第23話


 真っ白な空間だった。目の前にもやが立っている。薄黒くて虚ろな靄。あれはなんだろうか。

 体が動かなかった。足が地面に食い込んでいるみたいに重くて、前に重心をやると倒れてしまうような感覚があった。だからその場に立ち尽くして、ジッとその影を見つめる。

 奇妙な感覚だ。ソレがなんなのかハッキリしないのに、頭の中にはその表情がくっきりと思い浮かぶ。それは極めて、本当に不思議な感覚だ。

 そっちに行ったら落ちてしまうよ。深く見えない谷底に。影に手を伸ばしても、ソレは何もしてこない。

 その靄は、何を見ているのだろうか。俺を見つめているようで、本当は違う何かを見ているような気がして。


―♪―


 聞きたくないサウンドが鳴り響く。その元凶であるスマホを探しだし、イラつきながら音を止める。意識が覚醒していくと同時に、頭にのしかかる痛み。自分が眠っていたということを理解するのにも少し時間を要した。酒を飲んだ後特有の夢を見た気がするが、イマイチ思い出せない。まあいいや。

 体を起き上がらせると、ガンガンと頭を締め付ける力が強くなった気がする。どうやらソファの上で寝落ちしていたようだ。部屋の中は真っ暗で、開けっぱなしのカーテンの奥には明かりの点いたマンションが並んでいる。


(頭いってえ……)


 桜野とのランチは、結局飲み会になってしまった。互いに酒が強いこともあって、あの安いワインマグナムを2つ空けてしまったのだ。サイゼを出たのが15時過ぎとかで、それから帰宅してすぐに落ちた。完全にミスった。

 でもスマホのアラームをセットしたのはナイスだった。これが無かったら絶対に起きられなかったはず。立ち上がって冷蔵庫にあるペットボトルのお茶を飲むと、口の渇きが一気に消えていく。


「飲み過ぎた……今から出ないとなのに」


 こう言っても、完全に自分のせいだということは分かっている。ただ言葉にしないとやるせなくて、このイラつきを消化できなかった。

 スマホの画面を見ると、17時45分を過ぎていた。やべえ。あんまりのんびりもしてられない。かと言って特に準備することもない。すぐ出られる。店は……歩きながら電話して予約するか。

 もう一度お茶を飲んで、洗面所で顔を洗う。目やにが付いていないかとか確認して、朝と同じ格好で家を出た。約束の18時は微妙に過ぎるかもしれない。


 ――私、長く待たせるの嫌だからいつもちょっと嘘吐くの。ほら、伝えた時間より早く来てくれた方が嬉しいでしょ?


 ふと桜野の言葉が頭をよぎる。……一応、メッセージ送っておくか。

 日差しが無くなったせいで朝よりも空気が冷たかった。スマホでメッセージを打ち込む手がかじかむ。


『すみません、5分ほど遅れます。ほんとごめんなさい!』


 そのまま駅前の居酒屋に電話する。普段なら厳しい時間帯だけど、元旦ということもあってカウンター席で予約ができた。ラッキー。

 スマホをコートのポケットにしまおうとすると、ぶるりと震えた。タイミング的に彼女だろう。


『寝坊ですね。分かりました』


 別に寝過ごしたわけではない。ギリギリに起きてしまっただけだ。

 歩くスピードを速める。暗い道を歩いていると、佐富士初夏の姉である冬子さんに声を掛けられたあの日を思い出す。ついこの間のことなのに、かなり前の出来事みたいだ。年明けから仕事って言ってたから、もう長崎にいるんだろう。ほわほわした人だったし、あの人が俺の3つ上とは思えないな。


 さっきまでの頭痛も、この外の冷気に触れて少しはマシになった。寒いのは寒いんだが、酒が残っていることもあってめちゃくちゃ心地が良かった。

 ただ真っ直ぐ駅を目指す。早歩きのおかげで、結局18時前には着くことになった。そして佐富士初夏は、昼間に俺が桜野を待っていた場所と全く同じところに立っていた。


「ギリギリセーフですね」


 彼女はスマホに視線を落としていた。俺は桜野と同じように顔を覗き込むように声を掛けると、彼女の視線が俺に向けられる。


「きゃあ!!!」


 それは純粋な叫び声である。男の俺とは違って、高い声はよく響く。それはつまり、道行く人たちの視線を集めることを意味した。

 無論、好奇な目で見る人もいるが、大半は俺に対する疑いの視線。公共の場で女性が叫ぶということは、何か犯罪に巻き込まれた可能性を想像するのは簡単だ。


「ちょ、ちょっと驚きすぎですって……!」

「ご、ごめんなさい……本当にびっくりして……」


 佐富士初夏で間違いなかった。相当驚いたのか、肩で息をしている。さすがにそこまでとは思わなかったが、ここで無理をさせるわけにはいかない。


「い、いや、急に声を掛けた俺が悪かったです。とりあえず落ち着きましょう」

「す、すみません」


 毒気のある彼女はどこかに消え失せ、今は素直に俺の言うことに従っている。反論する余裕がないと表現するのが正しいと思うが、これぐらい素直な方が男心をくすぐるのもまた事実だった。


「お、思ったより早かったですね。それでビックリしちゃって」

「あ、ああまあ。一応連絡したってだけなんで……」


 昼間と同じだなこりゃ。立場が反対になっただけで。

 彼女も落ち着きを取り戻したようで、瞬間目線がキリッとしたものに変わる。


「居酒屋予約してるんで、行きましょ。カウンターしか空いてなかったですけど」


 足を居酒屋の方に向けると、隣にピタッと付いた彼女が口を開く。


「……お酒飲んでますね。それも結構」

「え?」

「昼間より、テンションが高いので」


 俺としては普通のつもりだが。何を思って『テンションが高い』なんて言ってくるのか。確かに酒は結構飲んだ。そのせいでむしろ頭が痛くて本調子ではない。


「まあ飲んじゃったのは事実です。テンションは普通じゃないですか?」

「少し浮かれているようにも見えます」

「それはアナタと飲めるからじゃないですか?」

「そういうところです」


 彼女の言う通りかもしれない。こんな軽口が出てくるということは、自分が思っている以上に酒が回っているようだった。

 まあ仕方ない。二日酔いをしているわけでもないから、ここはでテンションを落ち着けよう。

 そうして俺は予約した居酒屋に消える。これから面倒ごとに巻き込まれるとも知らずに。


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