記憶声図 -音神の囁き-

@koe-rin

プロローグ「静かな日々の終わり」

第0話「静かな日々の終わり」

誰かの声が聞こえる。

私は窓際に立ち、春の風に揺れるカーテンを見つめていた。ネオ・メディカルシティの朝は、いつも静かに始まる。


「凛先生、今朝も早いですね」

同僚の佐伯先生が、優しく微笑みかける。彼の白衣姿は、いつも清潔感に満ちている。


「ええ、今日は新しい患者さんが」

返事をする私の耳に、微かなノイズ。NAI(ニューラルリンク・オーディオインターフェース)が、何かを感知したように震える。


【システム起動:正常】

【バイタル:安定】

【音声認識:機能中】


15年前の事故で失った聴覚。

母が最期に遺してくれたこの装置のおかげで、私は音を取り戻すことができた。

そして今、言語聴覚士として、誰かの声を救う仕事をしている。


「そうだ、凛先生」

佐伯先生が、少し緊張した様子で声をかける。

「今度の休みに、よかったら──」


その時、廊下から走ってくる足音。

「凛先生!」

看護師の美咲さんが、息を切らせて飛び込んでくる。


「大変です!新しい患者さんが急に!」

私は佐伯先生に申し訳なさそうな表情を向け、すぐに診察室へと向かう。

彼の誘いは、また今度になりそうだ。


診察室では、小さな少女が母親と待っていた。

「おはよう。加藤陽子ちゃんね」

少女は黙ったまま、私のNAIをじっと見つめる。


その瞳に、見覚えがあった気がして──。

「凛先生」

エコー、私の専属AIアシスタントが声をかける。

「患者データの暗号化レベルが、通常より」


その時、陽子が描き始めた。

スケッチブックに描かれていく図形は、まるで音の波紋のよう。

そして私は、その波紋の意味が分かった気がした。


母が遺した最後の言葉。

研究所での爆発。

そして──。


「失礼します」

ドアが開き、藤堂教授が入ってくる。

彼の表情に、いつもと違う何かを感じた。


この日が、全ての始まりだった。

平穏な日々に、小さな亀裂が入る瞬間。

私は、まだ知らない。

これから自分が直面することになる、途方もない運命を。


でも、きっと大丈夫。

この仕事を選んだ時の気持ちを、私は忘れていない。


誰かの声を救いたい。

その想いだけは、どんな時も変わらないから。

窓から差し込む朝日が、優しく診察室を照らしていた。

まるで、これから始まる物語を祝福するように。

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