瞳が赤く光った。


モニターが警告音を発する。

バイオメトリックスキャナーの数値が跳ね上がった。

「これは...」

診察室のドアが勢いよく開く。


「おや、興味深い反応が」

藤堂悠教授が、不敵な笑みを浮かべていた。

母の元同僚であり、この病院の脳神経外科の権威。

その瞬間。


陽子が紙を取り出し、描き始めた。

波紋のような図形。

暗号のような文字列。

そして母の姿。

誰も知らないはずの、あの日の光景が、紙の上によみがえる。


「見つけましたよ、凛先生」

藤堂教授の声が、診察室に響く。

「貴方の母が、あれほど探し求めていた《被験体》を」

母の声が、また蘇る。

『最後のチャンス...計画を...止めて...』


全てが繋がり、そして全てが狂い始めた朝。

悪夢のカウンターは、8721を指したまま、止まっていた。

【NAIシステム:進化的適応を開始】

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